Ⅲ章―第7話 海の向こうへ(1)
翌日も、朝から音も無く小粒の雨が舞っていた。冬の気配は既に遠のき、聖廟の周りの地面には、緑の草の芽が芽吹き始めている。記念碑の周りには、フロウライトの花が雑草の間にぽつぽつと見え隠れしている。しゃがんで余計な草を取り除いているだけで、時間はどんどん過ぎてゆく。
こんな風に何も無い日は、久しぶりに思えた。
ただ、それもきっと長くは続かない。「船が到着する」とヤルダバオートは言っていた。――本土からの船、という意味だ。
だとしたら、今のうちにやれることはやっておかなければ。
(聖廟の掃除はしたし、管理人小屋の火の始末もした。あとは…)
考えながら、立ち上がった時だ。
「ロビン!」
「え?」
呼び声に振り返るより早く、目の前に何かが飛び込んできた。
「本物いたぁ~!」
「え?!」
胸の中に、どさっと体重がのしかかってきた。赤毛が宙に舞う。
「…アリス?」
「うええ、会いたかったよお~」
少女は涙まで滲ませながら、うろたえているロビンにしがみついて離れない。
「げ…元気そうだね」
「元気じゃないよー! 大変だったんだからぁ、家のみんな倒れちゃっててぇ。看病しててえ。でも、もうすぐ春休み終わっちゃうから会いに来たぁ~」
(『悪魔』が出た時に…そうか)
しがみつかれたまま、ロビンは冷静に思い出していた。養護院でも、しばらくは精神的な疲労が抜けずにいつものように動き回れないでいる子どもたちが多かった。おそらく、意志の強さが関係しているのだ。アリステアの家は執事やメイドなど働いている人も多いし、そのぶん、体調を崩した人も沢山出たのだろう。
「ロビンは平気だった~? てか、今日ちょっと元気なくない?」
「平気だよ。ここのところ、色々あったから考えることが多くて」
「えっ何? 悩み?」
「うーんまあ。でも、どこから話していいか分からないから。あ、…それより、ほら見て」
記念碑の周りの地面を指差す。
「フロウライトの花が咲いたんだ。前に、名前を調べてもらったよね」
「え? …うっわぁ! すごーい、きれい~」
アリステアは地面にしゃがみこんで、弾けるような笑顔で花弁に触れる。
「ほんとに宝石みたいなんだぁ~!」
喜んでいるのを眺めていると、こちらまで楽しくなってくる。これまでに体験してきたことも、これから起きることも、すべて遠い世界の出来事だったような錯覚を抱きかけてしまう。
けれど、それは聖廟のある区画を囲む高い壁の中の、狭い空間にしかない一瞬の”平穏”だ。
この花は壁の外側には咲いていない。この時間も、そう長くは続かない。
『時間だ』
頭の中で声がする。無言に視線だけで頷いて、ロビンは、首に架けていた古い聖十字を外した。
「アリス」
「ん?」
「これを、預かっててほしい。」
アリステアの手をとって、それを載せる。
「え、すっごい古そう…大事なものだよね?」
「うん。友達…親戚の、リアン・レクストールから借りてるものなんだ。返しに行かなくちゃならないんだけど、その暇がなくて」
「暇?」
「マークス先生に、鍵は管理人小屋の机の上に置いてあるって伝えてくれる? それで分かると思うから」
「え、待って待って。言ってる意味が分からない――」
言いかけたアリステアは、聖廟の区画と教会の内部を繋ぐ鉄柵の扉を押し開いて、数人の人物がこちらに向かって来るのに気づいてて表情を強張らせた。先頭にいる数人は、ロビンにも馴染みのある、白い仮面と灰色のローブを身につけている。
「異端審問官…どうして…」
「ロビン・フロウライトだな」
仮面をつけていないうちの一人、小太りで口ひげを蓄えて、どこか偉そうな男が、巻物のようなものを示しながら淡々と告げる。この辺りでは見かけない色をした聖職者の衣装を着ている。
「法王庁からの召喚命令だ。一緒に来て貰う」
「分かりました」
いつの間にか、左右と背後が人で取り囲まれている。挟まれるようにして、ロビンはゆっくりと足を踏み出した。
彼らは、声も出せずにいるアリステアのほうには目もくれない。
ロビンも、敢えて声をかけようとはしなかった。
何が起きるかも分からない。必ず戻ってくるという約束をする勇気は、今は出せない。
雨霧が街を包み込み、静かに大地を濡らしている。
教会を出て車に乗り込み、街を出る間、周囲の人々は無言のままだ。
やがて、行く手に大港が見えてきた。大きな黒い船が待っている。いつも見る、本土との連絡船とは違うようだ。
船の前にはちょうど、別の車も停まっていた。従者に手を借りながら降りてくるのは、キュリロス主教だった。すぐにこちらに気づいて、何か言おうと口を開きかける。
「おお、ロビン。お前さん――」
「ここでは会話をなさらぬよう」
傍らにいた小太りな男に咎められ、キュリスは、強張った表情のまま口を閉ざした。ロビンは軽く会釈だけをして、先に船に乗り込んでいく。
(この扱い…あんまり、友好的じゃ無さそうだな)
それとなく、船の乗客を見回した。
一般客はいない。本土の教会関係者と、軍隊のような装備を身に着けた人々。何を警戒しているのだろう?
通された先は狭い客室で、入り口には見張りらしき船員が立っている。
いつの間にか、異端審問官の格好をした人々は離れていた。残っているのは、最初に巻物のようなものを掲げていた男だけだ。
「この部屋の中では自由に過ごしていただけます。勝手に外には出ないよう。手洗いは、部屋の端のそこの扉の先です。夕食時には――」
「あの。これから、どこへ行くんですか?」
言葉を遮られ、男は、不機嫌そうに微かに眉を吊り上げた。
「法王庁のあるアカモートです。船が本土に到着したら、そこから陸路で半日ほど。あなた方には、関係者として聞き取り調査に協力していただく。」
(なるほど。…ってか、異端審問ってはっきり言わないんだな)
ロビンは、さっき見た異端審問官の格好をした人々のことを思い出していた。まさか自分が、連行される側になる日が来るとは。
(…『裁き』の聖霊の感じがしたのは、二人だけだった。残りの一人は、『認識』の聖霊かな? 島での組み合わせと同じだ。それと…)
男は、聞いていないロビンの前で事務的にこまごまとした説明をして、さっさと部屋を出て言ってしまう。ロビンとしても、そのほうが好都合だった。
(ヤルダバオート。この船、もしかしてどこかに『秩序』の聖霊の気配がある?)
『ある。他の聖霊の気配は薄いが、一人だけ妙に気配が濃いな。お前と良くつるんでいる異端審問官と同じくらいだ』
(ヴィクターさんか。てことは、結構使える人? さすがに、枢機卿…じゃあないよね)
『人間が決める肩書までは分からん。』
船全体が低く振動し始めている。出港するようだ。通常の定期船なら夜までお客を待つが、この船はもう、必要な人物は回収し終えたのだろう。
ふと、窓の外のきらめきに気がついて、丸窓の外を覗いたロビンは、声を上げた。
「…うわあ!」
青く波打つ広い海が、窓の外一面に広がっている。
「すごいな、海だ…船、乗るのって初めてなんだよね」
『やれやれ。こんな時だというのに、お前は相変わらずだな…』
これから一度も行ったことのない本土に、異端者として連れて行かれるところだというのに、不思議と、不安はあまり無かった。何が起きてもきっと、どうにかなるような気がしていた。
目の前に果てしなく広がる青い海原は、大昔、女神ソフィアとその子である聖霊たちから教えを授かった、最初の”使徒”たちが伝道のために越えていった道。
そして、およそ百年前、貧しい農民の青年が、忘れ去られた聖霊の名とともに渡って行った場所。
希望と使命を抱いて島を出ていった彼らの誰一人、二度と戻っては来なかったのだが。
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