第23話 たった一人、
知恵熱のような高熱にうなされて、いちかは中学校を一週間休んだ。夏の高熱は中々下がらず、随分と苦しい思いをした。
見る夢は覚めれば内容を覚えていないような悪夢で、何度もうなされる。
たくさん汗をかいても身体は冷えず、肌に濡れた衣服が吸い付いて気持ちが悪かった。
頭の奥に熱が籠もり、意識が朦朧とする。
とてもだるくて腕を持ち上げるのも辛かった。
今は一人の自宅で、いちかは一人高熱に耐えていた。母親のみちが心配しないように、入院する病院にいちかは風邪を引いた旨を電話にて連絡してある。
みちは白血病を患っていた。
七月に入った最初の金曜日、みちの骨髄ドナーとなってくれる人が見つかった。
今は、骨髄移植後の経過観察で入院している。5ヶ月もすれば退院できると医師から聞いて本当に、本当に嬉しい。
喜び、浮かれ、そしてしぶきに一番に伝えるべきだと思って気持ちが落ち着いていなかったのだろう。よりによってあの手紙を、100ページ目から3ページずれてしまった。
自殺を計画した日のギリギリに思いとどまる理由ができたことなど要因はいくつもあって、いちかはしぶきを死なせてしまったのだ。
寝込んで一週間目の夜のこと。
ようやく熱も下がってきて、幾分かは頭が冴えてきた。電気の明かりすら付けずにいちかはベッドの上、自室の天井を見つめていた。窓の外からは気の早い秋の虫が鳴き始めている。銀色の月灯りが部屋を白く染めていた。静かな夜だった。
「…。」
そっと息を潜めて耳を澄ましていると、家の階下からぴちょんと水が定期的に滴り落ちる音が鼓膜を突いた。気になり出すと気持ちが悪く、いちかは僅かに重く感じる身体を起こしてベッドを出た。
ひたひたと裸足の足音が廊下に響く。階段を降りて、音のする方へと向かうと出所は台所の水道の蛇口からだった。夕食のお粥を作るために使った水道の栓が甘かったようだ。きゅっと高い音を立て水栓をきつくしめる。
ふう、とため息を吐いて、食卓の椅子に腰掛けた。
明日からは学校に行けそうだ。教科書の準備をしなければ。セーラー服に染みついた汗も乾いたはずだと思う。学校の帰りにはみちが入院する病院に見舞いに行こう。
「あれ…、」
ほろりと涙が零れた。もう幾度流しただろう。最近では、無意識に涙が出てしまう。
ぐい、と手の甲で涙を拭うといちかは立ち上がって、洗面所へと向かった。途中に立ち寄ったみちの部屋で借りた裁ちばさみを手にして。
洗面所の鏡の前に立つと、ひどい顔をした自分自身と目が合った。瞼は腫れて、頬の皮膚は紅くなって荒れている。いちかはお気に入りの猫っ毛を一房手に取った。柔らかくて、色素の薄い髪の毛をもう片方の手で握っていた裁ちばさみでその長さを絶った。ザク、と低く重い音が響く度に身体の芯が震えるようだった。
ある程度の短さまで切って、肩に残った髪の毛の残滓を手で払う。パラパラと一本ずつ線のように散っていった。
「これで、いい。」
これからも生きていくために、いちかは今の自分を捨てることにした。
髪を切り、筆跡を変えよう。伸びた母の寿命が尽きたとき、私は一人で生きていこう。
そして、私もしぶきのようにたった一人で死ぬのだ。
「春原しぶき。私の旧姓は、春原。」
しずくが姉の名前を口にした瞬間から、いちかの顔色は真っ青を通り越して真っ白になった。その変わりように、しずくは心配していちかの顔を覗き込む。
「…いちか?どうしたの、大丈夫?」
「…え?」
いちかはどこか遠くを見るように、しずくを見る。
「具合悪いの?」
しずくはいちかの額に手のひらを当てる。あるとおもった熱は存外低く、ひやりとするようだった。もしかしたら、貧血気味なのかもしれない。
その後もいちかは口数少なく、ゆっくりと更衣をした。見るとシャツのボタンをかけようとする指が震えている。
「いちか。ボタン、やってあげるよ。」
そう告げて、しずくはいちかの前に立った。そっといちかの胸元のボタンに手を触れる。時折、無自覚に指先が触れるいちかの胸の膨らみに、しずくは緊張する。
雲の隙間、窓から月の光が差した。しずくがそっといちかの顔を見ると、彼女は無表情だった。白く照らされた頬に生気が無く、まるで人形のようだ。
先ほどまでの緊張は解けて、しずくの胸の内にいちかに対する心配の情が満ちていく。
身内の自殺の話が悪かったのか、それともしずくの明らかな悪意にいちかは引いてしまったのか。
「いちか。いちか、ごめんね…?」
しずくは堪らなくなって、いちかの背を抱いた。ぎゅう、と強く背に回した腕に力を込めて、いちかを抱きしめる。
「いきなりこんな話をして、驚いちゃったよね。」
「…ううん。」
いちかがそっとしずくの身体を押し返す。恐々といちかを見ると、彼女はその顔に笑みを称えていた。
「つらいことを話してくれてありがとう。」
その笑みの裏に隠された深い絶望に、しずくは気が付かなかった。
しずくはほっと胸をなで下ろして、いちかの手を引いた。
「もう行こう。夜が明けそう。」
「うん。」
そう言って、更衣室を出ると東の空の色が僅かに紫がかっていた。どうやら夜明け前の一番暗い時間帯を過ぎたようだ。
合宿する校舎へ戻るルートも二度目だと、慣れてさくさくと歩を進めることができた。茶道部の和室に戻ると、瑞穂が深い寝息を立てぐっすりとまだ眠っていた。二人はそれぞれの布団に潜りこむと、小さな声で「おやすみ」を言い合って就寝するのだった。
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