第6話 シスター

高校前のバス停を降りたいちかは生徒たちの流れを縫うように進み、図書室へと急いだ。図書室の前につくと深呼吸をして、乱れた息を整える。

―…彼女はいるだろうか。

ドキドキと心臓が脈打つのを感じながら、重い引き戸に手をかけた。

「あ、いちかちゃん。おはよう。」

今日の朝の図書当番である友人がいちかに気づいて、声をかける。

「あ…、うん。おはよう。」

いちかはしずくの姿を探して、図書室を見渡す。しずくはいつもの定位置で読書に勤しんでいた。

友人と軽く会話を繰り返した後に、いちかはしずくに近づいた。

静謐な彼女の横顔に声をかけるのをためらいつつも、いちかは自然体を装って斜め前の席に腰掛けた。それでもしずくは気づかないので、いちかも読みかけの文庫本を読んで待つことにした。

本を読み始めると熱中して周囲が見えなくなるのが、いちかの悪い癖だ。区切りのいいところまで読み、ふっと顔を上げるとしずくが本を机に伏せ頬杖をつきながらいちかを見つめていた。

「おはよう、尾上さん。」

にこっと笑みながら、しずくはいちかに朝の挨拶をする。待っているつもりが、いつの間にか立場が逆転して待たせてしまったようだ。

「お、はよ。」

いちかがどぎまぎと挨拶を返すと、しずくが席を立って隣に越してきた。

「何の本?おもしろい?」

今日は下ろしている髪の毛を耳にかけつつ、しずくはいちかの手元をのぞき込む。その瞬間、ふわりとしずくのシャンプーの香りがいちかの鼻腔をくすぐった。甘くて、それでいて清涼感のある柑橘系のものを使っているようだ。

「…うん、おもしろいよ。今度、貸そうか。」

「いいの?貸して、貸して。」

しずくは嬉しそうに両手を合わせる。昨日までは接点が無いと思っていたのに、まるで世界が一変したみたいだ。

「あの、譲羽さん。今日の放課後って時間あるかな?」

「放課後?部活があるけど…、何?」

問いの答えに、いちかは慌てて手のひらを左右に振った。「あ、それならいいの。気にしないで。」

「気になるじゃない。」

しずくは小首を傾げながら、教えて?といちかに乞う。

「…昨日のお礼に、甘味処でごちそうしたいなあって。」

いちかが申し訳なさそうに下を向いて告白すると、しずくは嬉しそうに手を叩いた。

「えー?いいの?嬉しい。行こう、行こう。」

顔を上げてみれば、しずくは喜々としてスマートホンを取り出すところだった。そして素早く画面をタップすると、いちかに向き合う。

「これで、オッケー。」

画面を覗かせてもらうと、会話アプリの連絡網らしきグループにしずくのアバターで『欠席しまーす』というあっけらかんとした言葉と、可愛らしいキャラクターのスタンプが貼ってあった。

「え、ええ?大丈夫なの?」

帰宅部のいちかには部活動を休む感覚がよくわからなかったが、戸惑いながらしずくに問う。

「平気、平気。部活ったって、軽音部だもん。音楽祭が目前でもあるまいし。」

スマートホンの画面に通知ありのマークがポコンッとつく。思わず釣られて画面を見ると、部長と名乗るアバターから『了解なり~』とこれまた緩い返事があった。

「ほら、ね?」

「…うん。よかった、のかな?」

いちかが軽音部の部員たちの関係性に感心していると、しずくはあっと声を上げた。

「ねえ、私たちもつながろうよ。連絡先。」

そう言うと、いちかにもスマートホンを出すように促す。「あ、う、うん!」

いちかは頷くと、慌てて制服のポケットからスマートホンを取り出すのだった。

無事に連絡先の交換を終えると丁度、予鈴のチャイムが鳴った。隣り合った教室まで向かい、扉を前に二人は別れた。

授業中にこっそりとマナーモードにしたスマートホンでやりとりをして、教室前で放課後に落ち合う約束を取り付ける。いちかは早く放課後にならないかな、とその日はずっと気持ちがふわふわしていた。

長く感じたホームルームを終えて、ようやく解放される。いちかが慌てて教室に出ると、すでにしずくが廊下の窓に寄りかかるようにして立っていた。僅かに開かれた窓から風に吹かれて時折、しずくの黒髪が遊ばれる。

「待たせてごめんね。」

いちかが近づくと、しずくは小さく手を振って迎えてくれた。

「そんなに待ってないよ。さて、行こっか。」

連れだって歩き出すと、背の高いしずくにエスコートされるようだった。階段で先に下るしずくがようやくいちかより目線が下になる。

「譲羽さんって、背が高いよね。」

「そだねー。今、167cmでまだ成長してるよ。」

実際の数字を聞いて驚き、まだ身長が伸びていることにも驚いた。いちかの身長は156cmで中学生の時期に成長を止めた。

「家族で皆、背が高いの?」

「んん?お父さんが背が高いけど、お母さんは普通?かな。」

しずくは首を傾げつつ答える。

「そっか。じゃあ、お父さん似なんだ。」

「女子としては複雑です、ハイ。」

階段を下り終えると、途端に目線は上がった。

白樺並木を抜けて校門を出ると、今日はバスに乗らずに歩く。丁度良く二人の進行方向が同じで良かったと思う。甘味処はバス停二つ分ほど歩いた先にあった。

ゆっくりとした歩調で、靴音が二人分響く。道路の脇には沢があり、目下、涼しげな水が流れる音が聞こえた。

しばらく歩くと木々の間に、江戸時代の旧家のような建物が見えてきた。目的の甘味処『宵待ち堂』だ。

入り口横に置かれたガラスケースのサンプル品を横目に、店名の書かれた暖簾をくぐる。店内では和服姿の店員さんが給仕をしていて、いちかとしずくに気が付いてすぐに席に案内してくれた。

「譲羽さん、何にする?」

いちかはお品書きを見ながらしずくに問う。

「そうだねえ…、あ、そうだ。朝はごちそうしてくれるって言ったけど、尾上さんの分は私がお金出すからね。」

「え?でも、それだと意味がないんじゃ、」

しずくの言葉に驚いていちかが顔を上げると、つん、と額を人差し指で突かれた。

「いーの!私がそうしたいんだから。じゃなきゃ、帰る。」

「ええー!?」

一瞬どうすべきか迷い、しずくを見るとどうやら意志は固いらしく、いちかを見る目は真っ直ぐだった。

「…わかった。じゃあ、そうしよう。」

「ちなみに遠慮するのもなしだから。」

しずくに先に釘を刺されて、いちかは降参するのだった。「クリームあんみつに、白玉追加で!」

早々にメニューを決めたしずくが手を上げて高らかに宣言する。

「私は、抹茶パフェと温かい緑茶をお願いします。」

いちかもそれに続き注文を終えた。給仕の店員さんが去ると二人は前の話を再開する。

「尾上さんってお父さんとお母さん、どっちに似てるの?」

「多分、お母さんだと思う。私の家、お父さんがいないからよくわからなくて。」

先に出された水に浮いた氷が、カロン、と涼しげに揺れた。「私が生まれる前に、事故で死んだって聞いてる。」

いちかが答えると、しずくがごめんと呟いた。

「そうだったんだ…。うちはね、離婚しててさ。私はお父さんと、暮らしてるんだー。」

父親は婿入りだったらしく、一度、名字が変わったという。「そっかー。人生、色々だよねえ。」

片親という似た生活環境に、いちかは共感を得る。

「双子のお姉ちゃんもいるけど、今は遠くにいるんだ。」

「ふうん…?」

しずくは過去を懐かしむように目を細めた。母親に引き取られたのだろうか、といちかは思う。

「注文の品、お待たせいたしましたー。」

朗らかな声と供に、目の前に甘味が並べられる。しずくは途端に目を輝かせた。

「きたきた!美味しそう!」

両手を叩いて喜び、早速スプーンを手にする。そしてアイスクリームとあんこを一緒に掬い、一口頬張った。

「おいしー!尾上さんも、溶けちゃう前に食べな?」

「うん。」

目の前に出された抹茶パフェの生クリームを掬って、口に含む。粉状の抹茶の渋みと柔らかい牛乳の甘みが口腔内に広がって、するりと溶けていく。自然と頬がほころんでしまうのを感じた。

「冬はお汁粉もいいよね。あ、白玉一個あげる。」

そう言うと、しずくはスプーンに白玉をのせてお裾分けをしてくれた。

「いいの?じゃあ、私は抹茶ソフト。」

いちかも抹茶味のソフトクリームを掬って、しずくの茶碗型の皿に添える。

「ありがとう。すごい、豪華になった。」

しずくはフルーツを残して、あんこや寒天を先に食べていく。

「私、好きなものは最後にとっておく派なんだ。今日のメインディッシュはさくらんぼ。」

毒々しいまで赤く、そして甘いさくらんぼを楽しみにするしずくは何だかとても可愛らしい。いちかは微笑ましく、うふふ、と声を漏らす。

「? どうしたの?」

「あ、ごめんね。私、今まで譲羽さんのこと、クールで大人っぽい人だなあって思っていて。」

しずくは、ややあと頷く。

「幻滅した?」

「好感度が上がった。」

いちかの正直な言葉に、しずくは鈴の音のように笑う。

「よかった!」


甘味処を出て、二人は最寄りのバス停で帰りのバスを待っていた。日中の暑さの名残を残して、生温い風が肌を撫でる。電線が夕刻の空に黒くラインを引いて、ひまわりが太陽を惜しむように揺れていた。チカチカ、と音を立て、街灯が光りだす。途端に影の色が濃く、鮮明なものになった。周囲はカエルや虫たちの合唱が轟き、存外にも賑やかだ。

「今日は、ありがとう。楽しかった。」

いちかがささやくように呟くと、しずくも同意するように頷いてくれた。

「私も。ねえ、尾上さん。」

「何?」

仰ぐようにしてしずくを見ると、優しくいちかを見つめる視線とぶつかった。

「夏の間だけ…、」

一陣の風が吹いて、しずくの言葉をさらっていく。

「ごめん、譲羽さん。もう一度、」

言って、と言いかけると、ふっとしずくがいちかの耳元に唇を寄せた。


―…私のお姉ちゃんになって。

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