第7話 水喰み

最初はただの戯れだった。

私のお気に入りの本に、誰か気づいてくれないかなと思った。年号を三つほど遡った頃に発表された作品、『水喰み』は図書室の最奥に隠れるように、埋もれるように棚に収まっていた。私だけが知っているようでそれはそれで気分が良かったが、やはり、自分以外の誰かにも手に取ってほしかった。

私はふと思いついて、ノートの切れ端に手紙を書くことにした。

【読んでくれて、ありがとう。】

『水喰み』を読んだ読者に向けてのたった一言の手紙。まさか、返事をもらえるとは思わなかった。

葉っぱのフレディが寂しがりそうな秋の終わり、私は幾度となく読んだ『水喰み』を手に取った。その場で立ったまま、パラパラとめくってみると100ページ目に到達すると、はらり、と一枚のメモ用紙が落ちた。何だろうと思いつつ、何気なくそのメモ用紙を見る。

【おもしろかったよ。私のおすすめも読んでみて。】

私はそのままおすすめされたタイトルの本を図書室で探した。が、中学校の図書室にはなく、私は町の図書室に赴くことにした。

日曜日、開館の時間丁度に図書館に訪れた私は本を探し出す。ようやく手にした本を借りて、家に帰ってベッドに寝転びながら開くとまた紙片が落ちた。カサカサと音を立てながら折りたたまれた紙片を開くと、そこには以前見た筆跡で手紙が認められていた。

【見つけてくれて、ありがとう。また、『水喰み』の100ページ目で会いましょう。】

私にしかわからない内容だった。

こうして、私と彼女は本を通して往復書簡をすることとなったのだ。



「…お姉ちゃん?」

いちかはしずくの呼気がかかる耳をそばだてながら、聞き返した。

「そう。私の、双子のお姉ちゃん。」

顔が見えず、しずくの表情が伺えない。だけれど、その声音は優しく甘かった。くすぐったくてたまらなくて、いちかは思わず肩をすくめてしまう。

「尾上さんって、遠くにいる私のお姉ちゃんによく似てる。私ね、お姉ちゃんが大好きなの。だから…、お願い。夏の間だけ、私のお姉ちゃんになってくれないかな。」

いちかの身長に合わせるために僅かに猫背になって、しずくは甘えるように懇願する。

「…ね、だめ?」

風の音や虫の声が邪魔をしない距離で鼓膜に直接響く、しずくの声。いちかの体温が耳元に集中するようだった。熱くて、またのぼせそうだ。しずくの髪の毛が揺れて、頬に触れる。そのささやかな刺激にいちかは吐息を漏らした。「い、いよ…。」

吐く息と供に、いちかは了承の言葉を紡いでいた。

「嬉しい。ありがとう。」

そう言うとしずくは、いちかの頬に、すり、と自らの頬を寄せた。そして顔を上げたかと思うといちかの反対の頬に、もう一度頬を寄せて触れるのだった。

いちかは突然のことに心臓の鼓動を早めながら、思わず頬を両手で覆うのだった。

「チークキスだよ。欧米流の親愛の証。」

驚くいちかの表情を見てしずくは、くくく、と鳩のように笑う。

「いちか。」

しずくは笑みを零しながら、慈しみを込めて名前を呼んだ。嬉しそうに、発音を確かめるように、何度も「いちか」と口にする。

「も、もういいよ。譲羽さ、」

いちかの唇に人差し指の腹を当て、しずくは続きを拒んだ。「名前で呼んで。姉妹が名字呼びじゃおかしいでしょ。」

「…しずく?」

ガラス細工を扱うように慎重にいちかの口から紡がれた自らの名前を聞いて、しずくは満足そうに頷いた。

「うん。なあに、いちか。」

やがてバスのライトが道路を明るく染めるまで、しずくは上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。


先に降りるいちかを、バスの中でしずくは見送る。いちかはバスが道の角を曲がるまで、手を振ってくれていた。

最後尾の座席でしずくはついさっきのことを思い出す。思わず、頬がほころんでいた。

小柄で、可愛らしい印象のいちかのことは皇高校の入学式の日から、目で追っていた。

それは麗らかで、暖かい日和の4月のことだった。

高校の体育館周りに植えられた桜が満開に咲き誇り、はらはらとまるで温かい雪のように頭上から降り注いでた。しずくは空を仰ぎ、春の日向を全身で感じていた。陽光の眩しさに目を細めていると、制服の裾を、つん、と誰かに引っ張られて我に返る。

『これ、足下に落ちてたよ。』

そう言って、新入生が胸につける花飾りを手のひらに乗せて差し出してくれたのが、いちかだった。

『つけてあげる。』

いちかはしずくのジャケットの胸元をその花飾りを以て、彩った。

『これで、よし。』

右、左と角度を変えて確かめると、満足そうにいちかは微笑む。

『新入生の皆さんは、並んでくださーい。』

しずくが感謝の言葉を紡ぐ前に、高校の教員によって遮られてしまう。

『いちかちゃーん、行こう!』

すでに友人を作っていたいちかは、その声の主の元へと駆けて行ってしまう。しずくは一人、いちかの跳ねるように揺れる色素の薄い髪の毛を見送った。子猫のように柔らかそうな毛質は自分にないものだったので、しずくは羨ましく感じるのだった。

いちかはきっと覚えていないだろう。

次に会ったのは図書室だった。図書委員の腕章をつけて、いちかは日当たりの良いカウンターの椅子に腰掛け読書をしていた。

伏せられた瞳を縁取る睫毛は長く、光に透けてアンバーブラウンのように輝いていた。なめらかな頬は自ら光を発する大理石のように柔らかそうだった。そして何より、いちかの穏やかな呼吸の音が不思議と心安らいだ。

本が好きなのだろう。いちかは見るたびに違う本を読み、時に笑みを浮かべ、時に涙を瞳に滲ませる様子は彼女の感受性の強さを物語っていた。

知らず知らず、目で追うことが多くなった。図書委員の当番の日を把握して、いちかがいる時間にわざと図書室に訪れた。交わす会話こそ一言二言ほどでも満足して、一日に一回会うことができたら何故かその日は良い日になる気がした。

銭湯で会ったとき、その細く華奢な背中を見てしずくは見惚れてしまい、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。この感情の名前に気づく素振りすら与えずに、しずくは何とか平静を装うことに成功した。

気恥ずかしくて、いちかの名前を初めて知るふりをする。いちかは自身の名前を知っていてくれたことが、たまらなく嬉しかった。

しずくの下手な演技をいちかは無邪気に信じてくれた。

そして今日、しずくの口からついに言葉が溢れ出た。表面張力を以てして、崩れた気持ちは呆気なく言葉と成す。

双子の姉はたった一人しかいないことは重々承知していた。だけど、だけれど。そのたった一人を乞う気持ちが姉妹の愛だと勘違いしたかったのだ。

ほころぶ口元を手で隠して、しずくは自らに落ち着けと言い聞かせる。そんな甘い心持ちに水を差す景色があった。

バスに揺られ、しずくは夜の山に溶け込むように存在する鉄塔を見つけてしまった。明日は七夕だ。

雨が降ればいいのに。

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