第16話 企みのナイトプール

いちかは各々に散っていく軽音部の面々を見送る。黒板の元に羽田と供に残された。

「…羽田先生とお話しするのは、初めましてですね。」

皇高校は選択授業があり、芸術分野はデッサン、習字、音楽に別れている。いちかは習字を選択していたために、音楽教師の羽田とは接点が今まで無かった。

「そうですね。尤も、僕は君の話をよく譲羽さんから聞いていましたが。」

だから初対面の気がしないんですよね、と羽田は言葉を紡ぐ。

「笑顔がすてきで、読書が好きな尾上さん。譲羽さんが部活動中に話してくれました。」

「中々、気恥ずかしいです…。」

いちかが唇をとがらせながら俯くと、羽田は陽気に笑う。

「時々、子どもっぽいという彼女の観察眼は当たっていたかな?」

「…しずくめ。」

そんなことを言っていたのか、といちかは唸った。

「君たちは、仲が良いんだねえ。」

「そう見えますか?」

いちかの問いに、見えるよ、と羽田は何度も頷いて見せた。「譲羽さんは君の話をし始めたときから、とても明るくなったからね。前の彼女は…そうだね、少し空気が固かった。」

当時を思い出すように羽田は眼鏡の奥の目を細める。

「入部したばかりの一年生のときは、心を許しているようで実は開いていなかった。どこかつたない役者のようなよそよそしさを感じたよ。本人は…無自覚だったかもしれないけれど。」

いちかはしずくを見る。しずくはギターを手に、瑞穂と談笑している。その姿は、心から今の時間を楽しんでいるようだった。

「譲羽さんのギターの音色に、春のような暖かさが滲むようになった。雪が溶けて、生命が芽吹く奇跡の季節。まさしく春だ。」

先ほどのしずくの演奏をいちかは思い出す。確かに、手先の指元からじんわりと温まるようなギターの旋律だった。

「今回の合宿で彼女が作る歌を当てて見せようか。」

羽田は子どもに戻ったかのように笑みながら、言う。

「きっとラブソングだよ。」

「ラブソング…。」

愛の歌。しずくは何を思い、どんな愛を楽譜に落とし込むのだろうか。

「いちかー?こっちおいでよ。」

瑞穂と話していたしずくが振り向いて、いちかを呼ぶ。

「いってらっしゃい。尾上さん。ああ、そうだ。」

しずくの元へと行こうとするいちかに、羽田は声を潜めた。「予想の話はナイショだよ。譲羽さん、恥ずかしがり屋だからね。」

にこにこと穏やかに微笑む羽田に見送られて、いちかはしずくの元へと行く。

「羽田先生と何を話してたの?」

「ん、色々。」

何気なくした質問だったのだろう。しずくは、そっかー、と頷いて納得したようだった。


「譲羽ー。いちかちゃん。今日、水着持ってきたよね?」

二人を手招き、瑞穂が声を潜めながら問う。

「持ってきましたけど。いちかは?」

いちかも同意を込めて頷いた。

「よしよし。上出来。」

瑞穂がいたずらっ子のように笑いながら、更に声を小さくする。

「今夜、ナイトプールを決行するよ。羽田先生と男子たちにはナイショでね。」

そう言うと、見本のように瑞穂はウインクをして見せた。

「え!?」

いちかが思わず大きく声を上げそうになり、瑞穂に口を手のひらで塞がれる。

「どしたん?」

意外にも敏感に鈴木が首を傾げながら女子三人を見た。

「何でも無いよー。ぷち女子会中だから、気にしないで!」

しっしっと犬を追い払うように手を振って瑞穂が対応すると、ひっでーなー、とぼやきながらも気をそらしてくれた

「いちかちゃん、今の危なかったぞ。」

「す、すみません。」

瑞穂に、つん、と鼻の頭を人差し指で突かれて、いちかは小さな声で謝る。

「部長、相変わらず急に面白いこと思いつきますね。マジ尊敬します。」

しずくが瞳を輝かせながら、瑞穂の提案を賞賛する。

「ふっふっふ。夜の校舎にいても、何の不信感もない合宿勢である我々の特権なのだよ。」

計画を説明しよう、と瑞穂がノートを広げた。しずくといちかも、肩を寄せ合うように身を乗り出した。

「皇高校の校舎の配置だけど、今夜、宿泊するところはここ。幸いにも、プールとは真反対に位置する部室棟。ちなみに二階の茶道部の和室です。」

ノートの見開きに校舎の見取り図が手書きで書き込まれてあった。瑞穂が、いかにこのイベントに熱を入れているかが伺える。

「男子は一階、芸術分野の習字が行われる和室で寝ることになっているのね。一階と言うことで、遠目でもプールの様子を知られることはない。ナイトプールを決行する時間帯は夜九時からの一時間。」

「はい、部長。何故、その時間ピンポイントなんですか?」

しずくが挙手をして質問をする。

「これから説明しようと思っていたんだけど、この時間は私たち女子がお風呂に行く予定なの。当初、三十分のところをごり押しして、一時間に延長させてもらいました。」

女の子の風呂は時間がかかるので、と説得したと言う。

「部長のその行動力を生かせる職業って無いんですかね。」

腕を組んで感心しながら、しずくは呟いた。

「ありがとう、ありがとう。高校最後の夏休みなのだから、良い思い出を作りたかったのよ。」

「佐伯部長は、あの、受験などは…?」

いちかが恐る恐る、瑞穂の勉強のはかどり具合について問う。

「だいじょーぶ。私、卒業後は家業の酪農を手伝うから!うちの牛乳、めっちゃ美味しいよ?」

そのまま佐伯牧場の宣伝になりかけ、しずくがストップをかけた。

「部長、今はナイトプールの話を。」

「っは!ごめん、つい。話を戻すね。アリバイは確保した。あと問題はー…、羽田先生なの。羽田先生は宿直室に泊まるのだけれど、宿直室がここです。」

瑞穂が赤ペンを出し、きゅっと丸を描く。プールに辿り着くには、どうやらこの丸を書かれた宿直室の前を通らないといけないらしい。

「当然、目の前を通るわけだから挨拶はするでしょ。二人とも、演技力に自信は?」

「私は多分、ごまかせますけど。」

しずくは事も無げに言ってのける。

「…自信ないです。」

いちかはそろそろと手を上げて告白した。しずくと瑞穂は苦笑しながら頷く。

「いちかはそんな感じだよねえ。」

「印象を裏切らないわ。」

三人はひとしきり笑い、さて、と解決策を練り始めた。

「なるべく私たち軽音部筆頭に羽田先生と会話をするから、いちかちゃんはその隙にさっさと先に行っちゃえば?」

瑞穂がそう提案すると、しずくが唸った。

「いや…、羽田先生は鋭いところがあるので。少しはいちかも会話に参加した方が良いのでは。」

「ていうか、あのー。見つからないうちに通り抜けられませんかね?」

ネガティブキャンペーン中のいちかが言うと、瑞穂が首を横に振った。

「宿直室は今、クーラーが故障中らしいのよ。と言うことは、風通りをよくするために扉を開けておく可能性は高い。」

「…そういえば。」

しずくがペンを取り、見取り図のとある位置を突く。

「ここら辺の窓、一カ所だけ鍵が壊れていたような。」

「マジか。」

瑞穂がもう一度、見取り図を見て考え込む。そして再び赤ペンを手にして紙面を走らせて、線を結んだ。

「進路変更。譲羽の記憶を頼りに、ここ、女子トイレの窓を出て中庭を突っ切ろう。その方がリスクは少ないはず。」

「じゃあ、昼間の間に私は壊れた鍵の窓を確認しておきます。」

合宿中、一番自由に動けるいちかが立候補する。瑞穂としずくは頷いた。

「それが確実か。よろしくね、いちかちゃん。」

「後で詳しい場所を教えるから、頼むわ。」

パタン、とノートを閉じ、こうして秘密の女子会議は終了したのだった。

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