第15話 今しか作れない歌

「おはよーございまーす!」

しずくの背後に隠れるようにいちかも供に入室する。

「…おはよう、ございます。」

「お、来たね。おはようさん。」

軽音部、部長の瑞穂がポットで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを作りつつ、二人を迎えた。

「飲む?」

マグカップを手にしながら、瑞穂は首を傾げて問う。

「部長のコーヒー、めっちゃ苦いからパスしまっす。」

「失礼だな。そっちの子は?どう。」

瑞穂の視線が向けられて、慌てていちかは頷いた。

「い、いただきます!」

「素直でよろしい。」

しずくが、やめておいた方がいいぞー、と忠告する中、瑞穂は嬉しそうに笑って手際よくコーヒーを自分用の他にもう一人分作り始める。

しずくと供にソファに腰掛けると、すかさず瑞穂特製のコーヒーが目の前に差し出された。

「ありがとうございます。」

いちかはマグカップを受け取って、一口、コーヒーを口に含む。途端に強烈な苦みが舌を刺激した。酸味は少なく、渋みも抑えられてはいるものの、とにかく苦い。驚いて目を瞬かせながら、ちらりと瑞穂を見ると彼女は満足げにマグカップを傾けていた。

「お、大人の味ですね…。」

「苦いっしょ?砂糖、入れな。」

しずくがくっくと笑いながら、シュガーポットを勧めてくれる。いちかが砂糖の投入を迷っていると、瑞穂も笑いながらコーヒー用にミルクも勧めてきた。

「無理しなくて良いよ。」

いちかは恐縮しながらも、二人の勧めに甘えて砂糖とミルクをコーヒーに入れて、甘みを調節して自身が飲みやすくする。いつもの倍の量の砂糖を入れて、ようやくコーヒーを飲むとソファの向かい側の椅子に座った瑞穂が微笑みながらいちかを見つめていた。

「私に遠慮してくれたんでしょ、ごめんね。」

「部長のコーヒーはインスタントながら、普通の倍は入れてるから。いちか、驚いたでしょう。」

話を聞いていると、最初は眠気覚ましに入れていたコーヒーがすっかり癖になってしまったのだという。

「ええと。尾上いちかちゃんだっけ。譲羽もいい子をボーカルに連れてきてくれたにゃー。」

「いえ、そんな…? ん?」

会話の違和感を感じてしずくを見ると、彼女は両手を合わせていた。

「…しずく?」

「ごめん、いちか。あのね、」

しずくはいたずらっ子のように舌先をペロリと出して謝り、そして言う。

「軽音部で、ボーカルになってほしいなーって。」

「何、譲羽。説明してなかったの?」

呆れた、と瑞穂はため息を吐いた。

「だって、だって!どうしても合宿に参加してほしかったんだもん!」

「可愛く言われてもねえ…。いちかちゃん、固まってるよ。」

いちかの思考は止まって、ボーカルってなんだっけ、と逃避する。

「いちか?いちかー。戻っといでー。」

しずくはいちかの目の前で手のひらを振って見せた。

「いや、おまえに言われてもって感じよね。」

瑞穂は腕を組んで苦笑する。そして、んー、と呟きながら首を傾げた。

「いちかちゃん。歌は好き?」

「え?歌?ああー、歌ですか。」

瑞穂の問いにいちかは瞬きを繰り返す。

「普通、よりは好き…だと思います。」

「おお、それで充分だよ。よかったね、譲羽。」

いちかの答えを聞いて、瑞穂はしずくの肩を力強く叩いた。「じゃ、改めて。いちかちゃん。ボーカル…に、なっていただけませんか?」

瑞穂に真っ直ぐに瞳を見据えられて、乞われるようにお願いされる。

「ほら。譲羽も頭を下げる。」

「はい!お願い、いちか!」

促されてしずくも勢いよく、いちかに頭を下げて見せた。二人の言うことをようやく理解して、いちかは指の先に火が付いたかのように激しく横に振った。

「無理だよ!できない、できない!」

「そこを何とかー!」

しずくはすがるようにいちかの手を握って、横に振る動きを阻止する。

「私、うたうの下手だよ!」

「練習すれば大丈夫。いちかの声で、音楽を紡ぎたいの!」

きゃんきゃんと子犬たちの喧嘩のように言い合ういちかとしずくを見て、瑞穂は手のひらを叩いて止めに入った。

「はいはい、まあ、いきなり言われても困惑するのは必然な訳で。譲羽は自分の演奏をいちかちゃんに見てもらったことはあるの?」

「無い!」

そういえば、とはっとしてしずくが答える。

「だめじゃん。音楽の方向性と誠意を伝えるには、まず自分の手のひらを明かさなきゃ。ということで。」

瑞穂はしずくに指示を出した。

「楽器、準備!」

「イエス、マム!」

敬礼をするように手をかざして、しずくは立てかけてあったギターケースの元へと駆けていった。

「さて。じゃあ、いちかちゃんは座って待ってて。私も準備するから。」

エレキギターのチューニングに入っているしずくの傍らで、瑞穂もマイクの準備を始める。その様子をおろおろと見守りつつ、いちかはとりあえず言われたとおりソファに座って待つことにした。

やがて演奏の準備を整えたしずくと瑞穂が、いちかの前に立つ。

「何にする?ギターとボーカルだけでも映える曲と言うと―…、」

瑞穂がバンドスコアをパラパラとめくりながら、しずくと相談をする。

「そうですね…、うーん。あ、これはどうです?」

「いいね、これならギターのソロもあるし。」

二人の相談も終わり、ようやくいちかと向き合った。

「お待たせ、いちか。」

しずくが見本のようなウインクをいちかに飛ばして言う。

「『ウィークエンド・ビューティー』」

ギターの優しく甘い旋律がしずくの指から紡ぎ出される。透明に澄んだ水の雫が青々と茂った木の葉を伝い、落ちていくような軽やかなリズムが耳に心地よかった。

しずくが奏でる音楽に乗せて、瑞穂が息を吸って歌をうたいだす。

「…―♪」

しずくのギターの伴奏と相まみえるように、瑞穂の声は伸びると色っぽくかすれるハスキーボイスだった。

二人の演奏にいちかは息を呑み聞いていた。何より、心底楽しそうに歌を奏でるしずくと瑞穂の姿が眩しく見えた。途中、控えめに部室の音が開かれる音が響き、振り返るとそこには軽音部の他の部員が様子を伺っていた。

「二人で始めてんの珍しいね。」

先陣を切るように一人の男子生徒が、ベースを手にしずくと瑞穂の演奏に加わる。音はより一層深みを増して、ドラムによるリズムの並走が華やかさを演じた。

最終的に演奏はフルの楽器を用いて、終了した。最後の一音をしずくが奏で終えると、一瞬、空気の震えが止まって静寂を迎えた。

「…。」

目の前で行われた軽音部のパフォーマンスに圧倒されて、いちかは自然と拍手を贈っていた。

「と、まあこんな感じの歌をうたってます。」

瑞穂が呼吸を整えながら、いちかに微笑んでみせる。

「どうだった?いちか。」

渾身の演奏だったのだろう、しずくが期待に満ちた目でいちかに問う。

「かっこいい…。」

いちかのほろりと零れた言葉に、軽音部の部員たちはハイタッチをして喜んだ。

「やったあ!じゃあ、一緒に、」

「あ、それとこれとは話が別です。」

ギターをかき鳴らして身を乗り出すしずくに対して、いちかはきっぱりと否の思いを伝えた。

「ええー!なんで、なんで?バンド、やろーよー。」

しずくは駄々をこねるようにいちかの手を取って、ぶんぶんと振る。

「いや…、ハードルが爆上がったよ…。」

いちかの目は遠く、山の彼方の空遠くを差した。

「嬉しい!? いや、でも意味がない!」

あちゃー、としずくは天を仰いだ。そして泣き真似をしながら、瑞穂に抱きついた。

「部長~!いちかがボーカルをやってくれないよー。」

「よしよし。悲しいねえ。」

駄々っ子のノリに乗って、瑞穂も母親のようにしずくの頭を撫でる。

「イマイチ話が読めないんだけど、前に言ってたボーカル候補ってこの女子なん?」

ドラムを叩いていた男子部員の鈴木が、興味深そうにいちかを見た。

「お前はいちかに近づくでない。」

「譲羽に激しく同感。いちかちゃん、こっちにおいでー。」

バンドの前ボーカルの女の子を辞めさせてしまった恋多き男に、しずくと瑞穂は厳しかった。そんな事情を知らないいちかは目を白黒とさせながら、二人の間に挟まれる。

「部員はみんな集まりましたかー?」

賑やかな生徒たちの様子を伺いつつ、顧問である音楽教師の羽田が部室の扉から顔を覗かせた。

「あ、羽田先生。おはようございます。」

瑞穂がいち早く態度を切り替えて、挨拶をする。他の部員も後に続いた。

「お疲れ様でーす。先生、今日も影が薄いですね!」

「開口一番、失礼ですねえ。」

鈴木の軽口に苦笑しながら全員の出席を確認し、最後にいちかの顔を見る。

「尾上さんだったかな。ボーカルとして合宿に参加してくれるそうで、頑張ってくださいね。」

「あ、いえ…私は、」

外堀から埋められていき、いちかは焦って口ごもってしまう。

「そう!そうです、今日から私たちのバンドで歌をうたうのでよろしくです!」

いちかの肩に手を置いて、しずくは有無を言わせずに押す。「まあまあ、譲羽。いちかちゃんにも心の準備が必要だから。ここは押してだめなら引いてみな、の精神で行こう。」

諌めるように瑞穂はしずくの肩を叩いた。

「手の内、ばらしちゃってますよ。」

いちかはついに堪えきれないというように、くくくと笑った。その笑い声を聞いて、羽田は何故か何度か頷いた。

「…うん。確かに、小鳥のように高い綺麗なソプラノです。」

いちかの笑い声をそう評し、羽田は納得したように今度はしずくを見た。

「譲羽さんが他人に推す理由もわかります。だけど、歌は楽しくうたうものだから。無理強いはいけませんよ。」

「はーい…。」

羽田のもっともな意見にしずくは項垂れて反省の姿を見せる。でも、と羽田は続けた。

「尾上さんの歌声、僕も聞いてみたいです。よければこのまま合宿に参加して、もう少し可能性を考えてみてくれませんか。」

「…良いんですか?」

思考する時間を与えられていちかは自分が中途半端な存在のように思えて躊躇するが、しずくはもちろん瑞穂を含めた部員たちが賛成した。

「いいんじゃね?ボーカルになるなら文化祭までに親交を深めたいし。」

鈴木がベース担当の男子部員、副部長の瀬尾に気安く同意を求める。

「そうだな。でも、鈴木は親交を深めすぎるなよ?」

背後で、しずくと瑞穂が瀬尾に共感して深く頷いていた。

「じゃあ、準メンバーも迎えたところで、今回の合宿の目的の確認をしようか。」

手のひらを叩いて部員たちの意識を引いて、羽田は黒板の前に立つ。

「今回は、合宿中にオリジナルの一曲を作ってもらいます。」

応援歌、ラブソング、ポップス、バラード…と曲の種類を羽田は書いていく。

「せんせー!演歌でもいいの?」

鈴木の無茶ぶりに、できるならね、と羽田は言う。

「何でもいい。短くてもいいから今の君たちにしか作れない一曲を、作ってみてください。」

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