第14話 合宿のお誘いを、あなたに。
その日の夜。夏祭りの帰り道のことだった。
しずくはいちかに軽音部の合宿の手伝いを申し込まれた。『マネージャーみたいな、雑用をお願いしたいんだけど。』
どうかな、と首を傾げるしずくに、いちかは是が非でも頷いた。帰宅部で通していた高校生活で、部活の合宿という夏の一大イベントに胸が躍った。
母親のみちは屋台の後片付けで、夜が遅い。先に家路についたいちかは扇風機を回しながら、自室のベッドに寝転んでいた。時折、窓辺の風鈴がちりんと鳴る。落とすのがもったいないと感じられたメイクも肌に悪いからと洗い流して、風呂上がりの火照った身体に心地よい風が吹いていた。スマートホンの画面には、しずくから送られた合宿の日程が表示されている。
しずくに頼られたことが嬉しくて、いちかの頬が緩む。何度も、何度も確認しては足をばたつかせた。
「ー…。」
ため息を吐くように呼吸をして、しわにならぬようにきちんと折り畳んだ浴衣を見る。色違いでおそろいの浴衣が本当の姉妹のようだった。いちかはふとしずくの姉に思いをはせた。
遠くに居るといっていた。どこにいるのだろう。
誰と一緒に居るの?しずくのこと、ちゃんと覚えてる?
「しずくは…あなたのこと、大好きだよ…。」
こんな私に姉になってと頼み込むほどに。
彼女の母親の容態が優れないらしい。
真冬の一月。山が近いこの地域に大雪が降った日の事だった。冬休みが明けて、一週間が経過した中学校の放課後。私はいつものように『水喰み』の本を手に取って、手紙を抜いた。
【死んだ人は、その人を思う人の心の中で生きているって言うけれどそれは綺麗事だと思う。】
その筆跡にはいつものはつらつとした彼女の魅力が半減していた。きっとそれほどまでに、彼女は疲れているのだろうと思う。私は読み進める。
【そんなことは大切な人を亡くしたことのない人が言うことで、実際は死んだらすべてが終わる。抱きしめることも、話すことも、見つめることもできなくなって、待ってるのは虚無しかないんだよ】
彼女は、絶望していた。
【お母さんが、死ぬかもしれない。】
しずくの父親は多忙を極めて、あまり家に居ない。しずくの母親―…、自身の妻と離婚して供に暮らすことになった娘との関わり方に悩み、あえて仕事に打ち込んでいた。最初の頃は、母方の祖母がそばにいてくれた。その祖母が亡くなり、家にたった一人の住人となった。
祖母と婿養子の父親を残して、春原の名字と姉のしぶきの位牌だけを引き取って母親はこの家を出て行った。
寂しいと思った時は最初だけで、すぐに麻痺して平気になった。
周囲の田園でなくカエルの大合唱をBGMに居間でしずくは夏休みの課題をこなしていた。開いている参考書は数学。そういえば、いちかは理数系が苦手だと行っていたなと思い出して、くすりと微笑む。時刻は、夜の八時を少し過ぎたところだ。
肩が凝ったようで、少しだけ回してみた。疲れを呼気に込め吐き出して、背伸びをする。立ち上がり、台所に移動して冷蔵庫から出した牛乳を飲んだ。
「…。」
ショートパンツから伸びた足の指先を見つめる。綺麗に整えられて桜色の爪が、今は少し白みを帯びている。クーラーの風向きを変えた方が良いかもしれない。
明日からの軽音部の合宿に供えて、もう少しだけ課題を進めておきたくてしずくは気合いを入れて、再びちゃぶ台に向かうのだった。
夜が更けて、一階の戸締まりとガス栓の確認。電気を消して、二階の自室へと上がる。父親の書斎の前を通り抜けるときに一度だけ立ち止まって扉を見つめ、ふいと目をそらした。
課題を目標まで進めることができて、今日は安心して寝ることができる。…はずだったがベッドに入り、タオルケットに包まって就寝の準備を整えたものの、眠気は一向に訪れなかった。
「気が興奮しているのかな…。」
仕方なく、充電中のスマートホンを取り出して意味もなくSNSを巡る。贔屓にしている動画チャンネルの音楽を聴きながら、ブルーライトが眼球を照らした。
しばらくして目に疲れを感じて、起き上がって電灯を楽に点けるためにスイッチに結んだヒモを引っ張って部屋を明るくする。
ふう、とため息を吐き、ベッドから抜け出した。
ヒタヒタと裸足で歩く足音を響かせながら廊下に出て、隣の部屋の扉をゆっくりと開けた。しずくの部屋と家具はほとんど同じ配置。空気は真昼の熱がこもり、淀んでいるようだった。そこは双子の姉、しぶきの部屋だった。
電球が切れているために暗いままの室内、しずくは勉強机の前に立った。窓から曇っていた空が晴れて、白い月明かりが差す。影が色濃く滲み、しずくの輪郭を浮かび上がらせるようだった。
無言のまま、しずくは勉強机に整理されているしぶきの国語のノートを手に取る。パラパラとページをめくり、中程に着くとメモ帳や紙片がたくさん挟まっていた。皺がつかないように丁寧に折り畳まれている紙の一枚をそっと開き、しずくは唇を噛んだ。
それは名も無き宛先人との手紙だった。生前、しぶきは随分と仲良くしていたらしい。手紙のやりとりは密で、濃く、しずくの知らないしぶきの愛で満ちていた。
文章を読むと、高ぶった気持ちは冷水を浴びせられたようにしんと静かになる。穏やかな凪ではない。ただ、その知らない感情に凍てつくようだった。
「…死ね。」
ぽつんと最大値の呪詛を呟いて、しずくはノートを閉じた。
「いちか、おはよう。」
翌日の朝、何気ない顔をして笑顔を浮かべながらしずくはいちかと合流して高校の軽音部の部室まで向かった。
「おはよう。昨日は楽しみで中々眠れなかったよー。」
いちかの笑顔は柔らかくしずくの心をほぐして、温かい羊水に包まれるような感覚を与えてくれる。
何気ない会話の全てが宝物のようで、一言一句を丁寧に書き写して永久保存したかった。
部室の前まで着くと、しずくは完全に元気を取り戻して意気揚々と扉を開けるのだった。
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