第22話 私がしたこと。

気に入っていた長い髪の毛を切った。風に柔らかくなびく瞬間が好きだった。


習字を以てして、筆跡を変えた。女の子らしく可愛らしい丸文字は、シャープで大人っぽくなった。


人の目を恐れ、交わした手紙は全て捨てることすらできずに机の引き出しに隠して、鍵をかけた。秘密を抱えて、緊張からか生理が止まった。


忘れていた。私には、人に好きになってもらう資格がないことを。


私が彼女にしたことは、


「…今日は皆さんに、悲しいお知らせがあります。」

それは同じ中学校の二年、一人の女生徒の死だった。彼女の名前は、春原しぶき。

「今から、一分間の黙祷を捧げると供に彼女のご冥福をお祈りしましょう。…黙祷。」

全校生徒が目を閉じる中、いちかはたった一人呆然としていた。とてつもない恐怖と供に、どうしようもない後悔が襲ってくる。

しぶきを死なせてしまった。きっと、彼女だ。

黙祷を終えて、周囲に満ちるのはひそひそとしたささやき声。小さな町の中学校だ。自殺をした生徒が出たことは何となく噂で流れてきた。いちかは噂の信憑性の疑いたくて、わざと耳に入れないようにしていた。

ー…飛び降り自殺らしいよ。

ー…遺書は見つかっていないんだって。

ー…不登校だったんでしょ?元々、そういう気質があったんじゃない。

可哀想だとか、悲しいだとかそういう言葉は生徒たちから出てこなかった。人が一人、死んだのにそんなのあんまりだ。だけど。この場で一番、しぶきに無情だったのは私だ。いちかは貧血でぐらつく足元で倒れそうになるのを耐えていたが、目の前の景色が狭くなり膝をついた。倒れる醜態を晒さずには済み、最小限の注目を浴びながら教員に寄り添われて保健室へと向かった。

「顔色が悪いね。校長先生の話の刺激が強かったのかな。」

保険医の先生がいちかの顔を覗き込みつつ、白いベッドに連れて行って寝かせてくれた。

「少し、休んでいきなさい。」

カーテンで仕切られ一人になり、薬品の匂いがわずかに染みこんだベッドでいちかは胎児のように丸くなった。ドクドクと心臓の音がうるさく体内から響き、鼓膜を刺激する。瞼をぎゅっと閉じて、光を遮断する。思い出すのは、しぶきとのやりとりの数々だった。

好きな本の話や、家族のこと。いちかが言った「死にたい」のSOSに対しての返事、「一緒に死のう」の言葉。

頭痛と、吐き気がする。


ふと、目覚めたということは眠っていたということだ。

まだ頭の奥で鈍痛がする。目の底が熱を持っているようだった。

「…。」

ベッドから降りて、いちかは確かめるようにカーテンの隙間を覗いた。保健室には誰もいないようだった。ゆっくりとカーテンを引いて、保険医のデスクへと向かうと少しの時間席を外す旨のメモがいちか宛てに残されていた。

どうやら深く寝ていたようだ。時計を見ると、もう昼近い。窓際の観葉植物が扇風機の風に微弱に揺れて、開け放たれた窓の外から蝉の声が時雨のように降り注いでいる。屋外ではほぼ真上にきた太陽が地面を焦がして、濃い影が魚のように泳いでいた。

鮮やかな景色に、いちかの胸にすとんと何かが落ちた。

ああ、しぶきはもうこの景色を見ることすらできないのだと。彼女はもう、いない。

私が殺した。

いちかはそっと保健室を出て、駆け出していた。授業中の廊下は誰一人としてすれ違うことはなかった。

徐々に息が上がり、喉の奥で血の味がする。だけど、足を止めることはできない。もつれて、一度転ぶ。膝がじんと痛むが気にしてはいられない。向かった先は校舎三階の図書室だった。

鍵の掛からない図書室の扉を開けて、室内に潜り込んだ。そしていつもは楽しみにしていた本『水喰み』の元へと向かい、その本を書棚から抜き取った。パラパラとページをめくった先の100ページ目にしぶきからの返事はなかった。その代わりにいつもは100ページ目に挟んであるはずのしぶきへの手紙を103ページ目に見つけた。

【やっぱり生きたい。一緒に、生きよう。】

たった3ページの差で、七月七日に間に合わなかった。

「…ごめんなさい。」

眼球の表面張力を破って涙は零れ、頬が熱く濡れる。いちかは謝罪の言葉を繰り返し、本を胸に抱いた。その場に崩れるように膝をついて、神に祈るような姿勢になる。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」

私だけ、生きていて。あなたは約束通りに死んだのに。

いちかは熱に浮かされるように立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで歩き出す。終業のチャイムが鳴る前に行動に移さなければならない。

上履きの靴を変えずに利道を踏みしめて向かった先は、校舎裏にある焼却炉だった。途中に出会った野良猫はいちかを咎めるように見つめていた。錯覚だと思いながらも、その目色が恐ろしかった。

高温を保つ焼却炉の蓋をレバーで開けると、いちかを襲うように熱気が放たれる。一瞬ひるみそうになりつつ、それでもいちかは胸に抱いていた『水喰み』の本を炉の中に放り込んだ。刹那、ゴミの上に着地した本の風に炎が弱まるがすぐに熱の勢いは増していく。炎に飲まれ、本の中心に向かってじわじわと黒い滲みが広がっていった。本が燃え切るのじっと待ち、いちかは佇んでいた。ふと目線を頭上に持ち上げると、入道雲に向かって焼却炉の煙突から一本の白い煙が立っている。それは、火葬場の景色によく似ていた。

もう涙は乾いていた。その代わりに、セーラー服がしっとりと汗ばんでいる。額に浮かんだ玉のような汗を手の甲で拭って、灰になった『水喰み』の本を確認するといちかは再び保健室へと戻った。

その日、いちかは中学校を早退した。

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