第21話 春原しぶき

しずくが優しく慈しむような表情でいちかを見守っていた。

「どっちがお姉ちゃんか、わからないね。」

くすくすと笑い、つん、といちかの鼻先を突く。

「…うん。」

いちかは両手を胸に頷いた。そして再び、首下に鍵を下げようとチェーンの留め具を引っかけようとした。

「あれ…、んっと。」

緊張で強張っていた反動で思いがけず、留め具に苦戦する。するとしずくが「つけてあげる」と申し出た。

「ありがとう。」

いちかは後ろを向いて、ボブカットの髪の毛を僅かにかきあげた。

「うん。」

しずくは月明かりに銀色に光る水滴を滴らせる、無防備ないちかのうなじに震えそうになる指でチェーンを留めた。僅かに爪の先が触れると、いちかはぴくりと身体を震わせる。

「くすぐったい?」

「少しね。」

しずくの問いにそう言って穏やかにいちかは微笑みながら、ゆっくりと振り返った。プールの水が揺れて、波紋が浮かぶ。生温かい風が吹き、しずくといちかの肌を撫でた。その気温の心許なさに二人は互いの手を引くように、プールサイドへと身体を持ち上げる。そして足だけを水に浸しながら、仰向けに寝転ぶ。

地上の黒い木々は静かなのに、上空の雲が早く流れていった。どうやら風が強いようだ。月が雲に見え隠れして、明るさに差が出る。

「ねえ、しずく。」

「何?」

手を繋ぎながら、視線は空に縫い止めていちかはささやくように質問をする。それはずっと思っていたことだった。

「しずくの双子のお姉さんって、どんな人?」

しばらくの沈黙があった。やがてしずくは口を開く。

「…お姉ちゃんは、感受性が強くて優しい人だった。」


幼いしずくは人見知りで、彼女の背後を居場所としていたらしい。活発な性格の彼女はしずくの手を引っ張り、先陣を切って新しい世界を切り開いてくれたという。


「お姉さんが、大好きなんだね。」

『だった』という過去形をしこりのように覚えながら、いちかは相づちを打つ。

「今、お姉さんはどこにいるの?遠くって、言っていたけど。」

「…。」

一陣の風が吹き、夏の木の葉を大きく揺らしてざわつかせる。月が雲に陰り、周囲は一等暗くなった。

「…だ。」

「え?」

しずくの小さくか細い声を聞き取ることができずに、いちかは視線を横にずらして隣の彼女を見る。

「死んだ。中学生のときに自殺したの。」

雲が晴れ、月光が頭上から注がれた。真上を見つめるしずくの瞳に、蒼い炎が宿っているようだった。

「自殺…?」

無意識に呟いた自身の言葉にいちかの心は冷えていく。そんないちかの緊張を感じ取ったしずくは、苦笑するように微笑んだ。

「うん。ごめんね、暗い話をして。」

「そんな、こと、」

戸惑ういちかを置いて、しずくは上半身を起こして足で水を蹴る。いちかも慌てて身を起こすと、花火のように散った水の雫がクラウンのように水面に還るところだった。

「最期の弱さだけが、いちかとは全然似ていないよ。」

「…。」

いちかは言葉を見失う。さて、としずくはわざと明るい声を出して足を水中から引き上げた。

「そろそろ戻ろう。部長が起きたら、心配するだろうから。」

しずくの手に引かれて、いちかはのろのろと立ち上がる。フェンスにかけておいたバスタオルで肩を包むと、その温かさにいつの間に身体が冷えていたことを知った。

その後、更衣室で話すしずくの他愛もない会話に何とか脳をフル回転してついていく。途中、いちかは聞き返したりうまく返事ができなかったが、しずくは自分の所為だと思って何も言わずにゆっくりと会話を交わしてくれた。

「…いちか?」

それでも何度目かに言葉につまずくと、さすがにしずくは心配したように彼女の名前を呼んだ。

「あ…、ごめん…。」

「ううん。こっちこそ、ごめんね。そんなにショックを受けるとは思わなかった。」

大丈夫?としずくはいちかの顔を覗き込む。

「顔色、悪いよ。具合悪い?」

いちかは真っ青を通り越して、まるで血の気のない真っ白な顔色をしていた。

鍵をかけていたのは机の引き出しだけではない。今、心にかけた鍵がこじ開けられたようだった。

「…大丈夫。それよりも、ごめん。聞いてもいいかな。」

「何?」

今思えば、無遠慮な質問だった。だが自らの考えの否定を得るために、いちかはしずくに問う。

「お姉さんは…何故、自ら命を絶ったの?」

「お姉ちゃんは…、」

しずくは長い黒髪をポニーテールに結い上げた後に、答えてくれた。

「殺された、って私は思っている。」

濡れたままの髪の毛は太い紐がごとく揺れて、まるで絞首刑に使うロープのようだった。

「…お姉ちゃんは本当は、ある人と一緒に死ぬ計画を立てていたらしいの。だけど…、」

しずくの奥歯がギリ、と噛みしめられて軋んだような音を立てる。

「本当は二人で死ぬはずだったのに、お姉ちゃんはたった一人で死んだ。約束を果たしたのは、お姉ちゃんだけだった。」

夢ならいいのに、と思った。

「うちは元々、婿養子だったから、お母さんはお姉ちゃんの位牌と名字だけを連れて家を出た。離婚したお父さんに私は引き取られたんだ。」

だから一度、しずくは姓が変わっているという。

「…ねえ…。お姉さんの、名前って…。」

いちかは喉をカラカラに乾かせながら、掠れる声で最後の審判を待った。

「春原しぶき。私の旧姓は、春原。」

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