第4話 交わる時間

放課後、帰宅部のいちかは高校前からバスに乗り込んで最寄りのバス停まで揺られていた。

紫陽花が咲き誇る町の名所である道を通り抜けていく。花に寄り添うようなトタン屋根の掲示板には、夏祭りの張り紙や町内会の会報。小学生が描いた交通安全のポスターが貼られていた。

バスのクーラーで冷えた二の腕をいちかはさすってみる。白のシャツから覗く腕は粟立ち、産毛の柔らかさが手のひらを優しく刺激した。

「いちか、またね。」

バス停に降りるいちかに向かって、友人が手を振ってくれる。

「うん。ばいばーい。」

無事に地面に足がつくと友人に視線を向けて、いちかも手を振り返した。排気ガスを吐き出しながら去って行くバスを見送って、いちかは歩き出す。

路地裏には折り紙で作られた風車がカラカラと音を立て回っていた。お盆に向けて、この町では家の目印として風車が作られる。風に乗って死者は故郷を目指すとされているが、実のところ山間であるこの地域では迎え火が山火事を招く危険があるということで避けられているという説が有力である。

風車の集団に煽られるように風を受けて、いちかの制服のスカートが膨らむ。足と足の間に風がするりと流れて、束の間の清涼感を味わった。

夏祭りの会場にも使われる神社を近道に通り抜ける。朱色の鳥居がいくつか並び、お稲荷様の像が二体いちかを見送った。

神社に隣接されている公民館は児童館もかねていて、賑やかな子どもの声が聞こえてくる。

「あ、いちかー。」

いちかの母親、みちが公民館の窓から声をかけた。母親は、児童館のパートスタッフを務めていた。

「ただいま、お母さん。」

「おかえり。そして、ごめん!」

いちかに向かって、みちは両手を合わせてみせる。

「何?どうしたの。」

「家のお風呂、空焚きしちゃいました。今、絶賛故障中!」

みちは豪快に笑いながら、からりと白状して見せた。いちかは、えー、と驚きと抗議の声を上げる。

「また!?汗をかいたから、帰ったらお風呂に直行しようと思ったのに!」

みちにはそそっかしい一面があり、これまでも似た失敗を何度も披露してきた。

「だから、ごめんって。悪いけど、今日は銭湯に行って!もちろんお金は出すから。」

「面倒くさいー…。」

銭湯は町の外れにあり、自転車を以てして10分ほどの距離だった。

「帰りにアイスも買っていいよ。」

「…。」

さすが母親は娘の転がし方をよく知っている。いちかは大げさにため息を吐きつつも、銭湯に行くことを了承するのだった。


家に帰るといちかは台所の冷蔵庫からほうじ茶を取り出して飲む。喉を伝い、腹にたまる感覚にくすぐったさを覚えた。

二階の自分の部屋へ行き、制服を脱いでハンガーにかける。ここで無精すると、次の日の朝に皺が寄って非常にみっともないことになるのは経験済みだ。

Tシャツとハーフパンツというラフな私服に着替えて、いちかは銭湯に赴く準備を始めた。

洗面用具やシャンプーなどの細々とした銭湯セットを作り、濡れてもいいビニール製のバッグに入れる。自転車の前かごに突っ込んで、いちかはサンダルに履き替えた足でペダルを踏みしめた。

追い風が背中を押して、自転車は加速していく。山の上には一番星が輝き始めた。街灯が光を灯し始めて、住宅街の道を点々と等間隔に照らす。家々にも電気の明かりが生まれて、夕食の香りが鼻腔をくすぐった。

ゴボウのいい香りがする。この家は今夜、豚汁だろうか。なんて、勝手に他人の家の献立を思い浮かべる。

「今日の夕飯、何だか聞いてくればよかったな。」

いちかは僅かな空腹を覚えつつ、ようやく町の銭湯『亀の湯』に到着するのだった。

駐輪場に自転車を止めて、荷物を抱えて銭湯の暖簾をくぐる。サンダルは脱いで鍵付きの下駄箱に収めた。番台にいる、店主のおばあさんに一人分の代金を払って女湯に向かった。

夕食前の微妙な時間帯。利用客は少ない。

いちかは鼻歌を口ずさみながら、脱衣かごを前に服を脱ぎ始める。Tシャツとタンクトップを一緒に脱いで、ピンク地に白い水玉のブラのホックに手をかけた。

「…図書委員さん?」

「え?」

声をかけられたことに驚きながら顔を上げると、そこには脱衣所に入ってきたばかりらしきしずくがいた。

「ゆ、譲羽さん。」

「私の名前、知っていてくれたんだ。」

しずくは戸惑うことなく、いちかの横に立って脱衣かごを手にする。

「うん、ええと、ほら。貸し出しカードに名前が書いてあるから。」

いちかの答えに、ああ、としずくは納得したように頷いた。そしてシャツのボタンに手をやり、一つずつ外していく。

「図書室でよく会うもんね、私たち。」

「そう、だね。」

しずくの丸く桃色の肩から涼しげなシャツの布地がするりと落ちた。白いレース生地のブラがそのまま現れる。どうやらしずくは、タンクトップ等の類いは身につけない主義らしい。いちかはその事実を知って、心臓が早く脈打つようだった。

「? 何?」

いちかの視線に気が付いて、しずくは服を脱ぐ手を止める。

「へ!?ご、ごめん!その、大人っぽい下着だね?」

何、正直な感想を言ってるんだ!といちかは内心で頭を抱えた。…変に思われるだろうか。

「そう?普通でしょ。」

いちかの心配をよそに、しずくはまるで気にしていない様子の対応をしてくれた。

「…えーと、」

しずくは小首を傾げる。やっぱり、変だったか!?

「名前、教えてくれると嬉しいんだけど。」

「名前?誰の。」

いちかのテンパった答えを聞いてしずくは、くくく、と鳩のように笑った。

「あなたの、名前だよ。」

「私?あ、そっか…。尾上、いちかです。」

初めて間近で見たしずくの笑顔は花がぱっと咲いたように可愛らしかった。

「尾上さんね。」

しずくはいちかの名前を反復しながら、さっさと服を脱いでいく。形の良い胸や、無駄な肉のついていない下腹が披露されてあっという間に彼女は全裸になってしまった。

そして洗顔セットと手ぬぐいを手にすると、まだ服を脱ぐ様子のないいちかを見て小首を傾げる。

「脱がないの?先に行ってるね。」

「あ、うん…。」

両手をひらひらと振って、いちかは先を行くしずくを見送った。

浴場へと続くガラス戸が閉まるのを確認して、いちかはそっと自分の胸を見下ろした。しずくのものと比べてしまうと、些か慎ましやかな胸がそこにあった。胸の間には銀色の小さな鍵が下がっている。

「…成長期、成長期。」

いちかは自分を励ましながら、脱衣を再開するのだった。鍵のペンダントを無くさぬようにポーチにしまう。そして服を脱ぎ終えて、その身体の前をタオルで隠しながらいちかはそろりとガラス戸を引いて、タイル張りの床を踏む。

白い湯気がこもって視界が滲むが、浴槽で足を伸ばすしずくをすぐに見つけることができた。

「尾上さーん。」

しずくもまたいちかに気付き、片手を上げて自らを主張した。

かけ湯をして身体を清めてから、いちかはしずくの隣までお湯をかき分けて進んだ。波が立ったことを謝りながら、いちかはしずくの隣に座る。背後に描かれた富士山に見守られながら、二人はゆっくりとお湯に沈む。しばらくは互いに無言で、肺にたまっていた二酸化炭素をすべて吐き出すように深く呼吸をした。湯加減は少々熱めに設定されているのか、手足の指先がピリリと痺れるようだった。

「気持ちいいね。」

いちかがささやくように声をかけると、しずくは腕を真上に伸ばしてストレッチを加えながら頷いた。

「うん。手足が伸ばせるのっていいよね。」

「譲羽さんは、銭湯によく来るの?」

「たまにかな。うちのせまいお風呂に飽きたら来る感じ。尾上さんは?」

いちかが苦笑しながら母親の失敗談を話すと、しずくは口元に手を添えて笑った。

「おかーさん、かわいい人だね。」

「しょっちゅうだから、いい迷惑だよ。」

他愛もない会話を交わしてつい長話になり、のぼせながらいちかは浴槽を上がる。後を続くしずくが、心配そうにいちかの顔をのぞき込んだ。

「ねえ。顔、真っ赤だよ。大丈夫?」

「だいじょう、ぶ…、」

実のところいちかは頭の奥に熱がこもり、思考がうまく働かなかった。

「尾上さん、ちょっと脱衣場で休もう。」

しずくがそう提案して、いちかの手に触れた。次の瞬間、いちかはクラクラと眩暈を起こしてその場にしゃがみ込んでしまう。倒れなかっただけ、まだ良かった。

それからの意識はもうろうとして、いちかはしずくに支えられながら脱衣所まで向かったところで記憶が途切れた。


光が強すぎて目が眩む。とろりとして温かい意識の中、いちかは胎児のように微睡んでいた。こぽこぽと泉が涌くような音が鼓膜に響いている。現実離れをした世界にいちかはようやくここが夢の中だと理解した。その瞬間に緩やかに意識が浮上した。


「…う、ん。」

「あ、起きた?」

重い目蓋を持ち上げると、しずくがいちかの顔をのぞき込んでいた。しずくの長い髪の毛が頬に触れてくすぐったかった。

「あれー…。どうしたの…?」

舌足らずな口調でいちかが問いかけると、しずくはいちかの額の前髪を指でかき分けた後、そっとその手のひらで触れた。しずくの手はひんやりとして心地よかった。

「尾上さん、長湯でのぼせちゃったんだよ。ごめんね、私に付き合わせちゃって。」

しずくの静かで低い声が鼓膜に響いて、いちかは無意識によく聞こえるように寝返りを打とうとする。そして気が付いた。自らが、しずくに膝枕をされていることに。

「ご、ごめん!」

慌てて、上半身を起こそうとするとしずくに肩を押されて制されてしまった。

「急に起き上がらないの。」

「…はい。」

目の奥が揺れるような感覚にいちかは大人しく、再びしずくの膝の上に頭を落とす。

「服に着替えさせたのは私と、番頭のおばあちゃんだから気にしないように。」

見るとTシャツとハーフパンツを身につけていた。胸元が涼しく感じていると、ブラジャーだけ畳まれていちかのバッグにあるのが確認できる。

「締め付けない方がいいと思って。あとで、自分で着てね。」

「何から何まで…、」

いちかは申し訳ないやら、恥ずかしいやらでしずくから視線をそらすように瞳を伏せる。

「あ、あと。番頭のおばあちゃんが尾上さんの家に連絡してくれたからね。お母さんが迎えに来てくれるって。」

よかったね、としずくは微笑んでくれる。

「いちか!」

タイミング良く、母親のみちが脱衣所に現れた。

「あんたは、もう。心配させるんだから!」

いちかを見つけて、みちはすかさず駆け寄ってきて膝をついた。そしていちかの頬を両手で包む。

「大丈夫?気持ち悪くない?」

「だ、大丈夫。ごめん、お母さん。」

しずくをちらりと見ると頷いて、起床を許してくれた。いちかがゆっくりと上半身を起こすと、みちは改めてしずくに頭を下げた。

「今日はありがとうね。ごめんなさいね、迷惑をかけちゃって。」

しずくはゆるゆると首を横に振る。

「いえ、迷惑だなんて。私が長湯に付き合わせちゃったからいけないんです。すみませんでした。」

頭を下げ返すしずくに、みちは指の先に火がついたかのように手のひらを左右に振った。

「いいのよ、ほら、いちかはお礼を言ったの?」

みちに話を振られて、ちゃんとお礼を言っていないことに気が付いたいちかは慌てて礼を言う。

「ありがとね、譲羽さん。あの、おばあさんも。」

番頭のおばあさんもいちかの声に気づいて、にこ、と笑ってくれた。

「じゃあ、丸く収まったところで帰ろうか。そろそろ混んでくる時間になるし。」

しずくに促されて壁に掛かった時計を見ると、各家庭の夕食が終えるような時間だった。三人で立ち上がって、番台に座るおばあさんに別れを告げて外に出る。生温い風が吹き、頬を撫でた。みちは軽トラックでいちかを迎えに来ており、荷台に自転車をすでに積み終わっていた。

「えーと、何さんだっけ?送っていくよ。」

みちは運転席に乗りながら、しずくに声をかける。

「譲羽しずくです。大丈夫です、近いので。」

丁寧に断るしずくにいちかも車に乗るように言った。

「荷台に一緒に乗ろうよ。気持ちいいよ。」

しずくはくすりと笑う。

「それは交通法に引っかかるんじゃ?」

「夜だから平気!」

謎の理論を振りかざして、いちかは先に荷台に上ってしまう。そして、しずくに向かって手を差し出した。

「行こう?」

しずくはにっと口角を上げて、共犯者になった。いちかの手を借りて、荷台へとよじ登る。

傍目では気づかれないように、荷台に仰向けで寝そべった。しずくの家の住所を聞いたみちが、二人に声をかける。

「出発するよー?」

「はーい。」

二人仲良くした返事を聞いて、車は出発した。

ガタゴトと揺れて、振動が全身に伝わってくる。仰ぐ夜空には、クラゲのように丸い月が浮かんでいた。星々が白い光を放って降るようにいちかとしずくの視界を覆う。運転席ではラジオの音が微かに響いていた。

「星、きれいだね。」

いちかはぽつんと呟く。

「うん。一応、町の名物だもんね。」

しずくが言う通り、この町は日本一夜空がきれいな地域と呼ばれていた。その誉れを遺憾なく発揮し、今夜は特に夜空が映える。

やがて、軽トラックはしずくの家の前に到着した。周囲は田園に囲まれているらしく、けたたましく賑やかなカエルの声が響き渡っている。

「今日はありがとう!」

カエルに負けぬように声を張って、いちかはしずくに手を振った。玄関の前でしずくもまた、手を振り返してくれた。

「うん、おやすみ。」

発車したいちかたちを乗せた軽トラックが見えなくなるまで、しずくは見送ってくれた。

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