水喰み
真崎いみ
第1話 柔らかい泥
水底の柔らかい泥に着地するような感覚がした。
ゴポリ、と音を立て緩やかに泡が立つ様子に、ようやく上下を意識する。見上げれば白いカーテンのような光の筋が降り注ぎ、私を温かく包み込んだ。まるで母親の胎内に還り、羊水に浸かっているようだった。
しあわせに微睡み、目蓋を閉じると紅い血潮が心臓の鼓動に合わせてどくどくと点滅する。ため息を吐くように呼吸をして、そして―…甲高い目覚まし時計の音で、私は夢から醒めた。
「…。」
幼い頃から何度数えただろう。代わり映えのしない、木目が刻まれた天井を見つめる。脳内に血液が巡るまで時間がかかって、私はやっと上半身を起こした。水色のキャミソール越しに薄い胸が呼吸に合わせて浮いては沈む。
時計を見れば、午前5時を指していた。遮光しないカーテンから白い朝日の気配がする。私はそっとベッドから抜け出した。小学生の頃から使っているベッドはパイプ製で、わずかな体重移動でキイと軋む。裸足で畳の上を歩いて、カーテンを引いて外の様子を伺う。
昨日の雨が嘘みたいだ。
庭にある祖母の趣味の家庭菜園が青々と茂り、水晶がごとく雫が葉を伝う。
トマトは完熟がいいと言っていた。ナスがよく実っている。そう言えば昨夜の夏野菜カレーはとても美味しかった。
山の上に骨のような鉄塔が見え、朝日を反射して鈍く輝いている。鳥たちの囀りが聞こえた。野生の彼らは、供に朝を迎えられたことが嬉しい、と唄う。
私はくるりと踵を返して部屋の壁に掛かったままのセーラー服を手に取った。紺色のカラーに赤いスカーフがオーソドックスなタイプの、ありふれた制服。袖を通し、襞があしらわれたスカートを履く。姿見に映るのはそれ以上でも以下でもない女子中学生だ。
家族が起きてくる前に、私は家を出た。
スニーカーの白いひもが歩くたびに揺れる。周囲は田園に囲まれていて、ざり、と砂利を踏みしめて道を歩いた。しばらくなだらかな畔道を行き、山中に踏み入っていく。早朝の涼しい時間帯とはいえ、額にうっすらと汗が滲む。下着の布地が肌に吸い付く気持ち悪い感覚に耐えながら歩を進めると、トンネルが見えてきた。ここを抜ければ、もうすぐ目的地に着く。
一人分の足音がトンネルにこだまする。壁を伝って、水が滴っていた。かすかな水たまりを踏んで、足跡が地面について私の後を追う。
トンネルを抜けると、光に目が眩んだ。瞬きを何回か繰り返して瞳のフォーカスを調整する。目の前には、家の自室から見た鉄塔が建っていた。
等間隔に作られたステップを握って、自らの身体をぐいと持ち上げる。足をかけるときに見る真下が徐々に高くなっていき、時々スカートに空気が孕んだ。昔から身軽で木登りを得意にしていたが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
鉄塔の中腹付近まで上って、私は腰掛けることにした。足を宙に投げ出すと、重力が引っ張るように地面に誘う。不思議と気分が晴れて、鼻歌を口ずさんでいた。それは春に放送されて人気のドラマの主題歌だった。内容はよく覚えていない。妹の好きな俳優が出演していて一緒に観賞を付き合わされたのだ。
腕時計を見ると、そろそろ時間だった。私は靴下とスニーカーを脱いで捨てる。裸足になって、開放感は増した。
秒針が天辺に着くまであと10秒。
…5
……4
………3
…………2、
1。
七月七日。私は死を、試していた。
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