第2話 日常の切れ端
ガタゴトと舗装されているはずの道路を市営のバスが小刻みに揺れながら進む。山村に近いこの土地では貴重な移動手段だ。
尾上いちかはバスの最後尾の座席に腰掛けていた。朝のバスは乗る人がほぼ決まっている。昨日の疲れを引きずって眠そうなサラリーマン。人が少ないことをいいことに車内で化粧する女子大生。いつも病院前のバス停で降りる老婦人。話したことはないが、誰かが欠けてもきっと気づくだろう。
『次は、皇高校前―…』
のんびりとした運転手のアナウンスを合図に、いちかは降車ボタンを押す。赤く点灯し、ビーと低くチャイムが鳴った。やがて目的のバス停に近づいて、ゆっくりと止まる。バスの定期券を運転手に見せ、いちかはステップから降り立った。
授業の開始にはまだ早い時間でも、周囲には部活動に向かう生徒が数名ほど伺えた。いちかもまた溶け込むように校門をくぐっていく。校門から校舎まで続く道は白樺並木になっていて束の間、避暑地を歩くようだった。ふと立ち止まり、頭上を見上げてみる。木々の葉から漏れる光が泳ぐ魚のようにちらちらと動き、瞳孔を刺激した。緑は色濃く影を落とし、逆光に葉脈が透けて見える。
一回だけ目蓋を閉じて気分を入れ替え、いちかは再び前を向いて歩き始めた。
開け放たれた昇降口の扉を抜けて、下駄箱で靴を履き替える。人の少ない廊下の温度は低く、ひやりとして涼しい。いちかは軋む木造の渡り廊下を歩き、階段を上っていく。目的地は図書室だ。図書委員を務めるいちかは積極的に朝の当番を申し出ていた。
先に警備員室で借りた鍵を取り出して、図書室の扉の錠を下ろす。ガラ、と重たげな音を立て引き戸を開ければ、図書室らしい紙の本の匂いが鼻腔をくすぐった。いちかは一度深く呼吸をして肺に空気を満たすと、まっすぐに窓まで行きカーテンを引いた。涼やかな音を立て、カーテンの布地が左右に開かれると太陽の光が室内を照らし出す。その一瞬、埃が銀色に光り雪のように舞う瞬間を見るのがいちかは好きだった。
昨日の放課後に返却された本の整理をする。
「よいしょ…っと、」
いちかは数冊の本を一気に持ち、書棚に向かう。本の背中を押して定位置に戻す。ジャンルとさらに作者順に分けて、本を元あった場所に納めていく作業は掃除と同様に一目瞭然に成果が見えて快感だった。
すべての本を書棚に戻すとカウンターに引き返して、鞄から文庫本を取り出して続きを追う。栞はすぐに無くしてしまうので使わず、ページ数をいつも覚えていた。パラパラとめくって、少し行き過ぎて、そして目的のページを開く。今、読んでいる本はアンソロジーで同じテーマで違う作家の作品が味わえた。
たくさんの本の気配、埃っぽい空気。室内はやがて、窓から差す朝日の白い光に包まれていく。居心地よく、広い図書室をほぼ独り占めする贅沢を感じつつ、いちかは読書に没頭した。
窓の外から、登校する生徒たちの声が聞こえ始める。当番で校門に立つ教員に挨拶をする声や、友と笑い合う声が響き、初夏の一日が始まるようだった。
「…の、あの。」
誰かが何かを訪ねる声が聞こえる。いちかは瞳を伏せて、本の内容に夢中だ。
「ねえ、すみません。」
「え?」
凜として少し低めの女の子の声にいちかはようやく気がついて、風船が割れたかのように意識が浮上する。
「あ、うん。ごめんなさい、何ですか。」
声の主に目線を向けると、そこには譲羽しずくが立っていた。しずくはすらりと背が高く、椅子に座るいちかは見上げるようだった。
「本。返したいんだけど。」
目の前に差し出された本を受け取って、貸し出しカードを抜いて返却済みを意味するはんこを押す。
「…はい、確かに。返却、ありがとうございます。」
「うん。」
しずくは素っ気なく頷いて、新刊のコーナーへと行ってしまう。歩くたびに彼女のポニーテールに結った長く美しい黒髪が揺れた。いちかと同様に、しずくもまた読書家でよく図書室で会う。同学年だが、同じクラスになったことは一度も無い。接点こそ少ないけれど、いちかはしずくを好ましく思っていた。
口数少なく、無愛想にも受け取れる態度は潔く、同じ空間にいても決して互いの邪魔をしない。しずくのことは、物語の海に繰り出す仲間のように感じていた。
目当ての本を見つけたしずくはお気に入りらしい窓際の席に座って、読書を開始した。今日も彼女は朝の図書室の風景に溶け込んでいく。
パラ、パラ、と少しずつページをめくる音が密やかに響いた。横顔を彩る睫毛の長さが時折震える。ワンピースタイプの制服の裾が、開け放たれた窓から流れ込む風でわずかに揺れた。しずくは時々、物思うように顔を上げると頬杖をついて外の景色を見ている。
田舎にある高校から見える景色には自然の緑や、空の蒼など目に優しい色合いが多い。彼女の目を優しく癒やしてくれていたらいいと思う。
しばらく、たった二人の図書室を過ごして予鈴が鳴る前にしずくは出て行ってしまった。いちかもその姿を見送って、図書室を閉める準備を始めるのだった。
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