第25話 恋をしていた。

軽音部の合宿が終え、各々がその開放感に浸っていた。

「いちか!ボーカル、やる気になった?」

昇降口に瑞穂も含め、しずくといちかが向かう最中だった。しずくはその答えを、待てを命じられた犬のような瞳をしながらも催促する。

「ボーカルかあ…。」

いちかは悩んでいた。

この淀んだ感情のまま、彼女たちが愛する音楽に触れて良いのか。だが、しずくの望むことは何でもしてあげたい気持ちも強い。

「お願い、お願い、お願い!一緒にやろうよー。」

しずくは両手を合わせて懇願し、後押しをする。

「譲羽は強引だけど、私もいちかちゃんと一緒にバンドはやってみたいにゃー。」

しし、と笑いながら、瑞穂も加勢する。

「…でも、二人とも。私、音痴かも知れないよ。」

「じゃあ、今からカラオケに行こうよ。それでいちかが音痴かどうかを確かめれば良いじゃん!」

いちかの心配も何のその、しずくは積極的にバンドに誘う。その横では瑞穂がスマートホンを高速で操作して、町にあるカラオケ屋のクーポンを取得していた。外堀を埋められて、いちかたち三人はカラオケに向かうことになった。

ギシギシと床が軋む渡り廊下を歩いていると、遠く校庭で厚い雲を背景に野球部が練習する様子が見えた。いちかは立ち止まって、彼を探す。

竹久は白いユニホームを土で汚し、汗だくになりながら球を必死で追う。走り、スライディングをするように球を取ると、すかさず仲間の元へと放った。真剣な眼差しの中に、心底野球を楽しんでいるような笑みが浮かぶ。

「声出して行くぞー!」というかけ声に、更に大きな野球部員たちの声がこだました。

皇高校の野球部は夏の甲子園に出場こそ叶わなかったものの、県大会では良いところまでいったと竹久が嬉しそうに、そして悔しそうに話していたことを思い出す。

「いちかー?」

先を歩いていたしずくが振り向いて、首を傾げてみせる。

「どうしたの。」

「あ…、うん。ねえ、ちょっと先に行っててくれるかな。すぐに追いつくから。」

そう?と不思議そうに呟きながら、いちかと別れてしずくは瑞穂と供に昇降口へと向かっていった。二人の背中が見えなくなった頃、タイミング良く野球部が休憩に入った。

いちかは大きく深呼吸を繰り返す。そして、決意を込めて上履きのまま竹久のいる校庭へと向かって地面を蹴っていた。


竹久は校庭のすみに設置された水道で顔を洗っていた。

校庭を囲む古く錆びたフェンスには蔦が這って、蒼穹を目指していた。背の高い木の幹には一体何匹の蝉が潜んでいるのだろう、大合唱をして生を謳歌している。その大声をかき消して、いちかは竹久に声をかける。

「竹久!」

「!」

竹久は驚いたように顔を上げて、いちかの方を見る。顎の先からパタパタと水が滴り落ちるのを、竹久はユニホームの裾で拭った。

「びっくりしたー…。何、尾上。」

いちかを柔らかい目色で迎えながら、竹久は笑ってみせる。

「…あの、」

いちかは言いよどみ、何て言って竹久からの告白を断るかを考える。考え無しに竹久に声をかけたことを今更ながら悔いた。俯くいちかに近づく竹久の気配がした。やがて、身長により彼の影で太陽が隠れる。

「…うん。告白の返事、伝えに来てくれたんだろ。」

その静かに凪いだ声に、いちかははっとしたように顔を上げた。逆光の中、竹久は尚も笑っていた。

「そっか、やっぱダメかぁ。」

その笑みと声に残念そうな色が滲む。

「え…、何で…。」

いちかは声にしていない自分の声を聞かれた気がして、困惑する。

「わかるよ。」

ずっと見ていたんだから、と竹久は言葉を紡ぐ。

「…、」

「ごめん。でも、わかっちゃうんだな。これが。」

真剣に読書をする横顔。

友人と一緒にお弁当を食べてふくらむ頬。

授業中の眠そうな気配。

笑い声の後に落ち着くようにふっと息を吸う音。

柔らかく落ち着いた目色。

寄せては返す波のような恋の感情に、満ち潮のように高鳴っていく心臓の鼓動を感じていたと竹久は言う。

「一年の頃から気になっていて、今年一緒のクラスで更に隣の席に尾上がいるだなんてこれは奇跡だって思った。」

好き、という感情がこんなにも焦れったく楽しいものだとは思わなかったと言って、竹久は笑った。

「…好きでもないヤツにこんなこと言われたって、気持ち悪いよな。」

竹久の言葉に、いちかは大きく首を横に振る。

「そんなこと、ない。…でも、私…、」

あなたにそんな風に想ってもらう資格はない、といちかは言葉を紡ぐことができなかった。口から出せば後戻りはできず、彼を傷つけて怒らせてしまうことはわかりきったことだった。

「いいって。俺、尾上を好きになって告白できただけで、満足…することにする。」

それはもはや、恋ではなく愛なのではと思うほどに竹久の言葉は美しく見えた。

「竹久ー!練習、再会するってー!!」

二人の間を割って入るかのように、野球部員の声が響いた。「今、行く!えーと、じゃあ尾上。俺、行くわ。」

帽子を被り直して、竹久はいちかの横を通り過ぎようとした。

「待って。」

いちかは慌てて、竹久のユニホームの裾を掴んで引き留めた。

「…何?」

「ありがとう。」

いちかの彼の想いとの決別を込めて言うと、竹久はにっと口角を上げて笑った。

「おう。」

校庭に向かって駆けていく竹久を見送って、いちかは僅かに滲んでいた涙に気が付いた。

「…あれ、何で私、泣いてるんだろう。」

ほろりと一粒の涙が頬を伝って、それをいちかは手の甲で拭い昇降口へと向かって歩き出した。

上履きをローファーに履き替えて、バス停でしずくと瑞穂に合流を果たす。

「バス、もうすぐ来るよ。いちか、間に合わないかと思ってひやひやしたよ。」

しずくは走ってきたいちかの肩を労うように撫でながら言う。

「ごめん。」

バスに間に合ったことに安堵して、いちかはため息を吐きつつ胸元のシャツをパタパタと仰いで凉を求めた。その服の襟からいちかのキャミソールが見え隠れする。

「…サービスしすぎ。」

しずくが頬を紅く染めながら、いちかの手を握ってその動きを止める。首を傾げるいちかをみて、瑞穂は「小悪魔ちゃんだな」と言って笑った。

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