第24話 ポラリス
「…。」
いちかは一人、温めるように両手を揉んでいた。両側からしずくと瑞穂の健やかな寝息が聞こえてくる。
気付かれてはならない。
しずくが、しぶきの妹だったなんて。私はこれから彼女たちにどんな表情をして、接すればいいのだろうか。
強い罪悪感に苛まれて、いちかは無意識に親指の爪を噛んだ。カチカチと震える歯に削られて、爪先はひどく不格好に短くなっていく。
室内を暗くする遮光カーテンから朝日の光の筋が差すのをいちかはじっと見つめていた。やがて朝の七時を指すスマートホンのアラームが鳴り、しずくの目覚める気配がした。アラームを止めて小さなあくびと供に、伸びをするような声。
「…おはよう、しずく。」
いちかは寝返りを打ち、布団から起き出してしずくと向かい合う。
「んー…、おはよ。」
しずくは未だ寝足りないように、目を細めている。無理もない、寝たのはさっきだ。だが、寝起きが良い方なのかすぐに意識は覚醒したようだった。
「よし、おはよう。さぁて、部長を起こしますかー。」
気合いを入れたようにもう一度朝の挨拶を繰り返して、ごそごそといちかの布団を乗り越えて瑞穂の元へと向かう。「部長ー!おはようございまーす!」
容赦なくゆさゆさと瑞穂の肩を揺らすが、唸り声が聞こえるばかりで全く起きる様子がない。
「ううぅ…、はよー…。ふあ、」
低血圧の節があるのか、瑞穂の寝起きは悪かった。瞼が持ち上がりかけては、閉じてしまう。
「…部長、朝が弱いんだ。去年の合宿で発覚したんだけど。そうかんたんには治らないか。」
しずくがいちかに耳打ちする。その間も、瑞穂は睡魔と戦っているようだった。
「起きてください、部長ー。ガンバレ!」
鼓舞するしずくに瑞穂は一瞬、きりりと目覚めた、かのように思えた。
「起きました。あともう一時間、寝かせてくれたまへ。」
はきはきと告げて、瑞穂は再び寝に入ろうとする。
「ダメでーす!!」
ついにはしずくが布団を引っぺがすと、瑞穂は暖を取るように身体を丸めて抵抗した。
「いちか、部長の制服を持ってきて。もう脱がせちゃおう。」
「え?いいの?」
戸惑ういちかに、しずくは「いーの、いーの。」とあっけらかんと手を振った。いちかが瑞穂の制服を用意している間に、しずくは瑞穂を抱き起こしてパジャマ代わりの運動服を脱がしにかかる。
「はい、部長。バンザーイ。」
「ぅ、ん…、はいぃ…。」
まるで幼子のようにぐずりながら、瑞穂は大人しくしずくに服を脱がされていく。昨夜見て思ったが、瑞穂はスタイルが良い。にもかかわらず、身に付ける下着はオレンジ色のチェック柄という意外にも幼い仕様だった。
「部長。ブラのサイズ、全然合ってないんじゃないですか。」
しずくの指摘にいちかもつい視線を、瑞穂の胸元に注いでしまう。瑞穂の胸はブラジャーに押さえ込まれて、些か窮屈そうに見える。
「んあ…、脱ぐ。」
寝ぼけて下着のホックに手をかけようとする瑞穂を、しずくといちかは慌てて止めた。
「待って!脱ぐな!」
しずくは瑞穂の手を取って制止し、いちかは制服のシャツを胸元に隠すようにかけた。
「おーい、女子ー。朝ごはんにしようぜー。」
絶妙なタイミングで茶道部の和室の扉の前から鈴木が声をかけた。その声にはっとして、しずくといちかは目を合わせる。
「ちょっと取り込んでるから、あとで合流する!鈴木は先に行ってて!」
「何、どしたん?」
しずくが叫ぶと、デリカシーなく扉の向こう側で鈴木がドアノブが動く気配がした。
「ちょ、ちょっと待って!鈴木くん、開けちゃだめだって!!」
いちかは悲鳴のように叫ぶ。そしてしずくといちかが扉に突進して封鎖することに成功すると、鈴木に追いついた瀬尾が外で叱る声がした。
「お前はバカか!女子の部屋に気安く入ろうとするな!」「っ痛!頭、叩かなくてもいいじゃんか!」
鈴木が抗議するも、瀬尾は尚も叱り続ける。
「いいや、叩くね。バーカ、バーカ!!ラッキースケベなんて許されねえからな!ごめんね、女子。鈴木は連れてくから、ごゆっくり。」
きゃんきゃんと子犬のように騒ぐ鈴木と飼い主のように叱る瀬尾の声が遠ざかっていった。再び訪れる静寂に、しずくといちかはほっと胸をなで下ろした。
「朝から元気だねえ。君たち。」
振り向くと、完璧に制服を着こなした瑞穂が涼しげに事の成り行きを見守っていた。
「いやあ、大きいサイズのブラってお高いのよね。」
「…部長、もうその話はいいですってば。」
がはは、と豪快に笑う瑞穂の後を、しずくといちかは疲れを隠すことなく項垂れながらついていく。
朝食を終えた後に軽音部の部室集合となっていた。
「さて、今日は短い合宿の最終日です。」
軽音部員が全員集まった部室で、教師の羽田が穏やかに口火を切る。
「君たち青春の一ページに、この合宿が刻まれたなら何よりです。…さて、課題としていた作曲は、皆さん完成できましたか?」
各々が頷く中、部外者のいちかは一人その様子を見守っていた。
今日は朝から気温が高い。部室の窓は開け放たれて、扇風機も回っている。常に生温い空気が循環する中、いちかは今頃眠気が強くなっていた。
眠ってはいけないと強く思う反面、瞼は段々重くなっていく。
『俺の彼女に、なってくれないかな。』
竹久の照れたようにはにかんだ笑顔が逆光に見える。眩しくて、ただひたすらに輝いていた。いちか自身が笑っただけで、自然と口から滑り落ちたという「好き」という言葉。なんて尊くて、なんて美しいと思う。
だけどそれ故に私にはもったいなさ過ぎる言葉で、感情なのだ。
気付くと、どこからか柔らかな旋律が聞こえてきた。
ギターの音が嬉しそうに、そして軽やかに駆けていく。光の音符が跳ねて、追いかけて、花火のように散っていくようだった。
たった一つとして色あせることのないラブストーリーが紡がれていた。
いちかが夢から覚醒し目が覚めると、目尻に涙が溜まっていた。ふと顔を上げると、曲の発表が始まっていてしずくが歌っていた。
「ー…この唇に止まった音を、」
作曲に加えて、詞までつけた歌がうたわれていく。
この唇に止まった音を、あなたに。
闇にそっと光るポラリス。
私を目的の場所へと向かうために、位置を教えてくれるはずだった。ささやき、繰り返し、響く私の星。
目的地に到達できないことはわかっている。
だけど、焦がれずにはいられない。遠く、遙か彼方へ。私は永遠に辿り着くことはできない。
心だけでも、想いだけでもそばにいけたらいいのに。
ポラリス。
私に何を示す。
余韻は静かに響き渡り、深夜の湖畔のさざ波のように広がっていった。
最後の一音が終わり、一瞬の静寂の後に部員と羽田からしずくに向けて拍手が贈られた。
「この短期間で、よく頑張りましたね。」
羽田が目を細めて言う。
「ジャンルに富んで、皆さんが作った曲はどれも素晴らしかった。これからも、音楽の楽しさを追求していってくれれば嬉しいです。」
部員たちは静かに羽田の話を聞いている。
「秋になれば文化祭があります。我々が発表する良い機会であり、一大イベントです。」
ふと、いちかは羽田と目が合った。羽田はいたずらっ子のように下手なウインクをする。
「練習に励んでくださいね。」
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