第9話 ホラー映画の憂鬱

しずくはいちかの登校時刻に合わせてバスを乗るようになった。毎日を先に乗ったバスでいちかを待っていてくれる。「おはよう、いちか。」

いちかの脳内にある乗客名簿に新たにしずくが加わり、世界はより彩りを放つようになった。

「しずく、おはよう。ごめんね、朝早くて。」

今日は朝の図書当番のためにいつもよりも一時間ほど早い。「平気、と言いたいところだけれど…ちょっと眠いね。」

しずくは苦笑しながら、あくびをかみ殺した。

「学校前のバス停まで、寝てていいよ。私、起きてるから。」

「んー…、うん…。」

いちかの言葉に、しずくは眠た気に目を細めて頷く。様子を伺うと、ふ、と小さく息を吐いて瞼が随分と重そうだった。

「…いちか、」

「何?」

舌足らずな声で、しずくはいちかに乞う。

「手を握っていてくれないかな。」

「いいよ。」

しずくの思いがけず子どものような要望をいちかは快諾して、制服のワンピースに添えられていた手をきゅっと握った。しずくの肌は体温が低く、しっとりとなめらかだった。「ありが、と。」

握られた手に、安心してしずくは寝息を立て始めた。

しずくが眠ったのをいいことに、いちかはその馴染みの良い肌が気持ちよくて強弱をつけて握ったり、桜色の綺麗に整えられた爪を指の腹でなぞる。くすぐるようにしずくの手のひらの上で指先を動かしてみた。

「…ん。」

しずくの肩がピクリと震えて、次の瞬間にはことんといちかの肩に寄りかかる。しずくのつむじを鼻先に感じながら、そのシャンプーの爽やかな香りを堪能した。

バスの振動はゆりかごのようで、いちかも眠くなるが二人でバス停を寝過ごすのを避けるために我慢して起きていた。「次は皇高校前―…、」

運転手ののんびりとしたアナウンスにしずくを起こして無事に二人、バス停に降り立つことができた。

「ごめん、よく寝ちゃった。」

しずくは舌先を僅かに出して、いちかに謝る。

「大丈夫だよ。私も危なかったけど。」

いちかの眠気の告白に、しずくは笑った。

「寝過ごしたら、それはそれで面白そうだけどね。終点まで行っちゃったりして。」

二人、会話をしながら校門から校舎に向かっていく途中に、いちかの足下に野球のボールが転がってくる。

「尾上ー!」

名前を呼ぶ声の元を見ると、そこにはいちかと同じクラスで野球部員の竹久七貴がグローブをした手を大きく振っていた。

「ボール!取ってくれよー。」

「自分で取りに来なよねー!」

声を張ったいちかはボールを拾うと竹久に向かって、思い切り腕を振って投げる。が、コントロールはいいものの、パワー不足で竹久の前でバウンドしてしまう。

「ナイスボール。」

笑う竹久に向かって、いちかは頬を膨らませた。

「嫌みなんだから。」

ボールを手にした竹久は尚も笑いながら、野球部が使うグランドに駆けていってしまう。

一連の流れを見見守っていたしずくは、再び歩き出すいちかと肩を並べる。

「仲いいね。クラス、一緒だっけ。」

「席が隣だから、喋るだけだよ。」

僅かに声のトーンが沈んだ気がして、いちかはそっとしずくの横顔を盗み見る。

「…私も、いちかと同じクラスが良かったなあ。」

しずくの言葉には本気で残念がる声色が見えて、不謹慎にもいちかは少し嬉しくなった。だからわざと明るく、大げさに頷いて見せた。

「うん。私も、しずくと一緒だったらよかったのにって思う。」

「…来年のクラス替えに期待、かな。」

いちかの言葉に、しずくもようやく笑みを浮かべて希望を未来にかけるのだった。

そしていちかは図書当番の仕事をこなし、その間しずくはいつも通り読書をして過ごすのだった。

「また後でね。」

「うん。休み時間、しずくのクラスに遊びに行くから。」

予鈴が鳴り、二人は教室の前の廊下まで移動する。そして手を振って、別れた。

いちかが自分の席について、鞄の中から教科書を取りだしているとバタバタと廊下を走る音が響いて、勢いよく野球部員たちが教室に入ってきた。その中には竹久も含まれている。

「ふー、セーフセーフ。」

制服のシャツの襟元をパタパタと仰いで、竹久はどっかと椅子に座った。

「野球部、ギリギリだったね。何してたの?」

前の席に座る女子が声をかけると竹久は、んー、と呟いてにやりと笑う。

「ナイショ。」

「何よそれ、やらしいー。」

あはは、と華やかな笑い声が響く中、竹久はいちかの方を向くと小さな声で話しかけてきた。

「なあ、尾上。今日、放課後ヒマ?」

「え?」

いちかが小首を傾げると、竹久は得意気に胸を張った。

「映画館に行こーぜ。今日、休館日らしいんだけどさ、俺の兄貴が働いてて特別にテスト上映を見させてくれるって。」

映画館は町の数少ない娯楽施設だった。休日ともなれば、中高生が話題の映画を求めて多くが訪れる。

「私も行っていいの?」

「いーよ。あと一人ぐらいなら、俺の紹介で行けるけど。どーする。」

竹久の言葉に真っ先に浮かんだのは、しずくの顔だった。

「あの…、じゃあ私の友達、一人呼んでもいい?」

今日の放課後は全部活の休息日なので、軽音部のしずくも予定さえなければ一緒に行けるだろう。

「了解。あ、他の奴らには内緒だかんな。キリが無いから。」

「ホームルーム、始めるぞー。」

教室に入ってきた担任教師ののんびりとした声に生徒たちは各々、席に着くのだった。


放課後になり、いちかとしずくは連れだって野球部の部室前に訪れていた。

「何の映画かなー。楽しみだね。」

無事に何の予定もなかったしずくにいちかは話しかける。

「貸し切りなんでしょ?私も来て良かったのかな。」

野球部と接点のないしずくは遠慮しているようだった。

「大丈夫だよ、竹久がいいって言ってたし。」

「おう、尾上。お待たせ。」

他の野球部員数名と供に、竹久がスポーツバッグを肩に提げながら現れた。

「えっと、隣のクラスのー…、何さんだっけ。」

竹久が首を傾げながらしずくを見る。

「譲羽しずく。今日はありがと。」

「譲羽さんね。よろしくー。じゃ、早速だけど行こっか。」

ぞろぞろと先に行く野球部員たちの後ろを、いちかとしずくは歩いて行く。いつもとは反対車線のバスに乗って、一行は町の中心部に位置する映画館へと向かった。

普段とは違い、映画館の裏口から入っていく。館内はいつもの喧噪はなく、とても静かだった。

「来たか、七貴。おー、友達もこんにちは。」

竹久の兄、七生が迎えてくれ、野球部は体育会系の礼儀正しさで挨拶を返す。

「今日はありがとーございます!」

「へへ、楽しみにしてました。」

嬉しそうに笑い声を上げながら、興味深そうに映画館のスタッフルームを見渡している。

「ああ、女の子たちもいるんだね。」

いちかとしずくに気が付いた七生はふんふんと頷きながら、二人を見渡す。

「どっちか、七貴の彼女さんだったりする?」

「違います。」

七生の疑問にいちかとしずくが声をそろえた。

「あらら。そうなの。」

あっけらかんと笑う七生の肩を、顔を仄かに赤く染めた七貴が小突く。

「そーゆーの、やめろよな!ただの友達だし。」

「はいはい。ま、頑張りなさいね。」

犬がじゃれるような兄弟の小競り合いを周囲が苦笑しながら見守った。

「さて、じゃあ今日、上映するのはー…ホラー映画でよかったんだっけ?」

七生の言葉に自らの勇敢さを示したい年頃の野球部員たちが頷く。が、強い拒絶反応を起こしたのはしずくだった。

「ホラー映画!?聞いてないよ?」

思わずしずくはいちかを見て、ものすごい勢いで確認してしまう。

「私も、知らなかったよ!?」

指先に火がついたかのように手を振って、いちかは竹久を見た。

「あれ?言ってなかったっけ。いやー、夏の風物詩だよなあ!」

「まあ、そうだけど…しずく?大丈夫?」

先に言ってよね、とため息を吐きつつ、いちかは血の気が引いてすでに顔色が悪くなっているしずくを覗き込むように首を傾げた。

「しずく、無理しないでいいよ。帰る?」

「だ、だいじょうぶ…。」

しずくがこの場の空気を悪くしないように虚勢を張っているのが、いちかにはわかった。わかってないのは男性陣だけだった。

「早速、客席行こうぜ!」

「せっかくだから席の間隔を開けた方が臨場感あるんじゃね?」

ぞろぞろとスタッフールームを出て、野球部員たちは劇場へと向かう。

「い、いちか!私たちは、隣で座ろうね?ね?」

しずくはいちかの腕にすがりついた。

「うん。あの、本当、怖かったらやめていいんだよ…?」

なだめるように体温が下がってひんやりとするしずくの手をいちかは撫でる。

「尾上ー?始まるぞ。怖かったら、固まって座るか?」

二人の様子を伺いに戻ってきた竹久が提案する。

「大丈夫、大丈夫だから!そっちはそっちで楽しんで!!」

しずくはきっと顔を上げて、竹久に宣言した。

「そう?じゃあ、先に行くけど。」

早く来いよな、とのんきに告げて竹久は劇場へと向かって行った。

「行こう、いちか。」

「う、うん。」

腹をくくったらしいしずくの迫力に押されながら、二人で劇場へと足を踏み入れるのだった。

各々が好きな客席に着くと、見計らったように上映を開始するブザーが鳴り響いた。カラカラカラ、と映写機が動き出して青白い光の筋が一本、スクリーンを照らす。身内だけの上映らしく、マナーに関するアナウンスと長い予告をすっ飛ばして、映画の本編が始まった。

冒頭こそポップで明るい雰囲気だったものの物語は一つの綻びから、インクをバスタブに一滴落としたかのようにじわりと、そして確実に不安の種が芽生えていく。粘り気の強い恐怖はまさしくジャパニーズホラーそのものだった。

しずくは要所要所で肩を震わせて怯え、いちかの手を握る力が強くなった。いちかは心配になって横目で盗み見ると、しずくはここぞという場面できゅっと瞼を閉じて耐えていた。その様子が怒られている子犬のように思えて、いちかはふと呼気を漏らしてしずくには悪いと思いながらも笑みを零してしまう。

「い…いちか?終わった?」

映画の音や声が一瞬途切れ、油断したのだろう。一番の山場で瞼を開けてしまったしずくは、スクリーン越しに怪異と目が合ってしまった。

「―~っ!?」

悲鳴こそ飲み込んだしずくはとっさにいちかに抱きついてしまう。しずくの腕が首に回って若干苦しかったが、いちかは我慢した。

やがて映画の上映が終わり、エンドロールを見届けた後に劇場に光がゆっくりと戻ってくる。しずくはずっといちかの肩に額をつけて震えていた。

「…しずく?終わったよ、もう大丈夫。」

心配になっていちかがしずくの肩をとんと突き、合図を送る。

「…。」

ゆっくりと顔を上げたしずくの目の淵にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「ごめんね、そんなにホラーが苦手だったんだね。」

いちかはしずくの頭をゆっくりと撫でながら、言葉を紡ぐ。「もう怖くないよ。」

しずくの冷え切った指先を温めるようにさすって、いちかは席を立った。

「尾上、帰る?この映画、続編もあるけど。」

「うん。私たちは門限があるからこれで帰るね。」

映画をはしごする気満々な竹久たち野球部員たちに別れを告げて、いちかとしずくは連れだって劇場を出た。すると映写室から七生がわざわざ見送りに出てきてくれた。

「ごめんね。弟たち、配慮が足りなくて。」

そう言うと、ポケットから映画館の割引券を取り出して二人に手渡した。

「あいつらは叱っとくから。良かったら、また映画見に来て。今度はとびっきりハッピーエンドの映画を用意するよ。」

「あ、ありがとうございます。」

いちかが代表して礼を言い、映画館を後にするのだった。帰り道のバスの車内。しずくは目元を濡らしたハンカチで冷やしていた。あとで腫れなければいいが、といちかは心配になってしまう。

「…いやー、ごめん。いちか。」

しばらくバスに揺られながら沈黙を保っていたしずくが、ようやく声を発した。

「なんで謝るの。付き合わせちゃったのは、私なのに。」

ごめんね、といちかが謝るとしずくは首をゆるゆると横に振った。

「違うの、私…。竹久くんに嫉妬したんだ。」

「?」

いちかが小首を傾げると、ようやくしずくが目を覆っていたハンカチを取った。

「いちかの隣に竹久くんが座るかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなくて…。子どもっぽい独占欲です、はい。」

目元を赤く染めながら告白するしずくに、いちかは目を丸くして、そして苦笑した。

「そんな…。心配しなくても、私、ホラー映画が苦手じゃないから竹久がいなくても平気だよ。」

「ええー…。いちか、強いな。」

いちかの答えにしずくはがっくりと項垂れるように肩を落とす。ふふ、と微笑みながら、いちかはしずくの手を握った。

「独占欲が丸出しのしずくなんて想像つかなかったから、嬉しいよ。ありがとう。」

「…私、欲深いから。」

しずくの言葉にいちかは、そうなの?と首を傾げて見せ、でも、と続ける。

「もっと、色々なしずくが見たいよ。」

「私、すげーめんどくさいからね。覚悟しといて。」

恥ずかしそうにして唇をとがらせるしずくを見て、いよいよいちかは笑って答える。

「楽しみにしてるね。」

―…その日の夜。

『思い出して、無理!』

しずくの要望で、二人はスマートホンで寝落ち通話をしたのだった。

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