第27話 大好き

カラオケ屋を後にして、バスに乗っていちかは帰路についた。家の庭ではみちが花壇の手入れを行っていた。

「あ、おかえり。いちか。」

泥だらけの軍手のまま額の汗を拭うものだから、みちの顔に土が付いている。

「お母さん、ただいま。熱中症、気をつけてよね。」

「ちゃんと水分摂りながらやってるわよ。ありがとね!」

みちが指さす方向を見て木の下にしいた新聞紙の上に水筒があることを確認して、いちかも安心して頷いた。

「あ、ねえ。一口ちょうだい。喉渇いた。」

そう言うと、いちかは水筒を手に取って口を付けた。氷がかろんと揺れる音が響いて、冷たいほうじ茶が喉を通り胃に溜まっていくのを感じた。そのままいちかは縁側に腰掛けて、みちの仕事っぷりを見守った。

背の高いひまわりの足元に生える雑草をみちは根気よく丁寧に摘み取っていく。みちの背後はまるで鹿が通った後のようだった。

「お母さん、皆、ひまわりの花を見るから根元の草なんて見ないんじゃないの。」

「何言ってんのよ。灯台もと暗しよ。」

意味が違う気がするが、彼女の中では完結された理由なのだろう。

「そういえば、いちか。合宿の手伝いってのはどうだったの?楽しかった?」

「うん。何か、バンドのボーカルを頼まれた。」

いちかは暑さに耐えきれずに、ローファーと靴下を脱いで裸足になりながら答える。束の間の清涼感と開放感に足を揺らしていると、縁側の隣にみちが座った。どうやら休憩を挟むらしい。

「ボーカルって、歌をうたう役でしょ。すごいじゃない。」

みちは嬉しそうにいちかを見る。そしていちかから手渡された水筒を傾けて、喉を潤した。

「いちかが歌う場面ってどこかで見られるのかしら。楽しみだわあ。」

「…文化祭のステージで歌うみたいだけど。」

当面は文化祭を目標に活動、練習をしていくからと瑞穗から聞いたことをそのまま伝える。するとみちは手を叩いて、喜んだ。

「じゃあ、見に行けるね。」

「見に来るんだ…。」

いちかが羞恥心でわざと素っ気なく言うと、みちはあっけらかんと笑う。

「あったりまえでしょ。娘の晴れ舞台よ!」

練習頑張りなさいよ、と背中を豪快に叩いてみちは花壇の手入れを再開するのだった。

「ねー、お母さん。」

元気そうな様子で摘んだ雑草をゴミ袋につめるみちにいちかは声をかける。

「なあに?」

「最近、身体の調子はどうなの?」

大丈夫なのか、という意味を含めていちかは問う。

「すこぶる良いわよ。」

ゴミ袋の口を結びながら、みちは歯を見せて笑う。

「なら、いいけど。」

「何?また心配してるの?」

みちはいちかが己の白血病の再発を恐れていることを知っていたので、大げさなほどに笑い飛ばした。

「大丈夫よ!いちかが一人の内は、死なないから!」

「…じゃあ、私が結婚したら死ぬの?だったら、絶対にしないから。」

いちかは俯き加減で、いじけたように呟くと目の前にみちが立つ気配がした。

「いちか。」

「…。」

軍手を取ったみちの柔らかい手のひらが、いちかの頭を撫でる。

「人は順番に死んでいくものだから。私は確実にあなたよりも先に逝くけど、孫の顔を見るまでは死なないわよ。何ならひ孫も見る予定だからね。」

「…うん。ごめんね。」

かつて、その順番を破って死んだ大切な友人がいた。

「謝ることはないわよ。」

みちはそう言うけれど、そうじゃない。そうじゃなくて。

しぶきの自殺を止めることができなかった。しぶきの両親もみちと同じ夢を抱いていただろうに、私のせいでその夢を壊してしまった。

楽しい時間を過ごせば、その時間の濃さに比例して罪悪感が強く募る。

「さて、と。おやつにヨーグルトゼリーを仕込んでおいたのよね。もう冷えてると思うけど、食べるでしょ?」

花壇の手入れを終えたみちがゴミ袋をまとめながら、いちかを見る。ヨーグルトゼリーはいちかの好物の一つだ。我が子の喜ぶ顔が見たくて、みちは用意しておいてくれたことが手に取るようにわかった。だから、いちかは罪悪感を隠して笑うのだった。

「食べる。大好き。」

私は今、ちゃんと笑えているのだろうか。


その日の夜、しずくは自宅にある私室のベッドに寄りかかりながらギターの練習をしていた。いちかの歌声を聞いて俄然、音楽に触れたくなった。今は『SummerTime Blue.』をスマートホンの動画アプリで流しながら、耳コピで奏でている。

「ん…、ここの旋律難しいな。」

サビに続く前のテンポが速くなる箇所に苦戦しながらも、いつもより楽しく演奏ができている。近所と言っても田んぼや畑を挟んでいるので、多少の物音の大きさは寛容された。心置きなく、時間の心配なくギターを奏でることができるのは大きな利点だと思う。

ギターはしぶきの影響で始め、彼女が亡き今はギターそのものを受け継いだ。しぶきはおこづかいを貯めて、中古のものを買ったと言っていた。だが、それでもしぶきはこの赤いギターを大事にしていた。

「…。」

ぽろぽろと弦を爪弾いていると、しぶきが奏でる音色を思い出す。中学校の登校を拒否して、自分の部屋に閉じこもっている最中にもよく聞こえてきたものだった。

やがてしぶきは保健室登校にまでは回復した。そしてある時期から昔のように表情が豊かになってきたのだった。恐らく、名前も知らない誰かとの手紙のやりとりが始まった頃だと思う。

どうして、妹の私じゃダメだったんだろう。

しぶきが大好きだった。生きていて欲しかった。

せめて私が手紙の相手だったなら約束を確実に、一緒に死んであげたのに。

しぶきの自殺は、春原家のしあわせだった生活に多大なる影響を及ぼした。母親はしぶきの死を悼んで精神を病み、それでも立ち直ろうとした父親と衝突した。結果として両親は離婚して、歪な形の家族ができあがった。

しずくの視界が涙でゆらりと揺れる。

「お姉ちゃん…。」

明確な時期を設定していなかったが、恐らく夏休みを終えればいちかとの偽姉妹の関係は終わる。夏はしぶきが一番好きな季節だった。だから、彼女の面影をいちかに重ねてしまった。

いちかは不思議な女の子だ。

明るい笑顔に時々陰りが差し、涙もろいと思えば強いところを見せる。永遠の子どもでいて、初めから大人のような感覚をいちかから得た。それは、しぶきからも感じた。

しぶきは精神年齢が高いわりに、許せないことがあれば断固として首を縦に振らない節があった。そのアンバランスさが中学に溶け込むことができなかった要因だろうと思う。しずくは涙を拭って、一度ギターを置き、休憩を挟むことにした。この夏、いちかからもらったうさぎのぬいぐるみを抱っこしながらしずくは窓の網戸を開けて視界をクリアにする。夜空を見上げれば夏の星座が輝いていた。

窓サッシからベランダに向けて素足を投げ出して座る。抱いたぬいぐるみのふわふわの肌触りが気持ちが良い。しばらくうさぎの耳を交互にぱたぱたと弄って遊ぶ。この年齢になって、ぬいぐるみと遊ぶことになるとは思わなかったが案外悪くはなかった。

唐突にスマートホンが鳴る。室内に戻り、テーブルの上にある端末を手に取るとその液晶画面にはいちかの名前が刻まれていた。画面をタップして応答する。

「もしもし、いちか?」

「しずく、夜遅くにごめんね。今、いい?」

うん、と呟きながら頷くと、いちかは安心したように話し出す。とりとめの無い会話を紡ぎ、楽しい時間は過ぎていく。

「そうだ、ねえ。夏休みの課題、どのぐらい終わった?」

いちかの問いに、しずくは自らの進捗を思い出す。

「三分の二ぐらいかな。いちかは?」

「私も、それぐらい。最後に数学を残しちゃって。なかなか終わらないんだ。」

そういえばいちかは数学が苦手だと言っていた。苦戦するいちかを微笑ましく思い、しずくはある提案をする。

「また教えてあげようか。一緒に課題を終わらせちゃおうよ。」

「いいの?嬉しいー、助かる。」

明日の午後、しずくの家に集合する約束を取り付けて二人は電話を切った。初めてのいちかの来訪にしずくは浮かれ、部屋の掃除に取りかかるのだった。

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水喰み 真崎いみ @alio0717

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