本作については、天川さんが熱のこもった読書感想文を書かれている。
https://kakuyomu.jp/works/16818093079913513665
作者さまとの往復書簡のようになっているので1万字を超えているが、書き上げた一つの作品が誰かの胸に届いて、このように想うことを展開してくれるというのは、その作品に天川さんいわく、
『この作品は私の記憶への干渉の仕方が非常に巧みであった』
この力があったからに他ならない。
作品を読んだことにより天川さんの記憶の蓋が開き、憑りつかれたように所感を書かずにはいられなかったのだ。
まず天川さんの感想を読み、本作を読んだ。
『自分が優位に立てる相手に対して、どこまでも優位性を誇示し優越性を感じて幸せになっている人間特有の、あの雰囲気』
天川さんの文章の中で特にここが引っかかったので、作品を読んでみようという気になったのだ。
この作品には毒親が出てくる。
人格障碍者が親だった際のパターンが詰まっている。
娘にブラジャーや生理用品を買い与えないのは、毒親あるあるだ。
毒親にとって娘は、女であっては困るのである。
女であることも、男からモテるのも、優秀で有能で、友だちが大勢いるのも、自分だけでいいのだ。
支配・搾取・対人操作性のある人格障碍者(女)からわたしは長年ストーカーされているのだが、相手の言動の異常さを調べるうちに、世の「毒親」とそっくりの同じ言動をとっていることに気がついた。
そこから相手が人格障碍者なのだという結論に辿り着き、自分の周囲に起こっていることを理解することが出来たという経験がある。
その正体はとても分かりにくい。
パーソナリティー障碍者は、まず最初にターゲットの周囲の人間を「ここだけの話」で洗脳して、ターゲットではなく自分の味方として取り上げてしまうという行動をとるからだ。
認められたい。幸せになりたい。
本来それは、自分自身の魅力と努力で叶えるものだ。
でも毒親になるような人間にはそれだけの魅了はない。地味で地道な努力も大嫌いである。
ではどうするのかというと、手っ取り早く娘の能力に寄生し、娘の交友関係に干渉し、巧みな悪口で娘から友だちを取り上げ、
「劣ったお前なんかよりもこっちのほうが人気者で偉いんだぞ?」
と勝ち誇るのである。
毒親は娘の全てを監視して、否定せずにはいられない。ケチをつけて娘の価値を押し下げる。
「下げておくべき人間がいないと、自分が下になってしまうじゃないか!」
そんな心理なのだそうだ。
これは人格障碍者の、神経症的競争と呼ばれている。
人格障碍者は死に物狂いでターゲットに付きまとい、常にターゲットの粗さがしをやっている。
そして粗を見つけると勝ち誇り、価値を下げて恥をかかせるために大声で触れ回る。
「今日もあんな劣った女よりもアタシの方が上だったか」
とニヤつきながら満足して寝るのだ。
虚構の優越感であってもまったく構わない。
ストレートな悪口だと正体がばれる。
「心配で見守っているの~」と上ポジションの救済者のふりもよくする。
どちらにせよ、ターゲットを下げれば下げるほど、何ひとつ努力しなくとも注目のヒロインになってちやほやされる結果になるので、寄生すると超お得というわけだ。
これが人格障碍者のパターン中のパターンで、人格障碍者はみんなこれをやる。
愕くことに毒親は、「ブラジャーも生理用品もちゃんと買い与えている」と外にはアピールする。
「非の打ち所のない優れた母親なのに、どうして娘はすぐに拗ねて、反抗するのだろう」と考える。
自己催眠にかかったかのように、本気で本人が「わたしほど子どものことを愛している人間はいない」と想っているのだ。
この認知のゆがみが人格障碍者ならではだ。
最近になってようやく毒親・人格障害者という存在が知られてはきているものの、被害者にならないとこの異常さは分からないだろう。
ブラジャーと生理用品の一件に加えて、主人公の名に『愛』がついているのも実に象徴的だ。
毒親はよく子どもに『愛』の漢字を使う。
もちろん、名付けにおいて常にランキング上位の大人気のこの漢字、ほとんど親は「わが子が愛される子になりますように」「愛に包まれた人生を送りますように」という親らしい愛情をこめた願いでつけている。
だが毒親は違うのだ。
「お前は親を愛して尽くすんだぞ?」
こんな強制力を込めてこの文字を与えるのだ。
このように毒親のもとに生まれた子どもは、生まれた時から親の引き立て役であり、尊厳を潰され、全てを奪われていく奴隷なのである。
本作は、姉妹がそんな毒親から逃亡するところから始まる。姉はすでに、母親が異常なこと、世間がきれいごとだけで何の役にも立たないことを知っている。
『自分が優位に立てる相手に対して、どこまでも優位性を誇示し優越性を感じて幸せになっている人間特有の、あの雰囲気』
自分のことではなく大切な妹を守るという動機に覚悟と勇気を得て、姉は想い切るのだ。
少女たちは海に行く。
このあたりで、わたしの脳裏には、レベッカの「MOON」という曲が想い出された。
もしかしたら作者もこの歌を知っているかも知れない。
作中の印象的なモチーフが、この曲と共通なのだ。
真似というわけではなく、ひりひりした痛みを抱えて海に逃げていく少女の眼の前に映る風景と、この曲はひどくシンクロしている。
レベッカの曲を胸に抱いて家を出た少女が当時どれほどいたことだろう。
「このアルバムだけは捨てられない」と今でもレベッカのCDを大切に持っている人も多いのではないか。
やけくそでもなく哀しくもなく、ただ月は全てを見ていたと「MOON」は歌い上げているだけなのだが、そこには母いて娘がいて、工場が出てきて、想い出ひとつ持たずに家を飛び出すその先に、また月がある。
不良の歌……としてわたしはレベッカを聴いていたのだが、それでも「MOON」には幼い頃の郷愁と、全てを振りほどいて外の世界に出て行く少女の痛みがあって、今でもたまに夜のコンビナートなどを見ると、十代が一時的に抱きがちな閉塞感と共にこの曲が想い出されることがある。
海に行った姉妹は成人女性に拾われる。
この女性は妊娠中に、しあわせそうに見えるのが気に食わないとして実母から流産させられ、それがもとで子どもがいない。
世の中には、本当におかしい人間がいるのだ。
誰かが楽しそうにしていると、「もう古い」「痛々しい」と必死の形相で、何が何でも無価値のものに下げずにはいられない。
そうすると、高揚するのだそうだ。
「今日もアタシの方が、あんな劣った女よりも人気者でモテモテで、最先端の優れた存在だったか」と。
姉妹を拾った女性は少女に生理用品を与え、二人の少女にブラを買ってあげると云う。
未成年の子どもたちに恩を着せることもない。
当たり前のことを与えてくれるのだ。
このままでは自分だけでなく妹までも母親の犠牲となり、将来的にはかわいい妹に対して「身体を売って親の為に金を作ってこい」と命令するだろうことを見越して妹を連れて家から逃げ出した姉は、逃亡先ではじめて、必要最低限のエサではない楽しい食卓のために作られた食事を口にする。
ところで、この人格障碍者は大変に「しつこい」ことで知られている。何故かというと、獲物が世界中から忌み嫌われて、自分の監視下で不幸で惨めでいてくれないと、自分自身の不幸と惨めと無能さに直面しなければならないので、発狂しそうになるからだ。
ちょうど鏡のように、ターゲットにした人間を自分の汚点や負のなすり付け先として使うのである。
なので対人操作という余計なことをやり続けて、ターゲットの人生や人間関係を破壊し続け、自分が優位に動き回れる居場所づくりに余念がない。
「ここのヒロインはあの女じゃなくてアタシよ!」
暴走トラックのような行動をとり続けるのだ。
つかの間の姉妹の幸せは、守られるのだろうか。
世の中はまだまだ、「子どもを愛さない親はいない」「あなたの為をおもって」神話が優勢で、児童養護施設にいる子どもも『優位の立場からふんぞり返る』大人たちによって、好き放題に踏みにじられている。
※残念なことに、ああいう施設に就労したがる人間の中には、抵抗できない弱い立場に向かって思うさま権力をふりかざし、嘲笑し、「しつけている」とうそぶいて虐待をする人格障碍者がたまにいるのだ。
この少女たちはプリン・ア・ラ・モードも食べたことがなく、穏やかな優しい気持ちで月を見上げたこともない。
月は、牢獄から見上げる井戸の出口のようなものであって、手を伸ばしても決して届かないことを彼女たちに思い知らせてきた遠い光だ。
レベッカの曲を知る人も知らない人も、結末は本編で確認して欲しい。