第19話 後ろ髪

中学生の頃。母親が血液のがん、白血病を患った。しかも、急性のもの。父親はいない。私たちはたった二人の家族だった。

骨髄移植が必要な母とは、タイプが違うことを知った私にはドナーが現れることをひたすら願うことしかできなかった。

母は私に心配させないように気丈に振る舞い続けたが、抗がん剤治療はつらく厳しい日々だった。病院に入院した母の見舞いを終えたとある夜のこと。私は一人ぼっちの家で、お風呂に入っていた。泣くときは風呂場と決めている。瞳から涙が零れて、さらさらと浴槽のお湯に溶けていって最後に全てを流してしまえば不思議と気分はすっきりとした。だが、その日は違った。無菌室にて母の青白く眠る顔を思い出して、唐突に理解した。


ー…ああ、死ぬのだ。

このまま病院から出ることもなく、次に帰ってくるときはきっと母が母でない亡骸となったときだ。

そして私は、永遠にひとりぼっちになる。


涙は何故か零れなかった。


私には手紙のやりとりだけの親友がいる。母が欠けた日常を埋めてくれた。

【お母さんが、死ぬかもしれない。】

まだ希望を込めて、かも、と表現したが恐らく母は死ぬ。

その絶望を秘めて、私は親友に零した。

【私も、死にたい。】

心の叫びに、親友はそっと私に寄り添ってくれた。

【一緒に死のうか。】

親友もまた生きづらさを抱える仲間だった。

私は甘美な響きを含んだ誘いを断らなければ、いけなかった。


「いちか?ぼーっとしてるけど、どうかした?」

物思いにふけるいちかの顔を猫背になって覗き込むのは、しずくだった。

皆で作った夕食を食べ終えて食器を片付けながら、どうやらぼんやりとしてしまったようだ。

「…ううん。なんでもないよ?」

「そ?なら、いいけど…。これ片付けたら、いよいよナイトプールだね。」

しずくがいちかの耳に顔を近づけて囁く。ちら、と時計を見ると夜の九時、二十分前だった。片付けを終えて、女子三人組は偽りのお風呂セットと着替えを持って、行動に移す。

「じゃ、私たちはお風呂行ってきまーす!」

瑞穂が自然体に男子生徒に告げて、しずくといちかは後に続いた。羽田は仕事が残っていると、一足早く宿直室へと向かっている。

夜の校舎を月明かりを頼りに進んだ。影の色濃く、三人分着いてくる。

女子トイレに着いて、内側からかかった錠を落として窓をカラカラと小さな音を立てて開けた。

「よっし、先に行くわ。」

瑞穂が身軽に窓サッシに足をかけて身体を持ち上げた。先陣を切って、中庭の地面に着地する音が聞こえた。

「次、私ね。」

しずくが瑞穂の後を追って、窓から出て行く。残されたいちかは荷物を外の二人に預けて、外を覗く。するとしずくが手を差し出してくれた。

「いちか、手。」

「うん。」

その手を取って、いちかは窓から外に身を投げた。ふわっとした浮遊感を伴ったのは一瞬で、すぐに足裏に草の柔らかい感触を得た。

「!」

ぐらり、と身体が揺れて、いちかはしずくに寄りかかってしまう。

「大丈夫?」

しずくはいちかを抱きしめるように受け止めて、立たせてくれた。

「ごめん、よろけちゃった。」

「二人とも、行くよ。」

瑞穂に促されて、しずくといちかはそっと歩き出した。

月の白い光を浴びて、中庭の植物たちは銀色に輝いていた。生温い風に煽られて、時折木の葉が擦れ合って涼しげな音を立てる。

中央に位置している噴水は水流が止められていて、今はとても静かで月を飼い慣らすように水面に映していた。

無言のまま、昼間に窓を確認したいちかが先頭になって歩を進めた。そして目印に小さく色の付いたテープを貼っておいた窓に到着して、三人は校舎に潜り込んだ。そして悠々とプールまで続く渡り廊下まで抜けるのだった。

カシャカシャと音を立て、プールの周囲に張られたフェンスをよじ登る。

「っしゃ!到着ー。」

瑞穂は喜々として、制服を脱ぎだした。そのあまりにも大胆な行動にいちかがぎょっとしていると、しずくが苦笑しながら補足してくれる。

「あー、大丈夫。部長、下にもう水着着てるって。」

「ん?何か言った?」

見ると、すでに水着姿の瑞穂が首を傾げていた。

「二人も早く着替えておいでー。」

手のひらを振って、瑞穂は二人に更衣室に行くように促す。「へーい。ていうか、部長、どれだけ楽しみにしてたんですか…。」

しずくは呆れたように笑い、次にいちかの手を取って更衣室まで誘った。

更衣室の中は湿度が高く、おまけに日中の気温のせいでむっとするようだった。

「電気つけると近所にばれるかもだから、消しておくね。」

しずくが冷静にそう分析して、月明かりだけが頼りの更衣室で着替えることとなった。

パサ、と制服の布地が落ちる音が妙に敏感に耳に響く。しずくの丸い肩があらわになり、その手がブラのホックにかかる。いちかは見てはいけないものを見た気になって、目を反らした。自らも着替えに集中しようと思い、制服のワンピースのチャックを下ろした。

「遅ーい、二人とも。」

水着に着替えて、プールサイドに行くと瑞穂が待ちくたびれて足を水中に浸していた。

「すみませんって。暗いから、水着の裏表を確認するの大変だったんですよ。」

「私みたいに制服の下に着とけば良かったのだよ。ふっふっふー。」

瑞穂が胸を張る。

「いや…、絶対に窮屈っしょ…。」

「譲羽は気にしいだなあ。」

ははは、と笑うと、瑞穂は立ち上がった。そしてしずくといちかの真ん中に立って腕を組む。

「それっ!」

そしてそのまま二人を道連れにするように、プールに飛び込んだ。

高く水飛沫が立ち、空気の白い泡が水中に生まれる。いちかは一瞬、上下左右がわからなくなって、でもすぐに足が着いて事なきを得た。

「ちょっと、部長!危ないって!いちか、平気?」

「う、うん。」

ぷは、と息継ぎをするように水中から生還する。

「ごめんにゃー。嬉しくて、つい。」

瑞穂は二人に両手を合わせ、そして背泳ぎをするようにプールの中央に行ってしまう。

「まったくもう。」

「まあまあ、しずく…。楽しいね。」

いちかがクスクスと笑うと、しずくも笑ってくれた。

「私たちも泳ごうか。」

そう言うと、しずくはいちかの手を引いた。

真夏の夜、まだ空気は暖かい。

近所に続く沢から流れる水の音、ウシガエルの低い声がゆっくりと響いていた。水面に浮かぶと、耳の奥に水が入り込み自らの血液の流れる音が密になった。

空を仰ぐと降ってきそうな星々が瞬き、柔らかい月が眩しい太陽の光を優しくしている。

プールの塩素と植物の青臭い香りが辺りに満ち、きっと何年か先もトリガーとなってこの夜を思い出させてくれるはずだ。

いちかは夜空を持ち上げるように片手を宙に晒した。整った爪先から透明の水の雫が滴り落ちて、手の甲、手首、腕へと伝って落ちていく。まるで宝石が転がり落ちていくようだった。

隣から波が立つ。ふと、顔を横に傾けるとしずくが平泳ぎで近づいてくるところだった。

「そういえば、しずくって泳ぐの上手だったよね。」

「うん?話したことあったっけ?」

しずくが首を傾げる。いちかとしずくのクラスは、合同で水泳の授業をしたことがない。

「私の席、窓際だから授業中に見たことがあるの。トビウオみたいだなと思った。」

初夏のあの日。二人が偽の姉妹になる前のことだからまだ一ヶ月しか経っていないのに、随分と遠い過去のようだった。

「…見ててくれたんだ?」

しずくが恥ずかしそうにはにかむ。

「うん。」

ちゃぷっと水を揺らしながら、いちかは水底に足を着いて起き上がった。短い髪の毛が首筋に張り付く。しずくはそっと払うように、いちかの髪の毛を一房取った。

「ありがとう。嬉しい。…ねえ、いちかって髪の毛を伸ばさないの?」

「え?」

首を傾げてみせると、しずくは指先に巻き付けるようにしていちかの髪の毛を弄ぶ。

「いちかの髪の毛って、細くて繊細だから長くても綺麗だとおもうんだけど。」

「猫っ毛だから長いと、すぐに絡まっちゃうんだ。」

いちかは懐かしそうに目を細めた。

「お二人さーん、そろそろプール出ようか。シャワーを浴びる時間が無くなるぞ。」

ナイトプールに満足したらしい瑞穂が二人に声をかける。その言葉に校舎に設置された大きな時計を見ると、もうそこそこの時間だった。楽しい時間ほど、過ぎるのが早い。

「はあい。」

「わかりましたー。」

瑞穂がプールサイドに上がり、いちかとしずくも続く。タオルを羽織るとふわっと温かさに包まれた。真夏の熱に温められた水とはいえ、身体の温度は下がっていたようだ。

「ん?いちかちゃん。」

髪の毛の水分をタオルで拭っていると、瑞穂がぐいと顔を近づけてきた。そして、何かを確かめるようにじっと見詰めてくる。

「何か、ネックレスしてなかったっけ。」

「…え?」

どくん、と心臓の鼓動が軋むように一回大きく鳴った。そして無意識に祈るように両手を鎖骨の下で合わせる。手のひらにいつも感じていたはずの鍵の感触が、無い。

「ネックレスなんて、してた?」

しずくがいちかを見る。

「見間違いかな?」

瑞穂も記憶が定かで無いのだろう。うーん、と首をひねっている。一方、いちかは内心でパニックを起こしかけていた。

目の前がチカチカと点滅して、呼吸の仕方を忘れそうになる。それでも何とか持ちこたえたのは、二人に動揺を知られたくないと言う意識からだ。

「え、と。多分、プールに入る前に外したんだと、思います。」

自分で言いながら、そうであってほしいと願って止まなかった。それからのいちかの記憶は曖昧なものになった。

机の鍵を無くした恐怖、このまま見つからなかったらという緊張。着替えの最中、いちかはわらにもすがるような気持ちで二人に不審に思われないように、鍵を探した。

「…ない…、」

いつもなら外して大切にしまっておくはずなのに。ずきりと頭痛がいちかを襲う。思い出そうとして、全く記憶にない。着替えをするときに緊張しすぎたのだ、きっと。それほどまでに、しずくとの更衣は刺激的だった。

「いちかちゃん、そろそろ行くよ?」

泣きそうになりながらもいちかは何とか持ちこたえて、後ろ髪を引かれる思いでプールを後にした。

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