それはそれで問題がある気がするけどねえ


 宗像ササエことボブは、総合病院の診察室の前に設置されたベンチに座っていた。

 真っ白なリノリウムの床が伸びている中、彼は駆け付けた母親の隣で、じっと腰を下ろしたまま動かない。


「全く、事故に遭ったって聞いた時はびっくりしたけど、飛んできてみれば全然大丈夫そうじゃないかい。心配させるんじゃないよ」

「ごめんね、母さん」


 ボブの母親であるタエコは、白人を思わせる程に白い肌と、高い鼻。彫りがはっきりとした顔立ちのお陰で、ママ友からはナンシーというあだ名をつけられている。血は争えないらしい。

 おまけに身長が百九十センチもあり、彼同様に身体を鍛えている為に筋肉が盛り上がっていて、二人揃っているとかなりの威圧感がある。


 何故こんなに元気そうな二人が病院にいるんだと、周囲の患者は首を傾げるくらいであった。


「ま、検査の結果次第だけどね。父さんも心配してたよ、会議が終わったら早退してくるって」

「父さんも、来てくれるんだ」

「大事な一人息子だからねえ。ああ、そう言えば。今日は文化祭だっけ」


 タエコことナンシーの言葉に、ボブはピクリを眉を動かした。チラリとみた病院内の時計の針は、公演開始時間に差し迫ってきている。


「せっかくの日に大変なことになっちゃったねえ。検査に問題が無かったとしても、あんまり楽しめる時間もないんじゃないかい? ならいっそのこと、家族三人でお出かけでもしようか。トレーニングに必要なもんはいつも車に積んであるし、最近いつものジムに新しい機材が入ったって聞いたからねえ」

「ありがとう、母さん」


 ボブは母が気を使ってくれているんだと分かり、すぐにお礼を言った。彼女もお礼を受け取って、息子に対してにっこりを笑いかける。


「気にしなさんな。子どもなんて、親のすねを齧ってナンボだよ」

「宗像ササエさん、診察室へどうぞ」


 女性の看護士に呼ばれたボブは母親と共に立ち上がり、開かれた部屋の中へと入っていった。診察机に腰掛けた白衣をきた白髪のおじさんが彼らを丸椅子に座るように促し、診察テーブルにレントゲン写真を掲示する。


「念のためにCTでも検査させていただきましたが、何処にも異常はありませんでした。おそらくは問題ないでしょう。ただし、遅れて何かが発症する例も少なくありませんので、しばらくは激しい運動は控えてください」

「ありがとうございました」


 医者の言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろしたナンシーが頭を下げ、ボブも続いた。特に薬を処方されることもなかったので、そのまま会計をして病院を後にする。


「さてと、まずはお昼ご飯にでもしようか。何か食べたいものは」

「ごめん、母さんッ!」

「って、ちょ。ササエッ!?」


 病院の玄関を出た途端、ボブは走り出した。ナンシーの静止も聞かないままに全力で手と足を振り、歩道を駆け抜けていく。


「まだだ、まだ間に合う。こんな時の為に鍛えてたんじゃないか、ボクはッ! アニー、クララベル。ヘンゼルとグレーテルに、アンディとフランク。今こそ力を貸してくれッ!」


 ちなみにヘンゼルとグレーテルは左右の太もも、アンディとフランクは左右のふくらはぎだ。

 勢いよく走りだした彼だったが、程なくして信号に捕まった。目の前の車は悠々と走り去っていくのに、歩行者用の信号は一向に変わらない。


 気が急いている彼は段々とイライラし始め、右のつま先がせわしなく地面を叩いていた。


「早く、早く変わってくれよッ! 必ず行くって、約束したんだ。新藤先輩が待ってるって言ってたんだッ! こうなったら」

「止めときな、今度こそ轢かれるよ。ってか激しい運動は控えろって言われた矢先に、何をやってるんだいアンタは」


 車が来ないタイミングを見計らって飛び出そうとした彼に、待ったがかかった。誰だと思って隣を見てみれば、白い軽自動車の窓を開けてこちらを見ているナンシーの姿がある。


「止めないで母さんッ! ボクは急いでみんなの元に」

「分かった、アンタの意気込みは分かったから……さっさと乗りな、ササエ」

「ッ!」


 ボブが目を見開くと、ナンシーはニカっと笑ってみせた。


「事情は知らないけど、急いでるんだろう? アンタがどこまで鍛えたのかは知らないけど、車に勝てる訳ないさね」

「母さん、なんで」

「何年、アンタの母さんをやってると思ってるんだい。ほら、そろそろ信号変わるよ」

「……うん。頼む母さん、急いで学校までッ!」

「あいよッ!」


 大きい身体を折り曲げて、ボブが器用に乗り込んだ後。信号が変わると同時に軽自動車は急発進した。ボブの背中がシートに叩きつけられる。


「か、母さんこの速度」

「大丈夫、法定速度は守ってるからねッ!」

「そ、それなら良いけど」

「よおし、こっちの河川敷なら警察の見張りもないよッ!」


 母親の言葉を信じたボブは、彼女の目の前にある速度計は見ないことを心に決める。針の位置は明らかに半分よりも右寄りだったが、気のせいだと思うことにした。

 激しい速度で他の車や景色が後ろへと置いて行かれる中、ボブの目に一つの背中が映った。


「って、止めて、止めて母さんッ!」


 息子のストップを受けたナンシーは、ブレーキを踏んだ。タイヤと道路が擦れる甲高い音が鳴った後で、車は急停車した。



 ヨルカは自室での裁縫作業を終えた後に、ミシンの電源を切ることもしないままに家を飛び出した。

 藍色のスウェット姿という着の身着のまま、直し終えた衣装といつものお饅頭を大きめのスーツケースに詰めて、急いで白泉高校へと走っていく。衣装直しを頼みに来たクラスメイトは仕事の為にすぐに戻っていき、彼女は今一人だ。


 晴天の下。スーツケースのタイヤをゴロゴロと転がしながら街中を駆け抜け、高校へと続く河川敷に差し掛かかろうとしたが。


「はあ、はあ、はあ、はあ」


 すぐに限界が来た。

 最近になって鍛え始めたものの、彼女は未だに体力が課題だ。肺は空気を取り込もうと必死になって収縮を繰り返し、近くにある心臓は悲鳴を上げている。


 汗がダラダラと流れ落ちる中、走る速度が急激に落ちていく。


「はあ、はあ、はっ、はっ、はっ」


 息遣いが短いものになってくる。不味い、と彼女は思った。

 短くなった息遣いから胸の痛みへと移り、意識が朦朧としてくる。倒れる前の前兆だ。以前校舎の周りを走って限界を迎えた時と、同じ症状。


「はあ、ふうっ、ふうっ。すーっ」


 何とかして息を吸い込もうと、ヨルカは口を開いた。


「げほっ、げほっ」


 砂埃でも喉に張り付いたのか、彼女は咳き込んだ。上手く空気が吸い込めなかったことで余計に胸が痛くなってしまい、とうとう足を止めた彼女はその場に座り込んでしまう。


「はあ、い、急が、なきゃ。みんなが、リョウイチが、待って、あっ」


 咳と共に出た涙を手の甲で拭った彼女は、立ち上がろうと足に力を入れる。力は入らず、逆に態勢を崩して倒れ込んでしまった。


「……わたし、情けない。わたし、カッコ悪い」


 舗装されたアスファルトに頬をつけたまま、ヨルカは拳を握り込んだ。


「サクラコさんは、変わったのに。リョウイチだって、変われたのに。わたしはずっと、このまま、なんて」


 奥歯を噛んだ彼女は、誰にも聞こえない声で零した。

 自分が抱えている、一番大きなものを。


「みんなの前で喋れない。走れない。隣に立つことも、できない……だから、リョウイチはずっと、わたしのこと」


 声と共に、再び涙が流れてきた。

 しかしそれは、砂埃の所為なんかではない。


 自分の内側からにじみ出てくる、やり切れない思いによるもの。


「必ず行くって、約束したのに」


 流れ落ちる雫が、道路を濡らしていく。

 悔しくて悔しくて、身体が震えていた。


「ごめん、リョウイチ。わたし、もう」


 何もかもを諦めようとした時、ヨルカの耳に甲高いブレーキ音が飛び込んできた。何事かと目線だけ上げてみれば、彼女の眼の前に車のタイヤが迫ってくる。

 ぶつかるんじゃないかと彼女が目を見開いた瞬間、タイヤはほんの少し手前で停止した。鼻につくのは、ゴムの焦げたような臭い。


「水無瀬先輩ッ!」


 次に飛び込んできたのは、聞きなれた声だった。気が付くと彼女は浅黒い肌を持った大男に抱きかかえられており、車の後部座席に連れ込まれる。


「ボ、ブ」

「しっかりしてください。母さん、酸素スプレーは?」

「ほらよ」


 後輩のボブは、彼女の口元にスプレーの先についたプラスチックのマスクを当てた。すぐにバルブが押し込まれ、中に蓄えられていた酸素が彼女の鼻と口に噴射される。

 気体が発射される高音と共に、彼女の胸の痛みも和らいでいった。


「落ち着きましたか?」

「あっ、あり、がっ!?」


 お礼を言おうとした彼女だったが、運転席にいた知らない女性を見て一気に固まった。出そうとしていた声が止まり、頭の中でひよこが鳴き始める。


「あっ、あっ」


 幼い頃の経験がトラウマとなり、見知らぬ人の前で上手く話せなくなった彼女。彼女にとって初対面の人というのは、声が出なくなるくらい怖いものだ。


「大丈夫ですよ、水無瀬先輩。分かってますから。母さん、このまま高校までお願い」

(お母さん、なんだ)


 事情を全て知っている訳ではないが、彼女のことを察してニッ、っと笑ったボブ。

 彼の言葉の後に車が走り出し、ヨルカの目に映る窓の外の景色が流れ始める。横を流れる川の水面に太陽の陽が反射し、ピカッと目に飛び込んできた。


 気を回してくれた後輩のお陰でホッと一息ついた、その時。

 彼女に一つの予感が走った。


(今、お礼を言えなかったら。もうずっと、わたしはこのままな気がする)


 虫の知らせというべきか、第六感というべきか。

 何処からともなくやってきた予感について、何故か彼女は確信を持っていた。


 ここが自分の、分水嶺なんだと。


「あっ、あああ」

「水無瀬先輩、無理しないでください。身体もしんどいでしょうし、ボクの母さんが居ては」


 口を開こうとしたが、上手く言葉にはならなかった。後輩は自分のことを理解した上で、優しい言葉をかけてくれる。最悪はチャットでお礼を打てば済むことだと、容易に想像ができた。

 だからこそ、ヨルカはここで踏ん張らなければならないと思った。自分を助けてくれた彼に、ちゃんと言葉にしなければ。


 変わることができた、あの美人でスタイルの良い後輩には追い付けない。

 彼の隣に、立つことはできない。


 自分はずっと、変われないままだと。

 そんなのは、絶対に。


「(嫌だっ!)あっ、あっ!」


 詰まる自分の声に嫌気が差しつつも、ヨルカは目を思いっきりつむると大きく口を開いた。心の中で叫んだ言葉を燃料にして。


「あ、あああり、が。ととうっ!」


 変わりたいという思いが、彼女の背中を突き動かした。

 いけないと思っていた一歩を、踏み出すことができた。


 ちゃんと口で、お礼を言えた。


「…………」


 ボブは目を丸くして押し黙っていたが。表情を崩し、優し気に語り掛けてくれた。


「どういたしまして」

「気にしないでいいよ。困ったときは、お互い様さね」


 運転席からも声がした。彼のお母さんにも、しっかり届いていた。


「あ、あははっ」


 ヨルカは笑った。ちゃんと言えたことに対して、返事をくれたことに対して。心の底からの安堵と共に、自然に笑みがこぼれていた。


「…………」

「水無瀬先輩?」


 彼女はそれ以上、口を開くことができなかった。

 黙った彼女を不審に思ったボブが何か言おうとした時。


「ぴよぴよぴよぴよ、ぴよよよ? ぴよーっ!」

「水無瀬先輩ッ!?」


 脳内の処理限界を突破したヨルカは、反動で一気に退化した。

 そうしなければ意識が保てないという、彼女にとって防衛本能との言うべき反応なのだが。事情を知らない人が傍から見たら、気が違ったと言われても、おかしくないだろう。


「……大丈夫なのかい、その先輩さん? 病院に戻ろうか?」

「い、いや。水無瀬先輩はこういう人だから、これで平常運転だからッ!」

「それはそれで問題がある気がするけどねえ」


 ボブが必死になって自身の母親に弁解する中、車のフロントガラスの向こうには彼らが通う白泉高校が映った。

 校舎に近づくのと同時に、車のカーナビゲーションの片隅にあるデジタル時計が、昼一番の公演時間に限りなく近づいていた。

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