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前回の識人出現から一週間しか経っていないというのに、新宿スラム街の住民は既に無気力と無秩序の混在した日常へ回帰していた。あの識人はゆっくり移動する浮遊型であった上に市民への自暴自棄な攻撃も行わず、さらに迎撃が完全に緩衝地帯内で遂行されたため、被害は極めて限られたものだったのだ。
尤も甚大な被害が出た場合でも、瓦礫の山と化したスペースには、劣等合成樹脂の違法バラック群が三日弱で生えてくるのだが。
そこを行く史哉の姿は、スラム街の中では明らかに浮いている。服は破れも煤けもしておらず、顔に垢がこびり付いているわけでもないからだ。汗ではなく洗剤の匂いを漂わせているというだけで、すれ違う住民の視線は僅かに彼の方へ向けられる。
とはいえ、流石に白昼堂々追い剥ぎに身ぐるみを剥がれたり、ひったくりにバッグを奪われたりするわけでもない。新宿の治安は中心部へ向かうにつれて悪化する。中野から徒歩で移動して来た史哉が今歩くのは、新宿の中では最も治安の良い外縁部の界隈である。何せ闇市からも自衛隊の配給所からも遠い。それは生活の不便さにも直結するのだが、悪党達の表に出せない取引に遭遇する可能性もそれだけ低い。
新宿で平穏に生活するならこの辺りが最適解だろう。防患大に通う文化系青年が散歩するなら次善解だ。無論、最適解は今すぐトーチカか練馬小防患地区の家に帰ることだが。
煤けた長い布に身を包む老婆、季節感の無い厚着の男性、年齢に不釣り合いな静かさの子供たち。入り組んだ細道をそぞろ歩き、路上に寝そべり、たまにボロ切れを衣服と称して売っている。彼らは皆、惰性で生きているかのように無気力だ。細道を形作るのは新宿崩壊以後に建てられた素人建築と、一応は建物としての整合性の取れた崩壊以前の鉄筋コンクリートだが、共に薄汚れ、ひび割れている。
史哉の実家がある練馬やトーチカとこの場所が共に同じ国の首都圏にある実感は、通えば通うほどに摩耗していくだけだ。十分な頻度の定期検患と検患証明を用いた交通規制で識人災害を撲滅した防患地区に住む十六パーセントの国民と、識人の恐怖に怯えるその他大多数の国民。
格差は防患面だけではない。アフリカ、南米両大陸全土、及び東南アジアのいくつかの発展途上国が早期に崩壊して以来、輸入に依存した日本社会の広域的
そしてこれは日本に限った話ではない。むしろ島国であり、隣接国家からの逃走者の経路には滅多に入らない日本は、ユーラシア大陸の国家では比較的安定している方だった。
とはいえ、眼前の状況を見る目にそんな超俯瞰的知識は何ら寄与しない。それは優秀な防患大の学生であっても同じこと。恩恵を受けている側の国民として、史哉は青年期の一般的学生並みには罪悪感や、あるいは不平等自体へのリベラルな憤りのようなものを感じてはいた。だが、それだけだ。不平等を感じていても理性は冷や水を浴びせてくる。
だからどうした。それでどうなる。
憤りでこの現実はどうにもならない。そのエネルギーを状況の改善に活用する方法は、運良く高等教育を受けられる彼の立場であれば優に百通りを超えるだろう。自分にとって最適な行動を見極め、実践していく。その一つとして彼が選んだのが、天性の工学系への適性を防患隊の研究資源として供出することだった。
だが、仮に理性がそう折り合いをつけたとしても、感情はそれと独立して燻り続けるものであり、多くの人間は史哉ほど強靭な理性を持たない。現実性も明確な対象も持たない怒りと嘆きの奔流は、大抵の場合表出してからその対象を創り出す。それは時により無策な政府であり、微力な防患隊であり、安全な防患地区の資産家連中である。
しかし、それらが問題の根本から目を背けた粗悪な現実逃避に過ぎないことは明白だ。根本とは何か。識人である。識人がいなければ防患地区も防患隊も存在せず、新宿の風景は現在と異なっており、毎月、世界のどこかで数十万人が死ぬということもなかったのかもしれない。
現在の世界人口五十二億人に対し、これまで二十年間で確認された識人は三百五十体程度。第四病期到達者以外も含めた識人病患者の数は多く見積もって三千人弱と言われている。単純計算で一七○万人に一人。人類の大多数にとって識人病患者とは赤の他人に過ぎない。だから第四病期到達患者は、多数決的な合意によって人間である以前に識人であり、台風や地震と同じく天災の類でしかない。
だから、社会に渦巻く憎悪の大半が識人へ向けられるのも、彼らの殲滅が吉事として報じられるのも、彼らの遺骸が破龍兵装に転用されることも、全て当然の帰結だ。
たとえ、彼らが肥大化した異形の内側に人間としての自意識を残しているとしても。否、多少は人間的だからこそ、純粋な自然災害よりなお憎悪を掻き立てるのだろう。
人間は赤の他人に同情はしない。それが同情しても気分の悪くなる対象ならば尚更だ。識人の権利を主張する人権派がラディカルな進化主義と結びついてテロ組織と化し、抹殺論がデフォルトになりつつあるのは、戦争の恒常化の帰結としてあまりに自然だ。
だから、と史哉は思う。一七○万人のうちの一人を知らなかった幸運な人間は識人を恨めばいい。それが自然なことだから。
けれど少数派は、自分達は、一体誰を、否、何を恨めばいいのだろう。
識人を素朴に悪だと断ずるには、史哉の目に映る彼らは人間的に過ぎた。無論、人権派の無条件な信仰とは別の感情ではあるが。
それもまた、事実の一側面に違いはないのだから。
瓦礫を撤去して出来た街並みを歩き、比較的生気のある大通りから日光さえ奪われた裏通りへと。細道を何度も何度も、より人気の無い方向へ歩いて行くと、ふと行き止まりに辿り着く。積み上がった瓦礫は一年前から放置されたまま。堅気の人間も住まず、闇商売の本場からも離れているから誰も気にしない。
何度目の来訪かもう数えてはいないが、前回来た時が夏真っ盛りの夜半だったのは覚えている。陽の刺さないここは、そのときもジメジメとして薄ら寒かった。
史哉は、その瓦礫の山の麓を反対側へと回り、そこから半分ほど、ショルダーバックを引き摺るようにして登る。山の中腹にぽっかりと、危ういバランスで存在する穴がある。幅は大柄でない史哉がどうにか身を滑り込ませられる程度だが、その自然な外観は余程注意しなければ見落としてしまうだろう。彼はそこへバッグを投げ込み、服が砂埃に塗れるのも構わず身を捻じ込んだ。
なけなしの光さえも瓦礫に塞がれた内部は、当然一寸先も見えない闇に閉ざされている。だが、史哉の靴が立てる音から足下はリノリウム質の床であり、その反響の具合からそれなりに広さのある空間であることが分かる。そして何より、何度もここを訪れた経験から、史哉の目は暗中に十メートル程の廊下を見ていた。
「俺だ。……いるか?」
小声で呼び掛けるも、木霊以外に返るものは無い。暗闇の中、自分の身体に緊張が走るのを感じる。まさか、もう見つかったなんてこと……。
そのまま最初に立った地点で佇む。背後を見ればうず高く積もった瓦礫の隙間から、僅かな陽光と新鮮な空気が流入しているのが分かる。そこへ身体が引き寄せられる気がして、引力を振り切ってゆっくり前進し始めた。
一歩、二歩、三歩……。四歩目を超えた辺りで、自分が廊下のどの辺りにいるのか見当が付かなくなった。問題は無い。目指すのは突き当たりのドアなのだから。暗闇に手を伸ばし、それがドアの冷たい表面に触れるのを切望している。今、どの辺りだ。もうそろそろ、か。足下に気をつけて。どうして返事が無いんだ……。
不意に、その手がガシッと誰かに、いや、人間離れした感触の何かに横合から掴まれて、
「うぁっ」
突然の邂逅にあがる間抜けな声。竦む心臓、止まる息。反射的に振り解こうとした腕が、存外空疎な手応えに身体を引っ張って、気が付けば彼は派手に尻餅をついていた。
「あははは」
尻をさすっていると、廊下に幼く甲高い笑い声が反響した。
「バァッ!」
次の瞬間、座り込んだままの史哉の眼前、懐中電灯に下側から照らされて少女の顔が浮かび上がった。ほつれたショートカットに、慢性的な日光不足で青白い肌。心底楽しそうに細められた目元と緩んだ口元は、十四——史哉の五つ下——という実際の年齢以上に幼い印象を与える。
史哉は、安堵とともに心底うんざりしたような溜息をついた。
「……勘弁してくれ、ヨーカ」
彼のそんな様子に、少女・ヨーカはまた楽しそうな笑い声を上げる。差し出される彼女の小さな手を取り、史哉はようやく腰を上げた。まだ痛む尻と腰に手を当て、ずり落ちたバッグを肩に掛け直す。懐中電灯の光中にあるヨーカの姿を見下ろすと、二人の間には頭二つ分の身長差がある。彼女はサイズの合わない男物の長袖シャツとジーンズを身に付けていた。
「一体、何の目的でこんなことしたんだ? 今度こそ防患隊に連行されたと思って、引き返そうと考え始めていたところだったが」
努めて平静を取り戻した口調を強調する史哉。しかし、そんな取り繕いを正面から嘲笑うように、
「いやいや、ちょっと驚かそうと思っただけだよー。でも、まさか史哉があんな……。ふふ、驚きすぎ……ふふふっ」
「…………」
閉口せざるを得ない。今まで基本、無欠で取り入る隙の無い秀才で通して来た史哉は、こういう自分がからかわれる状況に慣れていない。咄嗟に思い付いた対処法は一つ。スルーして話を繋ぐことだけだった。それが何とも子供じみていて軽い自己嫌悪に陥る。
「……この何も見えない場所でよく正確に腕を掴めたな。暇を持て余しすぎて練習でもしていたのか? そうなら君の精神状態が心配だが」
無論、そんなわけはない。ただの軽口だ。だが、聞くならばヨーカ自身の口からでなければならないと思った。ヨーカは一瞬、ほんの僅かに息を詰め、
「……何だかね、よく視えるの、暗闇の中でも。ほんの一週間くらい前からかな。最初は、その、長い間こんな場所で生活しているから……十ヶ月だっけ?」
「十一ヶ月だろう、君の話と記憶が正しかったとして」
「十一ヶ月も住んでいるから、いきなり目が慣れたのかな、って思ったんだけど。でも、そういうことじゃないみたい。何ていうか、本当に上手く言えないんだけれど、単純に視えるって感じでもなくて……」
言葉に詰まったヨーカは史哉に背を向ける。懐中電灯の照らす先、すぐそこに塗装の剥がれたスイングドアがある。彼女はそちらへ進みながら、
「だからね、今日は史哉にそのことも調べてもらおうと思っている。……驚かしたのは、単に今、史哉が入って来たときに思い付いただけだよ?」
へへへ、と、わざとらしく笑い声をあげる彼女の姿を見て、史哉の胸の内に鈍色の感情が去来する。ヨーカの態度の意味は明白だった。恐れているのだ、自分の身体の変容が加速しつつある事実を。識人病の症状が進行しつつある現実を。
そんな彼女に掛けてやる言葉を、史哉は何一つ持ち合わせていなかった。自分には、彼女に同情する資格も無いのだから。
ヨーカがスイングドアを勢いよく突き飛ばして開け、すぐ後ろに史哉が続く。秋としては不自然なほどの冷気が肌を撫でた。
「……これじゃ何も見えないよね? どうしよう。私はもう灯りが無くても不便しないから、ロウソクは全部食べ物に変えちゃったんだよねー。一々くすねてくるのも面倒だったし……」
しばらく逡巡した後、ヨーカはおもむろに史哉の手を取った。異常に乾燥した掌から伝わる、冷気以上の冷たさ。
「今度は叫ばなかったね」
そのまま彼女に手を引かれて歩く。ヨーカの懐中電灯が照らす先、その光の拡散の幅が空間の広大さを示す。光はところどころに立つコンクリートの柱を照らし、そこに書かれた白い矢印と数字を照らし、足下のコンクリートに描かれたオレンジ色の区分け線を照らす。
ここは遺棄された地下駐車場だった。
やがて二人はその奥まった一角へ辿り着く。ラインで区切られた、大型車一台分の駐車スペース。そこにいくつかの埃っぽい救護マットが広げられ、その上と周辺に雑多な品々が並べられている。非常食とゴミ袋、壊れた充電式ランタン、凹んだ魔法瓶、サイズも季節感もバラバラな衣服、用途の判然としないボロ切れやプラスチック片、分解されてしまったボロボロの雑誌や教科書。どれもこれもヨーカが新宿のあちこちからくすねて来たものだ。唯一、マットだけはここに放置されていたものを使っているらしい。
盗品と遺棄品だけで構成されたこれが、彼女の生活空間だった。
「散らかっていてごめんねー。こういう生活していると、物に対する執着が酷くなるものなんだね。捨てられなくってさ」
何度目か分からないセリフを吐きながら、物を足蹴にマットから追放していく。
「ああ、元から片付いているなんて思ってないし、特に期待するところでもない」
史哉はそうして作られたスペースに腰を下ろしてバッグに手を突っ込み、中身をマット上に並べていく。
「取り敢えずいつも通り色々持って来たが」
「わぁ……」
薄明かりの中でも分かるほど、ヨーカが喜色満面の笑みを浮かべる。彼女の瞳はクリスマスのプレゼントを前にした少女のように輝いて、その年相応のあどけなさと、プレゼントが大量の缶詰や電池、飲料水だというギャップが、傍目にも痛々しかった。
「今回は野菜缶多めだ。前来たとき、炊き出しは汁物ばかりで冷えた野菜が食えないってボヤいていただろう。ここなら放っておいても缶詰は冷える。あとはサンマ、ニシン、焼き鳥、カレー、コンビーフ……。一日三回食っても二週間は保つだろう」
生産拠点は地上にあるにもかかわらず、大抵の食料は地上よりも地下の方が容易に手に入る。それは、かつての先進国と途上国の関係の縮図であった。特に現在の新宿ではなおさらだった。
無論、この程度の分量でそれだけ保たせようとすれば、小柄な少女であっても一日当たりの必要カロリーを大きく割り込むことになる。そして炊き出しは毎日全住民に行き渡っているわけでもない。故に、そこには窃盗が前提とされているわけだが、二人とも、そのことに敢えて触れたりはしない。
「ちなみに前に持って来て不評だったギャンブル缶セットは省いた」
「あーアレかぁ……。うん、安心した」
「なかなか面白いと思ったんだがな」
「全然面白くないよ……。最初に食べたのが渋柿缶で史哉が大笑いしたの、私まだ根に持っているんだからね?」
言いつつ、食糧は食糧置き場へ、電池はまとめて使える物置き場へ運んでいく。ヨーカがあらかた運び終わった後、史哉は最後にバッグから取り出したものを、その後ろ姿に放って寄越した。衣擦れの音をあげて飛んで来たそれを、彼女は振り返りもせず後手にキャッチする。しげしげと眺め、
「これは……」
「ダウンコートだ。まだ時季が早いがアウトレット品が叩き売られていた。これからどんどん寒くなるし、去年着ていたやつはもう破れ掛けていただろう? 凍死されても困る」
「……ありがとう!」
弾けるような言葉と同時に、ヨーカがその気持ちをぶつけて来た、物理的に。具体的には、コートを持ったままの彼女が、座っていた史哉に飛び付くように抱き付いて来た。予期せぬ行動を筋力の無い史哉は当然受け止めきれず、二人してマットに転がることになった。
「本当に、本当にありがとう。また、そろそろどっかから持って来なきゃ、って思っていたところだったんだ。史哉はいつも一言多いけれど、その分何も言わなくても、一言分気付いてくれるから……」
「当然だ。僕は防患大首席だからな」
「もう、謙虚じゃないなぁ」
もたれかかって来たままクスクス笑うヨーカの身体は、信じられないほど細く、軽かった。不意のことでなければ、史哉にでも受け止められたと確信してしまうほどに。
そんな軽い彼女が心の底から感謝と喜びを伝えて来ることが、あまりにも重くて。
自分がそれに押し潰されないよう、先に罪悪感を押し潰してしまう不快な感覚があった。
史哉の行為を動機付けているのは、打算と馬鹿げた計画だけなのに。自分は彼女と彼女の病を利用しているだけなのに。彼女もそれは了解している筈なのに。どうして、そんな風に喜んでくれるんだ。
「……そろそろどいてくれ。重くて敵わない」
バシッと、一度史哉の胸に平手打ちを入れ、ヨーカは立ち上がった。
「デリカシー無さすぎ」
「性分でね」
続いて史哉も立ち上がり、首を鳴らしてヨーカと向き合った。
「じゃあ、始めようか。さっき言っていたよく視えるって話は、後回しでいいだろう。もう大体の見当はついている。先に、手を見せてほしい」
ヨーカが顔を強張らせるのが暗闇でも分かる。何秒かの躊躇いの後、彼女はゆっくりと長過ぎるシャツの袖をめくり、その両手を懐中電灯の光の中へ差し出した。
史哉を驚かせた手。暗闇の中で史哉を先導した手。あのとき、人間離れした感触を与えたそれは、肘の辺りまで乾燥した鱗状の組織に覆われていた。形状も親指と人差し指、中指と薬指が第二関節で融合して伸び、先端には一本ずつ鉤爪が生えている。小指は消失していた。
「随分一気に進行したな。記憶にある限り、一ヶ月前はまだ手の作りが多少歪なくらいだったと思うが……。動かせるか?」
史哉が問うと、二本の指状器官は、緩慢に閉じたり開いたりした。
「うん、なんとか。でも、毎日動かしにくくなっている。今はものを掴んだりはできるんだけれど、三日後も同じことができるかは分からない」
「触れているの、分かるのか?」
無言で首を横に振る。史哉はしばらく、彼女の手を取り、表皮を擦ったり緩く握ったりを繰り返していた。
「間違いない。ようやく症状が次のステージに、第二病期に進行したんだ」
覚悟はしていたのだろう。ヨーカは宣告にも動じなかった。一度深く息を吸い、
「ええと、前に話してくれたよね。識人病のステージ」
「この前までの君の状態が第一病期。最初期の病状で、体組織の目視可能な変形が主だった症状だな。第二病期は変形した組織が器官としての働きを持ち始める段階だが……」
コツコツと、ヨーカの異形の腕を指で叩く。
「触覚を喪失し始めたってことは、君の皮膚が人間のものとは別のものに、体温調節や知覚を目的としないものに変化しつつあるということだ」
特に触覚をある程度喪失する皮膚の変形は
「ここまで来れば発現した後の形態も何となく想像がつく。臨床の経験なんて無いし知識も付け焼き刃だから正確なことは言えないが。……他にも変化したところがある筈だ」
「う、うん。あるには、あるけれど……」
ヨーカは僅かに目を逸らしつつ、ボソボソと呟く。それは先程までの朗らか、あるいは決然とした態度とは全く異なって、どことなく恥じらうようなものだった。
「羽だろう?」
「見せなきゃだめ?」
「変化があるなら見せてほしい。君がどういう姿になるのか知らなければならない」
史哉の一切ブレない声音に、少しの間、恨めしそうな目を向けていたヨーカは、やがて観念したかの如く小さな溜息をついた。史哉に背を向け、
「……変な目で見ないでね?」
「学者のような目で見るさ」
何だかなぁと、ぼやき、ヨーカはサイズオーバーのシャツの裾に手をかけた。一瞬、その姿勢で躊躇してから、ゆっくりと服を脱いだ。
露わになるのは細く小さな少女の背中。懐中電灯に照らされ、白光の中で生気を感じさせないほどになお白い。平時より速い呼吸のリズムに合わせて動くそれが、俯く少女の緊張を伝える。
だが、暗闇の中で妙に艶かしい背中は、その上に覆い被さるものによって存在感を半減していた。肩甲骨の辺りから生えて腰まで至る、左右二枚の暗色の布状の物体。皺だらけのそれは、乱雑に折り畳まれた羽のように見えなくもない。
「ど、どうかな? 私の背中……」
「得した気にはならないな」
張り手が飛んできた。しかもかなり本気の。今のヨーカの手は硬質化して二本の鉤爪を備えており、その一打は張り手というよりは鞭打ちで、凄まじい音と共に史哉の身体はマットの上に倒れ伏した。
「ぐ、うぐあ……めちゃくちゃ痛え……」
「最低」
心底軽蔑した声だった。聞いたことがないほど底冷えした声に、史哉はそれがヨーカの言葉だとすぐには分からなかった。
「い、今のは聞き方が悪いだろ……」
悶絶しつつ身を起こすとヨーカは既に長袖を着直しており、無言かつ無表情で腕を組んで史哉を見下ろしていた。
あ、これ本気で怒っているな。
史哉は瞬時に己の過ちを理解し、迅速に可及的誠実な対応に打って出た。すなわち土下座だ。
「すまない。今のは確かに悪ふざけが過ぎた」
頭を下げ続けること十秒、十五秒、二十秒。三十秒が経過した辺りで、もういいよ、というヨーカの声が聞こえた。顔を上げると彼女はしゃがみ込んで史哉の頬をその無感覚の手で撫でており、下がった目元には心配の色が滲んでいた。
「私もやり過ぎたから。うわ、赤くなってる。……大丈夫かな、跡が残らないといいけれど」
「ああ……問題無い」
鉤爪が目を直撃していたら流石に洒落にならなかっただろうが。まぁ敢えて言うまい。おあいこだろう。
「とにかく羽を見て確信した」
最初に彼がヨーカと会った時、あの羽は今の三分の一程度の長さしかなかった。サイズの変化もさることながら、当時はピクリとも動かなかったそれが今はヨーカの呼吸に合わせ、緩やかに蠕動していた。識人学的には
「羽というよりは翅か。羽化したばかりの昆虫のものに見える」
「こ、昆虫!?」
先の宣告には動じなかったヨーカも、今度ばかりは動揺して頓狂な声を上げた。見る見る顔が青ざめていき、明瞭な嫌悪の相が浮かび上がる。
「その腕にしたってそうだろう。定義上、鱗痣と呼ばざるを得ないが、いわゆる爬虫類や魚類の鱗というよりは甲殻類の外骨格に近い。肌触りも、硬度も、な。関節部の構造も節足動物のものだ。君は飛行性昆虫型の識人だろうな」
うげぇ、と、ヨーカは堪りかねて呻いた。その声は半分泣き声が混ざっていて少し気の毒になる。
「鳥かなんかだと思っていたのに……。せめてチョウチョウがいいな。ガとかハチ、ハエだったらどうしよう」
「……昆虫だと考えれば、よく視えるという話も分かる。コートを投げたときの反応もそうだが、眼球とは別の感覚器が働き始めたんだ」
史哉は立ち上がり、ヨーカの頭に手を置いた。ほつれた髪の間に手を入れてまさぐる。その手が二本の特に太い髪束のようなものを見つけた。
「ひゃっ!」
触れるとヨーカは反射的に跳び上がり、甲高い声が暗闇に反響した。
「髪のようだが神経が通っている。触角だな。感覚が——触角と嗅覚と聴覚が鋭敏になっているんだ。空気の動きや温度変化、音の反響を感じ取って視覚情報を補足しているんだろう。眼球はまだレンズ眼だが、そのうち複眼になるかもしれん」
「何だか一気に人間離れしていくなぁ」
「第一、二病期は短い急性期と長い慢性期の繰り返しで進行するからな。一週間続いたならそろそろ病状も安定する筈だ。けれど、次はこの比じゃないぞ。一日に百キロから三百キロの割合で体重が増加する」
「それまでどれくらいかかるの?」
「はっきりとは分からん。識人病は個人差が大き過ぎるんだ。君の第一病期は一年弱続いた。統計的には第二病期の慢性期は第一病期の半分が最頻だから、半年もすれば第三病期に移行することになる。ただ、これは目安でしかない。極端な話、来月にそうなっていてもおかしくはない」
饒舌なのは、彼女の境遇と心理に向き合う勇気の無さか。それとも、自身の目的への接近を喜ぶエゴイズムか。自己嫌悪で鈍麻された思考では判然としない。
「そうなんだ……でも、この腕じゃどのみち、もう外は歩けないなー」
「それは問題無い。第二病期の主要な症状の一つは食欲の喪失、エネルギーの自給自足の実現だ」
識人のエネルギー源は、その異様に強靭な身体構造と並んで識人学の根本的な問いの一つだ。あたかも仙人の如く有形の食物を摂取せず活動する彼らは、やはり生物学的というより超常的存在と言わざるを得ない。ヨーカの身体は刻一刻と、人間からそちらへ接近しつつある。
「まだ今はそこまで至っていないらしいけれど、今日持ってきた分も全部は必要ないかもしれない。そうなればもう調達の必要も無い。外を歩く必要も」
「ううん、それはそうなんだけど……史哉から貰ったコート、着て歩きたかったなって」
隠しようの無い諦観の滲む声に返す言葉を持たない。ただ無神経に、強いて事務的な内容を告げるだけだった。
「……防患隊に見つかるようなヘマはしないでくれよ、僕らは目標に向けて着実に前進しているんだから。君だって、その姿を少しでも見られれば無事じゃ済まないことは分かるだろう?」
「うん、分かってる」
だから、と、一呼吸置いて続けてヨーカの声には常の朗らかさが戻っていた。
「史哉も早く考えてね? あの防患隊のロボットを————建御雷をどうやったら倒せるか」
朗らかに問うのは、ヨーカが識人となった直後に間違いなく彼女を殺しに来る護国の巨人に立ち向かう戦略。
「ああ。僕は優秀だからね。君が第四病期に到達する前に、アレの弱点を必ず突き止めてみせるさ」
不敵に笑って、
「だから、頼むよ。識人になるまで生き延びて——建御雷を破壊してくれ」
「うん、任せて」
答える声にも、やはり黒色の歓喜が滲んでいる。世界の守護者たる一機の破龍兵装に対する憎悪こそが、二人を結び付ける最も強力な絆だった。
一人の識人病患者と一人の防患大学生。密会はまだしばらく続く。
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