終章 |崩潰序曲《シンギュラリティ》

1

 清潔感のある白い壁。優しいベージュのリノリウム。潔癖さと、それと正反対の濃い終わりの気配の両立はあらゆる病院に共通だ。そこが防患隊の地下に所有する基地内病院であろうと。


 その廊下を八雲宗輔が行く。シンプルな紺のセーターと綿パンは、大学での講義が終わった今となっては稀にしか着用しない。正装であり作業着である白衣を着ていないのは休暇の証だった。


「おや……」


 不意に彼は足を止め、前方から近づいて来た車椅子を見る。リモコン操作式のそれは背後に付き添い人がいなくとも自律走行し、廊下に静かで規則的な走行音を響かせる。


「八雲博士。こんなでどうしたんだ。鹿島の見舞いか?」


 その声は不自然にくぐもっており、何か口の中に詰め物をして話しているかのようだった。


「ああ、まあね。建御雷関連のゴタゴタがようやく一段落して休暇が取れたんだ」


「はは、そうかい。あんだが殊勝にも見舞いだなんて、なんか似合わねえな」 


「君もそうだろ? 賀本准特佐」


 車椅子の男、賀本豊は笑いながらもゆっくりと頭を左右に振った。


「確あにそうだが、准特佐はやめえくれ。退職手続きが終ろうしてなかった昨日まえの話だ。形式的な手続きあからすぐ受理された」


 依然としてくぐもった声。それは賀本の顔面筋の左半分に障害があるためだった。顔面に限らず、彼は左半身全体に脳性の麻痺症状を抱えていた。それは三週間前の、彼と建御雷の最後の戦闘の後遺症だった。


「教官としてなら引っ張りだこだろう。たとえ車椅子になったとしても、君の十年分の経験は失われていない」


「それもその通りあが。しばらくは休ませてもらうつおりだ。流石に……少し、疲れた」


 八雲は目を伏せる。疲れた、というのは賀本の本心なのだろう。常に陽気で人当たりの良い彼には似合わない言葉だが、だからこそ、負傷で退役となってもあまり悲壮感は無いのかもしれない。賀本の表情はあらゆるものから解放されているように見えた。


「あの最後の瞬間、君が主操縦士権限をぶん取ってくれて本当に助かった。起きたことは無茶苦茶で、技術者としては頭痛の種のバーゲンセールみたいなあり様だが……あそこで識人を止められなければどうなっていたかは分からない。最悪の事態は回避出来たんだ、君は英雄だよ」


 識人にとどめを差したのは賀本だった。少なくとも副操縦士たち——巨大脳分解で全員が戦闘中に自我を取り戻していた——の記憶や、ズタズタになったログを復元する限り、彼が自分の担当する刃尾を主操縦士からの指令を受けずに動かしたのは間違いない。だが、元来翻訳装置である副操縦士に可能なことではない。結果として、彼は激烈な負荷によって身体の半分を失った。


「はははっ。よしてくれ、らしくもないな」


「いや、感謝は本心だよ。あとで君の病室にも行こうと思っていたんだ」


「なら、せえて何か見舞いの品を持ってくるんあったな。象牙の塔にこもっている奴はそぉの辺りがいかんな」


 笑いながら言って、賀本は八雲の横を車椅子ですり抜けた。八雲は無言で肩をすくめる。すると出し抜けに背後から賀本が、


「まあ、なんだ。おあがいにこれから色々あるだろうが、まだ何一つ終わったいないんだ。俺や鹿島あ居なくなっても戦争は続くし、跡を継いでくれる奴もいる。また、すう戻って来るさ」


 振り向くと彼はもう遠ざかりつつあった。広い背中は車椅子に乗っていても目立つ。


「お疲れ様です、副長! お身体の調子はいかがですか」


「あからもう副長でも准特佐えもねえって言ってんだろ。堅っ苦しいんあよ、曽木は」


 八雲はポケットに手を突っ込み、歩き出した。

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