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「gyyyyyyuuuuuurru」
二度目の雄叫びを上げ、建御雷は歩き出した。刃尾の一部を失ったため重心が安定していないが、一歩ずつ確実に前へ進んでいる。それは生まれたての偶蹄類を思わせる歩みだった。
——どうなっているの、これ。
それを背後から追跡しつつ、ヨーカは際限なく膨れ上がる疑問に首を傾げていた。
活動を再開した建御雷は直前まで戦闘を繰り広げていたヨーカには見向きもせず、まっすぐ南進し始めたのだ。行手には広大な新渋緩衝地帯の荒野と、未だ人工の密集する渋谷の街がある。
——いきなり動きが止まったときは、何かの罠かなって思ったけれど。
どうも様子がおかしい。彼女が戸惑っている間にも建御雷は先へ進み、とうとう緩衝地帯を縦断し、渋谷の街並みに脚を踏み入れた。
建御雷はなおも前進する。九十メートルの巨人は東京地上部に遺された数少ないビル街を蹂躙した。道路と建物の区別なく直進し、行く手を阻む建造物は片端から刃尾で切断、粉砕していく。
莫大質量のビルが倒壊し、その下に群集する無数の小家屋も叩き潰される。建御雷は欠損した刃尾を振るうごとにバランスを崩し、比較的小さな鉄筋ビルがそのたびに幾つか消滅する。
——どう見ても普通じゃないね。
当然、ヨーカには今、建御雷の内部で起こっている現象など想像も付かない。だが、
——やることは変わらないか。
ヨーカは急降下、鎌状器官を振り上げ、斜めから袈裟懸けに斬り下ろす。人間だった頃の腕とは掛け離れ、硬質化したそれは蛇腹装甲の隙間へ入り、一切の抵抗無く骨と筋繊維を切断して逆側へ抜けた。
——あれ。
体液が飛び散り、二本の刃尾を失った建御雷は無様に転倒する。円形のけばけばしいビルが、色あせた屋上の看板ごと押し潰された。
そのあまりの容易さにヨーカは自分の目を、関節肢の感覚を疑った。反撃どころか、一切の防御も回避も、単純な反応さえも無かったからだ。
「gyyyyyyhhh……」
建御雷は先程までとは打って変わって弱々しい泣き声を上げ、うつ伏せに這うようにして移動する。もはや歩くことさえ叶わない。一二五○○トンの巨体はそれでもアスファルトを抉って大防患地区の防護天井を剥き出しにし、外灯や電子看板、小店舗の構成する入り組んだ街並みを消失させて行く。
しかし、それがヨーカにとって脅威にならないことは明らかだった。
——何なの、そんないきなり。……ずるいよ。
建御雷が目指すのは歩行時と変わらぬ方向。新宿から渋谷へ、さらに南進して東京湾へ抜ける。東京に出現した多くの識人が取る進路だ。防患隊の追跡をかわし人間の目が届かない南米やアフリカ、アメリカ北部を目指す、生き残るための唯一のルート。
その意味を探り始めた思考を無理やり引き留め、ヨーカは身を翻す。翅を意識的に力強く動かし、鎌を振り上げ、
——さようなら。
無防備に晒された後頭部へ振り下ろそうとした刹那、
——え。
建御雷が突然、身をよじり振り返った。赤い獰猛そうな単眼は依然として炯々として、しかし彼女はそこに別の影を見てしまった。
六万の個眼が収めた建御雷の顔と、それらが結ばれた一つの像。
それは紛れもなく、
——あなた、史哉の——。
驚愕と当惑が鎌に一瞬の静止をかけ、それが全てを決した。
「kkkg」
ヨーカの大顎型の口器が小さな音を立てる。それは声帯を持たない彼女の断末魔だった。
極彩色の翅に緑色の体液が飛び散る。鮮やかさという点で両者は調和し、新たな一つの紋様を描いた。
身体の前面から背部へ。翅と対照的にコンパクトな胴部が最後の刃尾に貫かれていた。体液と内臓が重力に従って零れ落ちる。断続的な痙攣を繰り返した後、異形のチョウは静かに気門から息を吐き出し、沈黙した。
それと対をなすかのように、倒れ伏した銀白の巨人もまたその単眼から色を失い、動かなくなった。
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