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「本当に君が出るのか」


 防患隊基地本部は常にも増して混沌としていた。飛び交う怒号、走り回る支援士、フル稼働する通信回線。それ自体はいつもの出撃時と変わらないながらも、誰も彼もがどことなく殺気立っているのは、昨日まで基地全体が建御雷の修復に奔走しており、更には新宿総合防患にまで人員を駆り出していたためだ。


「そうだ。事態は予断を許さない。ようやく復興の目処が立ったというのに、ここで全てを台無しにするわけにはいかない」


 基地内部、第一格納庫へ通じる通路で、白衣とパイロットスーツが向かい合っていた。白衣の八雲は、一見基地の熱に浮かされたような、しかし彼には珍しいほど真摯な声音で言う。


「無茶だ。毒が除去されたのはたった二日前。それも一応の仮判断に過ぎない。生体研を信用していないわけじゃないが、いくら彼らでも識人の毒の構成成分特定と分解成分精製を三日で誤りなく行える確証は無い」


 応える康徳の声音は、基地内では異質なほどいつも通りだった。


「毒に関しては生体研を信じるしかない。だが、体部装甲や駆動部に受けた損傷は皆無だ。刃尾装甲も既に換装済み。毒に関する懸念を除けば万全と言っていい。だからリスクとリターンを考慮し、俺が出るべきだと上が結論を出したんだ。俺としても異存はない」


「っ…….」


 八雲は歯噛みする。防患隊の上層部としては、この新宿総合防患は威信と国家内での立ち位置を賭けた一手だ。何としてでも台無しにするわけにはいかないのだろう。それはいい。だが、


「何より、君のコンディションが万全とは程遠いじゃないか。あれを忘れたとは言わせないぞ」


 前回の帰投直後、康徳が見せた明らかな精神混乱。八雲はあのときに康徳が呟いた言葉を、その意味を覚えていた。


 康徳の無表情に一瞬、歪みのようなものが混ざる。しかし彼は取り繕いにも至らない微動で鉄仮面を被りなおし、


「疲労と緊張から来た軽い目眩のようなものだ。五日間で充分に休息は取ったし、もう異常はない。衛生科に確認してくれてもいい」


「死龍憑きはただの幻覚じゃあない。明らかになっていないことが多過ぎるんだ。……何度も言っているだろう。君は最古の主操縦士。君が立つのは常に前人未踏の場所なんだ。何故理解出来ない!」


 どいつもこいつもそうだ、と八雲は思う。合理的説明? 科学的理解? そんなものが通用しないのが識人だ。説明し得ないものをなどと名付けるのは、臭いものに蓋をする以上の行為ではない。


「決定は覆らない。迅速に行動するのが最善の選択だ」


 もはや話すことはない。康徳の態度はあらゆる異論を拒絶していた。命令を受けた実直な軍人のそれ。


「…………」


「…………」


 しばらくの沈黙の後、八雲は観念したように、


「……そうかい」


 言って道を開けた。その傍を、康徳が無言で通り過ぎる。遠ざかっていく黒いパイロットスーツの背中を見送りながら、八雲は途方にくれて佇んでいた。


「随分熱心に引き止めるじゃないか、博士。何か気にかかるデータがあるのかい」


「賀本准特佐……」


 振り返った八雲の前に、康徳と同じ色の、しかし二回り以上大きなパイロットスーツ姿があった。建御雷の副操縦士長は、出撃前とは思えない陽気さで笑みを浮かべていた。


「いや、データというか、直感なんだけれどね。……どうも、その、今度ばかりは本当に危ない気がする」


「例の幽霊の話かい」


 賀本も八雲と同じく、康徳の精神的負担を危惧している一人だった。


「君からは何か言ってくれたかい」


「俺だって防患隊員だ、博士。らしくねえかもしれんが、な。……それに、俺が言って止まる鹿島でもねえ」


「はは、それはそうか」


 八雲は力無く笑い、肩を落とした。対する賀本は思案顔で髭の疎らな顎を撫でている。賀本の記憶にある限り、この長髪の博士はどんな現象に立ち会ったときも微笑を浮かべていた。飄々とした中に確固たる自信と奮起を隠し持った笑みだ。


 その記憶と実際の今の彼のあり様は、あまりにかけ離れていた。


「……翻訳機の俺に出来るのはいつも通りのこと。鹿島の意志を建御雷に伝え、建御雷の感覚を鹿島に伝えることだけだ。それに同調中は個別の意識さえほぼ無い。……それでもあんたの懸念は頭に入れておこう。何かの役に立つかもしれん」


「ああ、ありがとう」


「すまないな、力になれなくて」


「いや、それでいい。君が……いつも通りのことだけするのであれば、それでいいんだが」


「そりゃ、どういう……」


 賀本の言葉は突如として響き渡った基地内放送に遮られた。今、八雲達がいる場所より上層に存在する通信所。そこから通信士の緊迫した声が基地中に届く。


『た、対象が初期虚脱状態から回復! 出現地点から飛翔しました!』


「クソ、随分早いお目覚めだな!」


 悪態を吐き、賀本は格納庫の方へと走り去った。取り残された八雲は踵を返して自分の作業場へと戻る。もう技術者の出る幕ではない。


『対象の進行方向は……北西!?』


「何?」


 反射的に疑問を口にしたのは八雲だけではない。そこら中から一様に、同様と疑問のざわめきが広がる。


 東京市から北西へ。それは、もし識人が国外へ逃亡し防患隊の追跡を交わすつもりならば取るはずのない針路だった。実際、この初期虚脱からの回復の早さと飛翔能力で洋上を目指されていたら、防患軍の航空即応戦力でも間に合ったか定かではない。


 だが、取り逃がすこと自体は究極的には最悪の展開でも何でもない。


 八雲は背筋が冷たくなる感覚を覚えた。


「いったい何が狙いだ……!」

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