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東京市の上空を巨大な影が行く。
文京、千代田、杉並……。そういった遠所の地上からそれを観察し、フィクサフォンで動画に収めていた市民には、最初、二枚の巨大な何かが虚空で上下動しているようにしか見えなかった。
自衛隊員や防患隊員、警察に避難を促され、あるいは公営シェルターの不快な環境を嫌って自宅の屋上で遠方へ目を凝らし、彼らはやがて、それが一対の翅であると気付く。そう認識してしまうと、あとは早かった。
——チョウだ。
誰かがネットにこぼした声は瞬く間に拡散し、識人災害に慣れ切った筈の国民の注意を一気に集めた。日本中で誰もが手元の端末でリアルタイム情報を求め、東京の住民は危険も忘れて冬の晴れ空を見上げた。
その姿を何かの生物に当てはめるなら、確かにチョウが最も相応しい。扇型の前翅と後翅が一体化した、黄色を基調とする極彩色の翅は紛れもなくチョウのそれ。飛翔昆虫型の識人は前例が少ない。しかも、これほどまでに昆虫らしい形態を保った個体は、日本では初めてだった。
だが、その最大翼長は二五〇メートル、総面積は左右合わせて約六七〇〇平方メートル、最も分厚い場所では厚さは三メートルを超す。航空力学のあらゆる理論を嘲笑するその構造体は既存の生物の器官とは全くの別物で、それを証明するように識人は翅を目視可能なほどの緩慢さで動かし、その動作とは無関係に浮遊していた。
多くの識人と同じく、それの存在は紛れもなく超科学的な何かによって規定されている。
一方、左右の翅に挟まれた胴体部は対照的にコンパクトで、くすんだ白色の微細な体毛に覆われていることもあって貧相にさえ見える。丸い頭部にあるのは巨大な複眼とチョウよりはガを連想させるブラシ状の触角、そして上下ではなく左右に開く硬質な口器だ。
実際の昆虫と異なり頭部の先には八本の関節肢が伸びる胴部、丸い腹部があり、いずれも体毛に覆われている。だが、腹部の先端から生えた一本の鋭利な針と、最前関節肢が変形した鎌状器官がチョウらしからぬ獰猛さを備えていた。
識人は飛翔する。巨大な翅を緩慢に波打たせるようにし、しかしその移動の仕方は翅の物理的な動作とは符号しない。そのためか、識人のスケールからすれば超低空飛行と形容出来る二百メートルの高度にもかかわらず、地上では木枯し程度の風しか吹いていない。
速度は時速十キロ、進路は北西。可動範囲の狭い頭部を地表へ向け、左から右へ、右から左へゆっくりと動かしながら飛翔、時折旋回する。
図体の割にあまりにも遅い飛行速度といい、それは何かを探しているように見えた。
新宿北部から出現した識人は防患隊が多数展開するスラム街に背を向け、閑散とした豊玉、練馬地区に入る。幾度となく災害に見舞われてきた新宿とは趣きを異にするも、同様に背の低い建物ばかりが並ぶ。既に住民の多くが地下へ避難していた。
識人は練馬上空で不意に移動をやめると、浮揚状態で街区を睥睨した。各々三万の個眼から成る二つの複眼は鮮やかな青色。人間と比して遥かに広い視野と動きへの鋭敏な検知力を持つそれが、やがてある一点に探していたものを見つける。
識人は降下する。広げられた翅がゴーストタウンと化した街に長大な影を落とす。上下動する翅が付近の建物を撫でるほどの高度。識人は一帯では最も背の高いビルの屋上と向き合った。
そこに一人の青年が立っている。
「……ヨーカ」
鹿島史哉は茫として呟く。呼び掛けというよりは無意識にこぼれ落ちた言葉だった。彼女の第四病期の形態はある程度予想していた。ここに来る前にネットで確認してもいた。
それでもなお、ここまで近付いて来た巨大な複眼が、絢爛と優雅を兼ね備えた翅の紋様が、その神話的な佇まいが、彼の全精神を圧倒していた。
現実感を摩耗させる幻想的な光景。それが致命的な忘我を招く直前でなんとか理性を繋ぎ止め、史哉はもう一度彼女へ、今度は自らの意思で呼び掛けた。
「ヨーカ。君は……」
だが、言葉が続かない。一体何を言えばいい? 感性を取っ払って事態を見つめ直したとき、彼は自分の中にどうしようもない混乱があることだけを認識していた。言いたいことが無数にあるような、同時に無数のそれらが相互に打ち消しあって何一つ残っていないような。
「僕は……」
何だ? 彼女に何を望むのか。何も望まず、ただ伝えたい気持ちだけがあるのか。
触覚、病的に白い肌、三本の刃尾、沙智、崩れ落ちる建御雷、父の冷徹な眼光、白衣の痩身、識人、身を焼く憎悪、単眼の妹。あの夜の邂逅。
建御雷に家族を奪われ、それをどうしようもなく正当化された一人の少女。
「……ヨーカ、建御雷の構造上の欠陥が分かった」
脳裏を横切っては消える数多のイメージの果て。彼が最後に思い出したのは、いつかあの地下で聞いた彼女の過去だった。
「————」
白昼夢のような回想と並行して、長い間彼が追い求めて来た事実を口が語る。
あのとき、彼女は言った。悪いのは自分達の方で、死ぬのは自分達の方で、それでも人は簡単には死ねない、識人だって死にたくない。
その言葉が彼に救えなかった妹を思い出させて、けれどもどこかで歪み切っていた心は彼女を救済する方には動いてくれなかった。
——もし、僕が仇を討たせてやるって言ったら、協力してくれるか。識人病に罹った君だからこそ出来ることだ。
「————」
全てを話し終えたとき、ヨーカは相変わらず浮揚していた。もはや人間らしい声帯など残っているわけがなく、当然返事はない。そもそも今の彼女に史哉の声がどのように聞こえているのか、その意味を理解出来ているのかも定かではない。彼女に、昔と変わらぬ人間としての意識がどの程度あるのかも。
だが、それらは全て些末なことに思えた。
「ヨーカ」
もう一度、彼は彼女の名前を口にする。そこに込められた感情を整理しきれないままに。
「……さようなら」
その五文字をきっかけに、眼前、異形のチョウは空へと昇っていく。彼女が遠ざかっていくごとに街に落ちる影は広がり、薄くなる。やがて空中でUターンに近い急旋回を行い、元来た空路を引き返して行った。
残された彼は、無言で屋上を後にした。シェルターは既に閉鎖されているだろう。向かうあてはない。だが、もうここにはいられなかった。
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