4
ヨーカは新宿の上空を旋回し、半年ぶりの陽光を満喫していた。とはいえ、二つの巨大な複眼と三つの単眼、二本の触覚を持つ今の彼女には、それは人間だった頃のものとはかけ離れたシステムで知覚されている。
時間分解能と運動視に優れた複眼では、反対に不動の対象が識閾上に上って来難い。また、光感知は主に単眼で行われ、複眼の紫外線視と合わさって極めて明瞭なコントラストを視界に生み出している。更に温感は体表全体ではなく触角で、空気の振動と共に受け取られている。
無論、それら別個のプロセスがヨーカ自身に自覚されるわけではない。だが、その総体として立ち現れて来る環世界は、人間と比べて全体より無数の部分を重視して瞬間的に処理する、飛行性昆虫のものだった。その事実自体もまた、第三病期を経て現在の知覚に慣れ親しんだ彼女には理解出来ない。彼女はもう、自分が昔いた世界を思い出せなかった。それは外骨格と体節制から成る身体を動かす内に、生来慣れ親しんできた運動機序を忘却したのと同じだ。
それでもなお、人間としての理性と思考力は保存されていた。この異様な環世界で自我が磨耗していないことが識人の異常の一つだったが、彼女にはそんな事実など関係無かった。
——うーんー、気分が良いなあー。
彼女はただ、思い思いに身体を動かし、翅を伸ばしていた。その右斜め後方、三百メートルほど高い場所に防患隊の戦闘ヘリが飛んでいる。規則正しい回転音を響かせ、付かず離れずの距離で彼女を観測し続けている。しかし、人口密集地であるここでは、破龍兵装という確実な戦力が投入されるまで防患隊もうかつに手出しはできない。特に、ヨーカの目的が向こうには分からない今は。それもまた、かつて史哉に教えてもらったことだった。
だから建御雷が出て来るまでのこの僅かな時間が生まれている。それは自分に残された最後の時間なのかもしれない。
——そんなもの、与えられても困るんだけれど。
この先のことなど、何一つ考えてはいない。今まで敢えて考えないようにして来たし、史哉も彼女にその話題を振ったことはなかった。
それは死の可能性を目前にした今でも変わらなかった。
——どうしようもないもんね。
心には悲壮感も自棄も無く、ひたすら凪いでいた。
それは覚悟の現れというよりは、寧ろ現実感の無さに起因するもの。彼女は自分が今日まで生き延びたという現実がまだ信じられなかった。
——それは多分、史哉も同じだったんだね。
何故なら、自分でさえ信じられない幸運だと気付くような事態を、彼が盲信しているわけがないから。いや、彼の場合は自分なんかよりもっと早く計画の非現実性に気付いていた筈だ。
ひょっとすると最初から、彼は本気ではなかったのかもしれない。建御雷の破壊も口実でしかなくて、ヨーカと会い、話すことが……。
——ううん。違う。私を通して、きっと建御雷の元になった妹さんに会うことが。
それを責めることは出来ない。責める気もない。
自分だって、あの防患大生の向こうに六年前に死別した兄を見ていなかったと言えば嘘になるからだ。
史哉の何度目かの来訪の日。防患大の生徒なのに識人病患者を通報しない変わった青年に、ヨーカは過去を話してみる気になった。それは間違いなく、彼女が孤独だったから。崩壊した新宿で隠れ住んでいた識人病の少女が、彼の優しさに懐かしいものを感じたから。
彼の突拍子もない提案に頷いてしまったのも、少しでも長く兄の幻影を見続けていたかったから。
だから、そう。
自分達はきっと、最初から互いの本心を隠しすぎて、歪んで、取り返しが付かなかったのだ。本当ならもうとっくに防患隊に隠れ家を見つけられて、自分は史哉とは無関係に処分されている筈だったのだ。
しかしどういう偶然か。ヨーカは今日まで生き延び、史哉は建御雷の欠陥を見つけ、彼女の識人としての姿はその欠陥を突くに適したものだった。
ようやく理解した。どうして自分と彼がこんな奇妙なことになってしまったのかを。
それで、今からなら引き返せる? いや、無理だ。何故なら、
——来た。
旋回する彼女の眼下。瓦礫と撤去されつつあるバラック、自衛隊の建てた簡易住居の混在する街並みの東側。東京の中心地に忽然と広がる平らな土地は、防患隊基地の地上階層だ。
その一角が左右に割れ、地中からそれが迫り出して来る。
症状が悪化してからは史哉の持ってくる写真や本でしか見なくなったが、一度たりとも忘れたことのない銀白の機体。それは直接的な仇敵というより、彼女にとっての世界の不条理の象徴だった。
幾度かの改修と換装を経てもなお、母を殺し、兄と父を巻き込んだあのときの記憶とほぼ変わらない姿で。
六式建御雷がそこにいる。
その上半身までが地上に出切った刹那、
「kyyyyyh!」
ヨーカは叫び声を上げて飛びかかっていた。否、実際には口器が擦れる金属質な音が響いていたのだが。
極彩色の翅を背後へ一振り。それだけで浮遊から一転、ハヤブサの如き急降下で建御雷へ迫る。その激烈な急発進が暴風を発生させ、影の通過した街の一角は瞬時に塵芥と化した。
前肢の変形した鋭利な鎌状器官が胸部装甲に肉薄し、
「!」
ヨーカは勢いを殺さぬまま咄嗟に左手へ抜ける。間髪入れず、彼女が存在した空間を二本の刃尾が左右から交差状に貫いた。
——うっわ、速い!
一気に安全圏へと退避したヨーカは緊張と一抹の恐怖に身震いする。汗腺が残っていれば冷や汗を流しているところだ。刃尾は不規則かつ縦横無尽。しかも一本一本が肉眼では捉えられない超速度で動く。
だが、それは人間や、人間と同様の視覚しか持たない識人の場合だ。
——速い……けど、見える!
三万の個眼が一つとなった複眼。それはスローモーションカメラに匹敵する時間分解能と動体視力により、刃尾の繊細な動きを完全に補足し切っていた。そして上下左右共に三六○度近い視野が全方位からの挟撃、連撃を事前に察知する。
今の彼女にとり、建御雷最大の兵器は対処不能な脅威ではなかった。
建御雷は地に足を付けて屹立し、突如襲撃を仕掛けてきた未知の識人を見上げている。赤い単眼から感情は読み取れない。だが、それは向こうにとっても同じだろう。
再び、ヨーカはダイブする。先程とは僅かに軌道とタイミングをずらし、しかしより際どい仕方で刃尾を回避、離脱した。
上空で旋回するのも一瞬、今度は斜め上から直接頭部へ接近。刃尾が伸びきる前に中空でブレーキを掛け、急バックする。そしてまたも異なる角度と軌道、タイミングでの襲撃。
「kkyyyy!」
異形のチョウが舞い、巨人の大蛇が迎え撃つ。
ヨーカは幾度となく建御雷へ突撃するように見え、しかし決して深追いはせず、致命的な反撃をことごとく初動で見切って避けていた。建御雷が前に出ようものなら刃尾の射程圏外まで一気に退避し、仕切り直す。
音速を超える応酬の中、ヨーカの脳裏を史哉の声が駆け抜ける。
——識人病患者は自分に出来ることを大抵、前経験的に把握している。けれどそれは独立した自身の動作としてでしか無いんだ。
この身体になったとき、ヨーカは既に空を飛ぶすべを知っていた。複眼で得た視覚情報が対応する現実を前もって把捉していた。
——自分の能力の他者との相互作用、言い換えれば限界はそんな風に前もって知ることは出来ない。限界の把握には外部環境が不可欠だからね。
同時にヨーカは自分の飛行技術が建御雷の刃尾にどれほど通じるのか、どれくらい前もってその初動を視覚的に把握出来るのかは知らなかった。
——だから最初は深追いせず、様子見と限界の把握に徹することだ。君がどういう識人になるかにかかわらず。
彼女は史哉の言に忠実に従っていた。今まで彼に寄せて来た信頼のままに。
五回、十回、二十回。刃尾と交差し、身を翻すごとに彼女はより速く、より際どく、より精緻な軌道を描いていく。それは限界への漸近。
新たな身体に生まれ変わって約半時間。彼女はその生得的な機動力を、空間把握能力を、動体視力を、既に戦闘に最適化されたものへと昇華しつつあった。
——ああ、綺麗だな、空気が。要らないものが、全部消えていくみたい。
その中で、彼女の思考もまた純化されていく。悲嘆が、憤怒が、諦観が、鬱屈した雑念が、自己嫌悪と罪悪感が、全て冬空に流れ出して消えていく。
後に残るのは、史哉が最後に伝えてくれた一連の事実のみ。
それを忠実に実践するべく、彼女は宙を舞い、タイミングを見定め始めた。
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