5

 ——クソ、速すぎる!


 アクロバットを演じるチョウ型の識人。その三十度目の空中からの強襲を第二刃尾で側面から向かい撃ちつつ、康徳は内心毒付いていた。翅音と影の濃淡から直感的に繰り出した視界外への反撃は、またも直撃せず、僅かに胴部を掠っただけだった。


 間髪入れず次が来る。


 自分以上の機動力を持つ敵への極端な脆弱性。五日前の戦闘で明らかになった欠陥を、この識人は的確に突いて来る。建御雷は防戦一方になるまで追い詰められていた。


「kyhyyyy!」


 三十五度目の交差。今度は第三刃尾が翅の裏側を音が鳴るほど確かに擦る。銀白の蛇腹装甲に極彩色の微細な鱗粉状の何かが付着し、康徳は呻き声を上げそうになる。毒性のあるものではないようだが。


 ——明らかに刃尾が奴の軌道に接近しつつある。


 しかし、それは康徳が相手の動きを捕捉し始めたからではない。むしろ逆だ。相手がこちらの動きを見切り始めている。


 ————。


 今の身体においては存在しない筈の冷や汗の感覚。明らかに、相手は普通ではない。識人化したばかりの、力に溺れる一般市民特有の傲慢さや油断が無い。何か一つの確固たる芯に沿って動いている。康徳にはそう思えた。だが、今は相手の背景に想いを巡らせている場合ではない。


 そして窮地自体よりも、彼の精神を追い込んでいるものがあった。


 ——気にするな。幻覚だ。疲労と思い込みが作り上げた錯覚に過ぎない。


 自分に言い聞かせる声は、空気を振動させず伽藍堂の心で木霊する。


 かつては気配だけだった筈の彼女が、沙智が十年前と変わらぬ姿でそこにいた。五日前の帰投直後、格納庫の通路に佇んでいたときと一切変わらない哀しげな微笑だ。


 だが、今は同調中。識人が冬空を舞い、復興中の新宿の街並みが眼下に広がる建御雷の視界には、彼女が入り込む余地は無い。それでもなお、そういった直接的な意味での視界とは別のどこか、言語化し難い次元に彼女の像がこびりつき、康徳へ笑みを向けていた。


 ——やめろ、消えてくれ。今は出て来ないでくれ!


 訴えは届かない。感情の荒波とは断絶した経験と反射が、刃尾を総動員して低空から突き上げて来た敵を叩く。残像を突き抜けた刃尾は轟音とともに地面にクレーターを作った。


 ——なんだ、何が目的なんだ? お前は、お前は……!


 今更、掛けるべき言葉も、発すべき問も思い浮かばない。十年間、自責と事実から逃げ続けて来たのだから。親としての情を殺し、主操縦士としての任に徹し、この銀白の巨体を鎧として自分だけを護って来たのだから。


 ここの中にいるうちは全てを忘れられた。無力な自分を忘却し、識人を殺し続けることで何かを否定出来る気がしていた。だから彼は戦い続けた。


 なのに、過去は彼に追いついた。鎧の中にまで侵食し、今こうして彼の精神を蝕んでいる。


 ——いや、違う。


 ここが過去なのだ。破龍兵装は識人の遺骸から作り出したものなのだから。一人の少女をグロテスクな装甲と兵器で飾り立てたものなのだから。


 自分は最初から文字通り沙智を纏い、同時に彼女に囚われ続けて来たのだ。


「kkkkyyyy!」


 識人が無機質な雄叫びを上げて背後から建御雷に迫る。建御雷は相手の動きを予想し、振り返るより先に刃尾で応戦する。


 そのとき、識人の動きに変化が生じた。


 縦横無尽に建御雷を翻弄しつつ、決定的な一線は踏み越えなかった軌道が、ある一点へ一気に収束する。


 それは建御雷の背面。そこでうごめく三本の刃尾それ自体だった。


 識人は加速して安全圏まで退避するのではなく、建御雷の振り向きに合わせて至近距離で旋回する。ホバリングするように背後で浮遊して纏わり付き、離れない。


 その識人へ三本の刃尾が複雑軌道を描いて食らいつく。


 縦に横に袈裟斬りに。殴打、刺突、両断、カチ上げ。連撃、挟撃、時差攻撃、フェイント、目潰し。千変万化のコンビネーション。


 しかしその実、前方や上方、側面を薙ぎ払っていたときとは異なり、それらは精密さを欠いたハッタリに過ぎなかった。


 建御雷の感覚系は人間のそれと大差ない。鈍い皮膚感覚と単眼の存在だけが唯一の差だ。単眼は上下に十五度ほど広い視界を持つが、背後を視認出来ないのは人間と同様だ。そしてそれにもかかわらず、この機体に不可欠な三本の刃尾は全て背面に存在する。


 ここに致命的な齟齬がある。


「kyy」


 識人は複眼の動体視力と触角の気流測定でもって全ての動きを捕捉する。建御雷にとって死角となる背後への攻撃は直感に依拠した乱雑なもので、避けるのは比較的容易い。


 回避運動もまた千変万化で、超音速の応酬が風圧と振動で周囲を平らにしていく。


 苛ついたかのように建御雷は前方へ機敏に跳躍し、識人から自発的に距離を置こうとする。だが識人の機動性はその遥か上を行く。あたかも影の如く寄り添い、決して逃さない。そして、


「kyyyyyy!」


 鎌状器官が刃尾の先端部を一閃した。そこに装備されたファルメンダスト鋼のブレードと、鈍く光る獰猛な鎌の硬度は互角。甲高い金属的な衝突音が響き、両者は弾き合う。識人の一撃が遂に建御雷を捉えた。


 背後の死角は当然、防御においてもアキレス腱となる。


 つまり、攻防いずれにおいても刃尾自体が最大の弱点となるのだ。高機動近接戦闘型の建御雷が、背後の至近距離から最大の武器である刃尾を集中攻撃されると対応が困難だという矛盾。無論、直感頼りとはいえ刃尾による三方向からの猛攻を捌き切る敵の機動性を前提とする話だが。


 この識人にはその弱点を突くことが可能だった。


 今や識人は明確な攻勢に打って出ていた。蛇腹装甲の連結部、最も衝撃に弱い僅かな隙間を狙い幾度も鎌を振り下ろし、建御雷は逃れようともがき、刃尾をのたくらせる。


 一連の流れを康徳は他人事のように観測していた。


 戦闘音が、目の前にある筈の街並みが、酷く遠い。感情と戦闘技能の分離断絶はいつしか彼の意識を建御雷から引き剥がし、静寂に包まれた暗いどこかへと連れ去った。それは明確な位置座標としては、いや、心理学的座標としてすら存在しないであろうどこか。


 そこで康徳は今、沙智と向き合っている。戦闘中もずっと微笑みかけて来た彼女のいる場所へ、彼はようやく辿り着いていた。


「お父さん」


 初めて声がした。十年前と変わらない、控えめで少し臆病そうな少女の声が。


 いや、十年前と同じだと? 自分は十年前、彼女のことをどれだけ知っていた?


「お、俺は……お前を憎んでいたわけじゃない。嫌いだったわけじゃ……ないんだ」


 そう、沙智という自分の娘は。


 では、識人としての彼女は?


 走馬灯のような情景が、記憶の数々が、黒一色の空間に流れる。康徳はそれを沙智と並んで、そして傍に彼女がいることなど失念して眺めていた。


 最初は、ただ救いたい気持ちだけがあった。自衛官としての自分は、識人災害で傷付いた人々を救いたい一心で奔走し、しかし同時に識人の心境へ思いを馳せずにはいられなかった。


 核で、化学兵器で、空爆で葬り去られる彼らだって、自らの意思でそうなったわけではない筈だった。国民を分け隔て無く救うことを標榜しながら彼らの殲滅戦に参加することに、矛盾を感じずにはいられなかった。


 そうして少しずつ彼は擦り減っていった。


 だが、戦争における多くの懊悩がそうであるように、悩み苦しみ精神を切り詰めていくことに実際的意味は無かった。彼に寄り添い続けた最愛の妻が沙智を遺して瓦礫の間の肉片となったとき、後に軍神と呼ばれる男が生まれた。


 歪んだ彼はそれを矯正できないまま、妻の遺した娘が識人になるという現実を歪んだ仕方で受け入れた。


 受け入れて、処理した。


「お父さん」


 沙智が微笑み掛ける。彼が処理した少女が。最愛の妻の遺した、掛け替えの無い家族でもあった筈の彼女が、彼を父と呼ぶ。無邪気に、曇りも疑いも無い声で。


「あ、あ」


 バラバラと、音を立てて落ちていく。


「ああ」


 彼女を処理した男は、軍神鹿島という防患隊員は死んだ。今、この場で、十八年という寿命を迎えて無責任に死んでしまった。沙智が殺したのか。いや、彼女が最後のひと押しをしたというだけで、とっくに寿命を迎えていたのだろう。


 遺された鹿島康徳には、十年越しの眼前の微笑みは受け止めるには重すぎて。

「————!」


 戦場から遠く離れたどこか。一人の男の慟哭が響いた。


 それと時を同じくして、識人の鎌がとうとう鋼鉄の大蛇の首を切り落とした。

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