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 期末考査が終わり、大学の図書館からは一気に人が減った。薄暗く閑散とした書庫に設けられた机で教科書と向き合いつつ、史哉の意識はそこへは向いていない。埃の舞う電灯の近くへぼんやり目を遣り、結局集中出来ないならば、と腰を上げる。この三週間、彼は常にこうだった。期末考査はきっと人生で最悪の出来だろう。


 あの後、彼は漠然と防患隊員か公安かが自分の身柄を押さえに来るだろうと思っていた。最終的にそうだが、彼の行ったことは識人蔵匿、内乱、識人のテロ動員等の数々の犯罪に当たる。法学の授業は取っていないが、一切罪に問われないようなものではないことぐらいは分かる。


 だが、彼は今もこうして安穏と暮らしている。思えば当然のことだった。一連の騒動と結末は証拠が無いだけでなく、無数の幸運に支えられたイレギュラーなのだから。


 図書館から出て、陰気で無機質な防患大の通路を歩く。今日はもうそのまま帰宅するつもりだった。


 迷宮線の駅内。長期休暇中ということもあって待機車両は少ない。その一つに乗り込み、彼はしばし逡巡する。家へ向かうか、それとも……。


 結局、練馬方面のゲートを選択した。今日は父と顔を合わせる気にはなれなかった。鞄の中には三枚目の封筒が入ってはいるが、それを父の枕元の棚に置くのは少し先になりそうだ。


 鹿島康徳が植物状態になった。防患隊から家の電話でその知らせを受けたとき、史哉は自分の胸の内に罪悪感や喪失感が湧いてこないか、数分待って確認していた。そんな確認をしている時点で、結論は分かりきったものだった。


 湧いてくる感情は皆無だったが、言いたいこと、問いたいことは無数にあった。そしてその機会は半永久的に失われた。


 だから彼は手紙を書き、あそこに置いていくことにした。こうなってからでなければ向き合えなかったことには、吐き気を覚えるけれど、それはお互い様だろう。


 ——最後まで向き合えなかったのは、父さんとだけじゃない。


 ヨーカと名乗ったあの少女の名前を、未だに彼は知らなかった。防患隊の管理する膨大な罹災者名簿を当たれば、ヨーカという名の響きと年齢から特定することも可能かもしれない。だが、仮に彼女の年齢が本当で、ヨーカという名乗りも本名を元にしたものだったとしても、彼女が公的にいつ、どこで罹災者——死者と行方不明者の総称だ——となったのかが分からない以上、相当困難な作業だった。史哉は彼女の過去について、建御雷との因縁があったことしか知らない。逆に彼女も鹿。知りようがなかった、ほとんど踏み込んで話さなかったのだから。


 車両を降り、練馬方面第一ゲートから地上へ出る。大防患地区が練馬小防患地区を取り込むのはまだ随分先のことだ。相変わらず閑散とした商店街を抜け、家路を行く。そこは何も変わっていない。多くのテナントや小店舗が撤退したことを除けば、彼が小学生だった頃から。


 結局、自分の行為は何を変えたのだろうか。そう思案せずにはいられない。無論、今回の一件で世論の、世界の破龍兵装に対する見方は大きく変化した。とはいえ、この十ヶ月、彼を突き動かしてきた動因はそんな大それたものではない。もっと身近で、卑近で、個人的なものだった。


 父は英雄ではなくなった、初めから史哉が望んでいた通りに。それどころか、父は永遠に消えてしまった。そこまでは、多分望んでいなかった。


 妹の影もまた消えてしまった。彼が混沌とした感情を整理しきらない内に。それは間違い無く当然の帰結。


 では、妹はどうだ。十年前に失われた彼女の命。本来はそれを解放するために建御雷の破壊を企てていた筈だ。それは彼女というよりは史哉の意識の問題で、物質的に見れば彼女の死体が十年間動き続けていたに過ぎない。それは理解しつつ、なお自分の意識のため行動していたつもりだった。そして、建御雷の廃棄をもってそれは達成された筈だった。


 けれども、あの最後の日。建御雷の暴走を見て以来、彼の心に引っ掛かり続けていることがある。


 果たして、あれは何だったのか?


 あのとき、中にいたのは誰だったのか?


 戦闘直前の康徳は死龍憑きが悪化していたと、八雲に聞いた。記憶の混濁があったとも。


 史哉の建御雷見学を康徳が快諾したのも、その記憶の混濁が原因だったと思われる、と。


「…………」


 もし、沙智の意識が変容した身体に何らかの形で残っていたとしたら? 父の見ていた死龍憑きの影とは、彼女の意識の片鱗なのだとしたら?


 死龍憑きはどこまで行っても主観的な、ほとんどオカルトに近いような症状だ。考えたところで結論が出るわけでもない。そして結論が出ないということは、決定的な否定が突き付けられもしないということだ。


 そしてもし、それが真実なのだとしたら、彼女に二度目の死をもたらしてしまったのは……。


「……全部今更なんだけれど」

 史哉は溜息をついた。


 確実なことはただ一つ。


 彼の妹はもう、あらゆる意味で失われ尽くしたということだけだ。

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