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『識人警報。識人警報。午前八時二十五分頃、市内に識人が出現した。将官課程三回生以上の者は、速やかに各本拠館へ向かえ。なお、本日の講義は全て休講とする。繰り返す——』
一限開始直前の空き時間。
「うわああああ! ついてねぇー!」
入れ替わりに小柄な青年が教室へ飛び込んで来る。必死で走って来たのだろう。肩で息をし、短髪で剥き出しになった額には玉のような汗が浮かんでいる。
「おいおい、折角時間通りに登校したらコレかよ?」
非将官課程生向けの授業であるため、警報にもかかわらず教室の空気は弛緩した放課後のそれ。生徒達は今日の時間をどう潰すか相談し、フィクサフォンで速報を眺め、新たな識人の情報を交換しながら教室から出ていく。青年の悲嘆に返る声は無い。彼の友人が無視を決め込んだためだ。
「なんか言えよ、おい!」
知らん顔でノートめくり続ける史哉に対し、青年は詰め寄って机を叩く。史哉は心底面倒臭そうなため息をつき、
「正確には約十五秒の遅刻だ、
「え、マジ?」
「嘘だが」
「てめぇ!」
「良いだろう、どうせ落単なんだから」
キリの良いところまで復習を終え、史哉はノートを片付け始めた。自身の怠惰を棚に上げて神と講師への呪詛を吐き続ける
「起きろ、
「……何と。始まったら起こしてくれるはずじゃなかったのか」
「授業が始まらなかった場合はいつ起こすのが正解なんだろうな?」
青年、大谷徹は圧迫され赤くなった目周りを擦り、銀縁の眼鏡を掛ける。細身で筋の通った、見るからに真面目そうな優等生顔だ。彼は大きな欠伸をかまし、
「成る程、識人か。しかし敵わんな、こうもしょっちゅう休講されると。常に安全を最優先せねばならない大学の方針は理解出来るが、流石にもう少し臨機応変にやって欲しい。何のために大学を地下に置いてあるんだ」
手近な机に腰掛けた宏樹が、フィクサフォンを弄りながら、
「まぁ、それで救われる俺みたいなのもいる。警報が無けりゃ前期セメスターでいくつ必修落としていたか」
「貴重な血税をドブに捨てるクズめ」
「いやいや、何言ってんの、徹さん。俺みたいなのも必要だぜ? 防患隊、及び周辺研究機関に供出する多種多様な人材の育成よ。防患大学憲章にも書いてある」
言ってろ、と、呆れ果てた徹は、荷物をまとめた史哉に向き直った。
「さて、どうする? 今日は食堂も生協も資料館も休みだろう。大学にいてもやることないぞ」
史哉はすぐには答えず、鞄を背負って廊下へ出る。徹、宏樹が彼に続き、教室は無人になった。
「自分の部屋に帰ればいいんじゃないか? 君達は寮だろう」
「おいおい、連れねーな、史哉さんよ。お前は地上住みだろ。ゲートはどうせ昼過ぎまで封鎖されていて上にゃ出られねーぞ。お前はどうするんだ?」
「適当な教室で予習でもしてるさ」
ガリ勉め、と呻く宏樹をやはり無視し、史哉は早足に先へ進む。
大防患地区内でも特に装飾の少ない防患大区画は、床も壁も無地のコンクリートであり、種々の配管が剥き出しになった天井には病的な青白い電灯が取り付けられている。それに照らされた史哉の背中は、この冷めた廊下と同じくらい他者を拒絶していた。
「……そうか。なら、そうさせてもらうよ。ちょうど最近、課題と寝不足が溜まっていたもんでな。履修を組んだ学期初めの自分を殴りたい気分だ」
徹の言葉を聞いて史哉の肩から僅かに力が抜ける。彼が徹の気遣いに気付かない訳がない。振り向いた彼が徹に見せた表情は、変化に乏しいなりに感謝の念を示していた。
「あ、おいお前ら!」
だが、そんな無言の心馳せと無縁な人間もまたここにはいる。
「迎撃は
フィクサフォンでネットニュースを確認していた宏樹の無遠慮な大声。細長い廊下の中、それは反響して重音となり、どこまでも木霊していく。
史哉と徹の反応は二者二様。共に脚を止めて宏樹の方へ振り返りつつも、それぞれ無色の沈黙と憤怒の滲む狼狽を示す。
「あ、そういや特佐の特別講義って明後日だっけ。こりゃオジャンかなぁ。楽しみにしていたのに。どうよ、史哉?」
「おい、宏樹!」
「ああ? 何だよ、徹」
「お前はどうしてそう、どうしようもなく無神経なんだ? 少しは配慮というものを知ったらどうだ。今この瞬間も、特佐殿は命を掛けて戦っておられるんだぞ」
「またかよ、お前」
やれやれ、と、無機質な廊下に響き渡るほどの大袈裟な溜息と共に、宏樹は首を振りつつ答える。
「本人が特に気にしてないんだから別に良いだろ。俺が無神経なんじゃなくてお前が神経質なんだよ」
一瞬、反論を試みた徹は、しかし、最後まで言い切ることが出来ない。口籠った彼の言葉は、形を成さずに無意味な唸りとなってコンクリートに落ちる。
その躊躇をどう解釈したのか宏樹は、大体さ、と前置きをして、
「意識しすぎなのは寧ろ特佐に失礼。そうじゃね? 軍神鹿島が負けるわけねぇだろう? 史哉だってそう思っているから……特佐を信頼しているからこんだけ落ち着いてんだよ」
な、史哉、と邪気の無い笑顔を向けつつ問う。これまで一切言葉を挟まず、無言でそのやり取りを聞いていた史哉は、いかにもどうでも良さそうに肩を竦めてみせる。
「いつまでも負けない
その声音も、仕草と同じ色を帯びていた。
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