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廃棄物の圧縮工場のような新宿の街並み。雑然を超えて混沌の様相を呈するそこを、一つの巨大な深緑色の影が行く。
それは蛸に似ていた。丸みを帯びつつ縦に細長い頭部が、左右前後の計四本の脚に直結する体構造は、紛れもなく頭足類のもの。その印象を補強するかのように、頭部には無感情な一対の眼球が、脚部には無数の吸盤がついており、各吸盤の直径は三メートルを超す。だが、深山の如き頭部に対し、四本の脚部は不自然なほど細く、巨体を支え得るようには見えない。
実際、その生物は移動に際して脚部を殆ど動かしていない。
地表から五メートルほど、浮遊しているのだ。
地べたに張り付くようなスラム街には、高さ五メートルを越す構造物は皆無と言っていい。故に生物は、周囲に一切の被害を加えず、一定の高度を滑るように移動していた。
あたかも歪な風船。幻想的でさえある超現実の光景は、幾度も識人に蹂躙され続けて来た住民をして、一種の麻痺状態に陥らせた。大声を出す防患隊員の必死の避難誘導に従いつつも、誰もが口を開け、呆けたように生きた浮遊孤山を見上げている。
「識人は依然として、時速約十キロで南下中。二十分後にスラム街を抜け、渋谷に至ると予想される」
その生物に対し、住民のものとは真逆の鋭い目が四つ向けられている。新宿上空二百メートル地点。体高百五十メートルに及ぶ識人の斜め後方からその頭部を見下ろす位置。ローターの風切音を響かせて追従する戦闘ヘリである。四十ミリクラスの機関砲、空対地ミサイルを装備した獰猛な鋼鉄の機体には「日本防患隊東部方面隊」の文字が踊る。関東全域と甲信越を守護する日本の防患軍は、今のところ対象に手出しをしていない。
「対象は緩慢に移動しているが、おそらくまだ初期虚脱状態にある。現時点では出現場所付近を除き、地上への被害は出ていないように見える。あの図体のくせに浮遊しているらしい」
機体前部、左右二つの操縦席に防患隊員の姿がある。右側の機長席に座るのは齢三十を迎える頃の精強な男。隣の助手席では、同年代ながら細面の男がヘリに備え付けられた通信機で市ヶ谷地下の本部と交信している。
『もう間もなく建御雷がそちらへ着く。旧渋谷区との区境から一キロの緩衝地帯で迎撃する。それまでは対象の観測を続けよ』
「了解」
『……識人の通し番号が決まった。三六五号だそうだ』
「把握した。引き続き任務に当たる」
通信を終了し、男は前方に眼を向ける。ヘリの前面、開けた強化アクリル板越しの風景に、異様な巨大生物の姿がある。彼は油断無くそれへ注意を向けつつも、僅かに倦怠感のある声で機長席の同僚へ話し掛ける。
「こうもバカスカ出現されるたび、政治家どもの重いケツを蹴り飛ばしたくなる。東京のど真ん中に識人の名産地をこさえて、一体何がしたいんだか」
「確かに新宿は都心だが、ここから東京湾までの一帯はほぼ地下に機能移設済みだ。識人が東京湾から外洋への——
「大防患地区、ねぇ。……最深部に本部を置く防患隊の人間が言えることじゃねぇが、胸糞悪くなる。地下新宿の住民は検患不十分で追い出されたんだろ? 地下は定期検患完遂が義務付けられている防患地区だからな」
莫大な質量を持つ識人という脅威の出現は、世界中の大都市から高層建築を一掃した。阪神淡路大震災を機に耐震設計の分野で発展を遂げつつあった日本の建築技術も、識人の前には無力だった。
代わりに発達したのが、検患の徹底で内部からの崩壊を防ぎ、シェルターを兼ねた強力な防衛外装で外部からの破壊を拒む地下都市だった。日本には大小五十以上の防患地区と呼ばれるそれがあり、大防患地区は世界でも最大規模のものだった。
だが、全国民の六分の一程度の現実的可住収容力しか持たないそれを、貴族地区として批判する向きは強い。防患隊内であっても同様だった。同僚の男は何と応えるか、少しの間逡巡し、
「幸い、今回は被害者は出ていない」
「一般市民には、な。基地を出る前に聞いただろう。巡回班から死者が出た」
「……知り合いだったのか?」
「大阪防患大での同期だ。附属中の頃からずっと、な。俺もあいつも、二十年前の京都で孤児になった。それ以来の腐れ縁さ」
「そうか、それは……」
沈黙。持続的なヘリのローター音だけが狭い機内に響く。識人三六五号は変わらず巨体に見合わない遅さで南進している。
「運の無いやつだよ。巡回の真っ最中に第三病期のあれと遭遇して、丁度その瞬間に発現したらしい」
「……それで巻き込まれたのか」
「いや、最期の瞬間について詳しく聞いたわけじゃないが、どうも襲われたらしい」
溢れ出しそうになる激情を押し潰すように砲撃桿を音が鳴るほど握り締め、息を吐き出す。無論、トリガーからは指を離してある。
「出来ることなら、今すぐコイツをブチ込んでやりたいよ」
「一応言っておくが、やめてくれよ?」
「当然だ、俺だって死にたくはない。軍神特佐殿に仇を討って頂こう」
相方が露骨に安堵の溜息をつくのを聞き、男は苦笑する。どうも感傷的になっていけない。たとえこの識人が初期虚脱状態であって目立つ攻撃性を示していないとはいえ、今は任務中であり、このヘリが関東全域三千万の人命を背負う現在の最前線なのだ。
「ん、おい」
彼が違和感を覚えたのはそのときだった。操縦を分担する同僚は計器類に注意を払っており、眼前で展開する異変に気付かないようだった。
「何をしている。高度を上げろ」
「え、高度?」
「いや」
下がっているじゃないか、と言おうとして言葉に詰まる。眼下の街の大きさは変化しておらず、それ以上に同僚が注視する高度計は一切の変化を伝えていない。ならば、
「————」
機体の高度が下がっているわけではない。
「ッ! 高度を上げろ、早く‼︎」
彼が叫んだ瞬間、機体が上昇するより先に、眼前にあった頭頂部が近付いて来、轟音を立てながら機上に消えた。頭部と一体になった胴体部が、深緑の濁流となって視界一面を覆って一気に空へ立ち昇り、次いで細い——とはいえ大木程の太さはある——触手が揺れながら続く。一瞬の出来事なのに、醜怪な吹き出物と分泌液に覆われた表皮が脳裏に焼き付いた。
「くッ!」
莫大体積が凄まじい速度で移動したことによる大気の激動が、彼らの乗る戦闘ヘリを襲撃した。空中にいながら地震を思わせる重力と浮遊感。強化アクリルの向こうに広がる景色は、右から左へ流れ、後方が前方になり、地表のバラック群が近付いては秋の蒼天が視界を埋める。
「クソッ! 本部、聞こえるか! 奴がいきなり浮上しやがった。凄まじい速度だ! 機体のコントロールが……」
操縦桿や計測機と格闘する同僚。その隣席で男は通信機に怒鳴り込んでいた。機体が振れるたび、身体の腹面で固定されたシートベルトが締め付け、滅茶苦茶な重力と相まって急激に気分が悪くなる。
大気の流動が治まり、機体が安定感を取り戻すと、二人の防患隊員は肩で息をしていた。高度計の指す数字は先より三十近くも小さくなっている。
「……大丈夫か?」
「あぁ、最悪の気分だが。対G訓練で手を抜いたツケを払わされているよ」
「……! そうだ、奴は」
「……上だ」
機長席の隊員は同僚からの答えの意味を認識し、息を呑んだ。機体前部に開けたパノラマ型の視野。その上端、群青の秋空が広がるそこに、場違いな深すぎる緑があった。高度は目測で二百五十メートル程か。巨大な頭足類はその頭部を進行方向——渋谷方面へ向け、貧弱な四本の足を後方に流している。
それは、巨大な飛行船のようにも見えた。
「これは、いくらなんでも……」
規格外、デカすぎる、速すぎる。どの言葉が続いたのかは隊員自身にも分からなかった。
「ghoooooooooonnnnnn!」
彼の言葉を遮るように、朝の都心を貫く暴力的な重低音。それは生物の鳴き声というよりは、タンカーの汽笛や蒸気機関の駆動を思わせる。日本の首都を睥睨するその巨大生体機関は、四本の脚をゆっくり波打たせ、
——————‼
先程の上昇と同じ速度で、渋谷方面へ急速前進した。横倒しになった全長一五○メートルの飛行物体。遠近感を狂わさずにはおかない筈のそれが、目の錯覚さえも凌駕する速度で遠ざかっていく。一瞬、呆然と見送った助手席の隊員は、我に返って悲鳴に近い声を上げた。
「ほ、本部! 虚脱を脱した識人がそっちへ向かった! 半端なく速い。もう十数秒で、緩衝地帯を超えて渋谷に入り込んでしまう! 高度は二五○!」
だが、悲痛なその報告に対し、通信機の返す声は泰然自若としていて、寧ろどこか愉快げでさえあった。
『ご苦労。貴官の任務は終了だ。迅速に退避しろ、巻き込まれないように、な』
「! じゃあ……」
ああ、と前置きをして、
『建御雷は既に配備済みだ。——軍神の御武運を祈ろう』
直後、ヘリの前面に広がる都心の景観の中。新渋旧区境に差し掛かった巨影は、速度を維持したまま突如緩衝地帯に墜落した。
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