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東京都、東京市、旧新宿区。一年前の惨劇で巨大な廃墟と化したこの街には、その非文明的な居住性にもかかわらず、依然としてかなりの数の人間が住んでいる。旧新宿区といえば
故に地上区画は過密スラムになっている。相次ぐ識人災害に政府の対応は後手へ回り続け、瓦礫の山々は放置されている。その間を埋めるトタンと
その現代に蘇ったソドムを、例外的に合法な存在が歩いていく。特徴的な灰色をベースにした迷彩柄の制服姿。重い黒のコンバットブーツは、舗装がヒビ割れ、雑多なゴミが散らばる道路の上を苦もなく踏破していく。その男は、懐中から取り出した無線機を口元へ持っていくと、足を止めた。
「こちら
『こちら対策本部。貴官の位置を確認した。位置情報システムに異常無し。引き続き巡回にあたれ。どうぞ』
「了解」
無線機を懐に収めてまた歩き出し、男は溜息を吐く。それは任務自体の過酷さによるものではない。早朝から二・五キロのアサルトカービンと十五キロのザックを背負い瓦礫の山を踏破するのは、確かに過酷な任務ではある。しかし、彼は誇り高き日本
問題は、彼——というより大抵の現場の人間——がこの新宿巡回任務に意味を見出せないことだった。
一年前、二○一八年八月四日、新宿は識人三一六号により灰塵に帰した。
同様の事態——識人による都市、政治機能の不可逆的破壊——は日本においては破龍兵装開発以前に幾度か起こっている。一九九九年の札幌、二○○三年の博多、二○○六年の横浜近郊。いずれも日本識人戦争史に残る大惨禍ではある。
しかし、当時と今日では罹患率が文字通りに桁違いだ。過去二十年間、各国防患戦力の質的改善、量的拡大にもかかわらず、識人の出現件数は世界的に増加の一途をたどっている。そのメカニズムは不明ながら、影響は明確であった。一度都市機能が破壊され、国家による個人の把握と検患が困難になれば、一気にそこは病原都市と化してしまうのだ。かつて国民の把握も軍事力も不十分な軍事政権が割拠し、それらが早々に崩壊して以後は識人の楽園と化しているアフリカ、南米両大陸。その縮小版が日本の首都に再現されることとなる。
この一年で新宿からは五体もの識人が出現していた。新宿はすでに病原都市と呼ぶに十分だった。
男が当たっている巡回任務とは、そういった識人の出現を未然に防ぐためのもの。つまり
だが実際問題として、任務がその目的を十分果たしているかは疑わしい。週に五度、一度に十人の防患士によるランダム巡回。それだけの人員でカバーするには新宿は広すぎ、なおかつスラム街は複雑すぎた。一年に出現した識人五体に対し、保護した初期患者の数はたった二人である。
無論、いくら防患隊の手綱を握る日本政府がまだ官僚主義の弊害を改善出来ていなくとも、こんな非効率な手段を最初から現場に押し付けたわけではない。当初考えられていたのは、住民に報酬と引き換えに積極的協力を呼び掛ける案である。つまり、新宿近郊で検患を受けてもらい、見返りとして食糧や物資を渡すのだ。当然、報酬目当てに複数回検患を受ける者が続出し、試験段階で断念された。
識人病患者を賞金首にする法令の導入がいよいよ真剣に検討されたこともあった。二十年に及ぶ識人戦争を経て国民の間にも理解の広がりつつあった法令だが、厚生防患大臣の挑発的な失言が野党と人権団体の猛抗議を呼んだ——管理監視社会への第一歩——ため、要検討のまま中止となった。世界中で識人病患者抹殺論が広まる中、世界有数の発生率をほこる日本でなぜ彼らがあれほどその潮流に逆らえるのか。抹殺論者の一人である男には理解できなかった。
ともかくそうして、男が徒労感に苛まれながら巡回任務に当たる今がある。
これは実質、政府が新宿を、当面の間見捨てたとことを意味する。復興の必要性は認められているものの常に財源は不足しており、関係各所は合意には至らない。かつて災害復興の実働を担っていた自衛隊が、予算の関係から実質的に防患隊の災害救助部門となったのは既に十年前のこと。さらに今日の東京は——というよりその地上部は——日本において、少なくとも経済、政治機能的観点では地方を放りしてまで復興すべき程の都市圏ではない。
では防患的観点ではどうか。これもいびつなことに、差し迫った危機的状況とは——公的には——捉えられていないのだった。
なぜなら東京には軍神がいる。この一年、新宿から出現した五体の識人全てを屠った龍殺しが。
「まぁ、あの人に全部任せっきりなのもどうかと思うが……」
独り言を漏らしつつ、彼は再び足を止めた。素通りするにはあまりに強烈な違和感。
一帯の中でも特に瓦礫が大量に残され、撤去の困難さ故にバラックさえ疎らになるような場所である。過去の巡回で何度か通り、その度に代わり映えのしない閑散とした風景に、政府の無策を呪った一角。
その瓦礫群の中央部。即席麺の卵ポケットのような円形の空きスペースが作られていた。空間に陣取るのは、新宿の平均的なものより二回り以上大きなバラックである。
「…………」
光景の意味を理解し、男は鼓動が速まるのを自覚する。ザックを担ぎ直し、カービンでは取り回しが利かないと判断。自動式拳銃を脚部ホルスターから取り出す。だが、片手に収まる非力な文明の利器は、流れる冷や汗を止めてはくれない。
慎重にバラックへ近付く。円の内に入ると立ち止まり、建物を見上げた。
大きい。……三階建て相当の高さはある。円の直径は十メートルもあり、バラックは一辺が八メートルの正方形である。素材は新宿全域に出回っている劣等合成樹脂。無論、違法だ。
円の外周に沿ってゆっくりと歩き始める。その間も付近への注意を怠らない。男が最初に近付いた辺の対辺にあたる場所に、入り口というには粗雑な穴が開いているのを見つけた。大の男が何とか一人で通り抜けられそうな大きさだ。
「こちらE。第十九区画において不審なバラックを発見。当官の現在地を確認されたし」
『こちら対策本部。確認した。詳細を求む』
「ルート上の瓦礫の山の真ん中にある。前回……五日前の巡回時には見当たらなかった。外観形状に不自然な点は見当たらないが、とにかく大きい。新宿の連中が五日で組み上げられるとは思わない。瓦礫の撤去も必要だしな」
『入れそうか?』
「入り口らしき穴は目の前にある。入ろうと思えば入れるが、内部が暗いため中の様子はここからでは確認できない」
しばしの沈黙。渋谷に置かれた本部で、指揮官達が慌ただしく相談を行なっているのだろう。
『……では中に入ってくれ。内部の様子を報告してほしい。だが、決して無理はするな。危険を感じたら即時離脱して構わない。増援を送る』
「了解」
通信終了。それを機に、一度深く息を吸って吐く。初見時の動揺が収まり始め、鼓動は緩やかになりつつあった。
同時に一つの疑問が首をもたげ始める。一体何故、付近の住民はこのバラックの存在に気付いていないのだろう。ここが新宿内で稀有な過疎地域であり、周りに積まれた瓦礫が遠方からの視界を妨げるとはいえ、流石にこれほど巨大な建造物を見逃すとは思えない。
可能性は二つ。彼が聞き込みをした相手が嘘をついていた可能性。状況が改善しない苛立ちを防患隊にぶつける者は少なくない。
もう一つは、これが昨夜一晩で組み上げられたという可能性。
仄暗い穴の真横に立つ。銃把の硬さを手掛かりに呼吸を整え、内部へと滑り込んだ。
直後、
「ッ!」
男は反射的に右斜め前へ身体を大きく投げ出した。勢い余って不様にたたらを踏むのと、真後ろの床——というより剥き出しの地面——に何か長物が叩き付けられるのは同時。反射神経が僅かでも鈍ければ、彼は頭蓋をかち割られていただろう。
「動くな!」
振り返りざまに構えた拳銃を向けつつ、入り口からの薄明りで逆光になった襲撃者に目を向ける。彼我の距離は約四メートル。相手の姿はよく見えないが、長物は形状と先程の音から判ずるに鉄パイプだろう。
「ああああああ!」
警告も虚しく、襲撃者は鉄パイプを振り被り男へ突貫して来る。間髪入れず、男は引き金を引いた。射撃音がバラックの内部空間を蹂躙する。襲撃者は身を怯ませ、振り上げた手元から武器を取り落とす。
その隙を防患隊員は逃さない。
「ッ!」
二メートル程度となった両者の距離を一気に詰め、相手の腹部へ容赦の無いミドルキックを打ち込む。ほとんど利かない視界は経験と勘で補い、結果、こひゅ、と間の抜けた息を吐いて敵は崩れ落ちた。
追撃は不要だろう。彼はうつ伏せに倒れた敵の腕を携帯の拘束具で縛り上げ、初めてその身体が想定以上に華奢なことに気付く。そればかりか、
「……女だったのか」
ライトで人相を確認して見れば、短髪の女性だった。頰がこける程痩せ衰え、やつれきっているため年齢は判然としない。半開きになった口の端から、吐瀉物が垂れ流しになっていた。
男は冷静に脈と呼吸を測り、彼女の身体に目立つ外傷の無いことも確認する。先程の銃声は威嚇射撃だったのだ。バラック内で反響する銃声は戦闘に不慣れな民間人——初撃の杜撰さでそうと知れた——を竦ませ、隙を作らせるには充分だ。彼も伊達に一等防患士を務めているわけではない。
ともかく、今はこの建物を調べるのが先決だ。彼女が発症者という可能性も当然あるが、先の動きを見るに、仮にそうだとしても
「さて……」
拘束した女性を入り口近くに放置し、内部空間を改めて見遣る。暗順応した視覚とライトは、広くて何も無いそこを捉えていた。個別の部屋は存在せず、穴のすぐ横からでも正方形の他の三辺が見渡せる。剥き出しとなった地面にはたった一つの家具さえも置かれず、隅の方に数日分の配給食が散らかっているだけだった。見上げれば三階分の高さは吹き抜けだ。天井は原料の分からないでこぼこした素材で作られており、電灯の類は見当たらない。
「何なんだ、ここは……」
『E、問題は無いか』
「あー、特には。入った直後に鉄パイプを持った民間人の襲撃を受けたが、制圧して拘束してある。患者を蔵匿しているのかもしれん。一応、
『中の様子はどうだ?』
問われ、答えに窮する。空間の角へ向かいながら、しばし逡巡。
「なんというか……何も無い。内部は広大な一つの空間になっていて、強いて言うなら車のガレージとか、飛行機の格納庫に近い。まぁ人が住む所じゃないな。素材も……」
外部から見た通り、劣等合成樹脂だ。そう言おうとして、彼は言葉に詰まった。壁の大部分は劣等合成樹脂だ。硬い癖に粘つくような独特の肌触り。
しかし空間の四隅。そこに立つ補強用の柱だけが異常な手触りだったのだ。冷たく吸い付くような、弾力のある構造はゴム製品のそれ。しかし、ジェルの如く震える表面がその構造を覆っており、
「なんだ……」
手を離せば柱の表面から分泌されていた粘液が糸を引いた。掌も同様の粘液に覆われている。鼻を近づけてみれば、薬品じみた薄い刺激臭。
背後を向けば同じ柱が部屋の三隅に一つずつ、計四本の補強柱が地面を穿つ。男は再び眼前の一本にライトを向けた。柱の表面は苔生したような緑色。粘液が光を反射してテラテラと光る。ライトと共に視線を上げていけば、柱は地面から離れるごとに太くなっていき、最後には天井へと……。
「……まずい」
呟き、出口へ向けて駆け出した直後、
————————‼
先程の銃声とは比べ物にならない暴力的な轟音が、男の鼓膜を、脳を、内臓を震わせた。それはタンカー船の汽笛のような、あるいは蒸気機関の駆動するような音。否、鳴き声だった。
思わず耳を塞いで蹲った男は、無線に齧り付くように怒鳴る。
「ほ、本部、至急応援を! 発症者だ! サイズは第三病期末期相当! もう、今すぐにも——」
最後まで言い終えることはできなかった。彼が出口から陽光の下へ飛び出そうとした瞬間。
——ドン!
それは地響きと振動。柱の——患者の巨大な脚の一本が、出口の前に振り下ろされる衝撃だった。
「あ、あぁ……」
男は一撃をすんでのところで回避したものの、もはや脱出の望みも無く、尻餅をついて震えるだけだった。一転、空間を巨大な無音が押し潰す。
『……E! 応答せよ、E!』
無線機の声は男には届かない。その瞬間の彼が聞いていたのは、頭上から届く非生物的な低音階の唸り声だった。だが、巨大なそれは何も仕掛けてこない。
「……馬鹿にしやがって」
その間隙が、彼に防患士としての矜持を、蛮勇を思い出させた。そう、やれる。相手は巨大だが、まだ識人には至っていない第三病期患者。カービンで弾幕を張れば、何発かは急所を直撃するかもしれない。
音を立てないよう銃床を肩に当てて固定し、銃把と弾倉部を握る。素早く上半身を仰向けに倒して天井へ銃口を向け、
「クソがあああああああああああ!」
咆哮と共にトリガーを引いた瞬間、男は自分の身体が浮遊するのを感じた。腰の辺りで掴まれた身体は瞬時に天井近くまで引き上げられる。
絶叫を上げる彼が最期に知覚したのは、強烈な腐臭と薬品臭。そして臼のような歯の並ぶ巨大な口腔だった。
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