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『識人三七四号は、今日午後七時十五分頃に出現、新宿北東部から南下し、新渋緩衝地帯で沈黙しました。出撃したのは鹿島康徳特佐率いる六式建御雷です。新宿では去年以来、検患実施が不十分な状況が慢性化しており、同地域からの識人出現は今年七回目となります』


 新宿地下の遺棄された駐車場。持ち込んだカンテラの側に座り込んで、史哉はラジオで国営の情報チャンネルを聞いている。


『……遺体の詳細な検分が終わるまで、識人注意報は継続されます。防患隊は、検分は本日中には区切りが付くと発表しつつ、注意報地区の住民には外出を控えるよう要請。注意報が発令されているのは以下の地区です』


 新宿を中心に東京市のほぼ全域が読み上げられる。その中には、地下に史哉の実家がある練馬も含まれていた。防患隊による外出自粛要請。アナウンサーは言葉にこそしなかったが、そこには地上地下間のゲートの封鎖継続が含意されている。


「明日までは帰れそうにないな……」


 午前中の授業は休講だから、特に問題は無いのだが。それにどのみち、入浴と就寝以外には用の無い家だ。


「えぇ? じゃあ、どうするの?」


 背後、彼の肩に顎を乗せて聞き入っていたヨーカが尋ねる。


「さあ、どうするかな。こんな夜中にゲートに閉め出されたことは一度も無かったから。意識はしないが、大抵地下で過ごしているってことかな」


 練馬小防患地区は、防患大を含むトーチカとはまだ接続されていない。迷宮線を一気に延長するという事業が、練馬の資産家達を中心に進められているらしいが、少なくも現時点では不通だ。だから史哉は高校の頃から、通学時には小防患地区からトーチカ練馬方面第一ゲートまでの三キロは地上を通っている。しかし、それは大抵陽の出ているうちで、人の行き来の多いその時間帯にはゲートの封鎖は比較的短時間で解除される。だが、現時刻は午後十一時前。良識ある防患地区住民はもう地下にいるだろう。


 夜遊びもしない史哉には、夜半の外出と識人出現がバッティングするのは初の経験だった。


「泊まってく?」


 ヨーカは史哉の正面に回り、彼の顔を覗き込みながら言った。今、彼女の病状は第二病期の安定期に入っており、その形態変化は一応の落ち着きを見せていた。細い顔に掛かった左右二本の髪の束に見えるものは、随意運動さえ可能となった一対の触角だ。その触角が、史哉の髪と頬をまさぐるように動く。最近のヨーカが会話のときにする癖だ。


「どこか学生でも一晩過ごせるような施設があるのか? 地上はあんまり詳しくないんだ」


 小学生の頃から地下で暮らして来た彼の直接見知る地上とは、練馬とゲートの間の閑散としたシャッター街、新宿の廃墟群程度のものだった。


「いや、流石にあるよ……。そりゃ、地下と比べたら寝泊り出来る場所の数も、快適さも全然かもしれないけどさ。渋谷の方まで出れば」


「ニュースを聞いただろう。多分、緩衝地帯は今晩は通り抜け出来ない」


「うん。だから多分、池袋とか神田の方まで出なきゃいけないんじゃないかな。私も最近はずっとここにいるから、今どうなっているのかは分からないけれど、一年前までは普通に街があった筈」


 一年。それは、今の時代ならば一つの街が消滅する——少なくとも気軽に寝泊りはできないような状態になる——のに十分な時間だった。かつての高層ビルと商業施設が切れ目なく続く東京の街並みは、史哉の世代には史料上の存在でしかない。世界有数の識人出現頻度を誇る日本の首都は、摩天楼を失って地下空間を発展させた。今や背の低い住宅地と単純操業の工場の間に、幾つかの経済活動のハブとしての街が点在するだけだ。それにしたっていつまで保つか。


 史哉は自分が地下の住民であり、結局地上には無関心という事実に直面していた。この一年間に出現した識人の特徴、殲滅の成り行きは知っていても、それにより被害を受けた地域となると無知だった。調べてみようにも、ここ——というより新宿のほぼ全域——ではネットが繋がらない。


 何より、移動を迷宮線に頼っている彼が、公共交通機関も無い地上でその距離を歩けるかというと、甚だ怪しいと言わざるを得ない。


「参ったな」


「だから話を戻すけど、泊まってく?」


 ようやくその意味を理解する。


「ここにか」


「うん。場所なら幾らでも余っているから」


 以前は来るたびに増えていた雑多なガラクタも、ヨーカが外出を辞めた三週間前からは数も配置も変えず埃に塗れるがままだった。あの頃に史哉が苦労して持ってきた缶詰類は、結局半分以上は手付かずで放置されることとなった。ヨーカの両腕は完全に昆虫のそれとなって掌握機能を失っており、何より今の彼女のエネルギー源はもはや食事ではない非科学的な何かとなっていたからだ。幸い、コートの方は暖房設備のないここでは普段着として役立っているようだった。


「……なら、そうさせてもらおうかな」


 僅かな思案の後、史哉は言った。彼を躊躇させた要因は地上、それも新宿で一晩過ごすことへの反射的な不安だったが、そもそもヨーカは一年近くそうしているのだと思い出した。


「硬いマットしか無いところだけれどね」


「それは構わない」


「……ふーん。でも今更だけど、何でこんな時間にやって来たの? 初めてだよね。もしかして、何か急ぎで伝えるようなことが分かったのかな」


「いや……」


 史哉は言葉を濁す。彼女の言葉が指すのは、勿論建御雷破壊に有効な何らかの理論や事実のことだろう。幾つか手を打ちつつも不甲斐ないことに——少なくも史哉自信はそう感じていた——、彼は未だ有効な手掛かりを見つけていなかった。タイムリミットは見えないながらも確実に迫っているというのに。


 だがそれとは関係無く、彼はその質問に答えられなかった。自分がこの時間にここへ来た理由。それが、ここ二日ほど実家にいる康徳を避けたという幼稚な逃避でしかないなどと。


 普段、市ヶ谷の防患隊基地にいる康徳は、数ヶ月に一度、数日間実家に帰ってくる。それが史哉に会うためでないのは、事前に彼へ連絡が来ないことからも明らかだ。そんなとき、彼は常に地下の宿泊施設や友人の家へ逃避した。


 一昨日、家に帰ると康徳がリビングにいた。何一つ前触れはなかった。史哉は父と数秒目を合わせた後、無言で背を向けて家から出た。康徳も何も言わなかった。


 この二日間、史哉は同級生の大谷徹と佐久間宏樹の寮の部屋で、一日ずつ寝泊りしていた。あと一日、父が確実にいなくなってから帰ろうと思い、宿を探すつもりだったのに気付けば新宿へ向かっていた。


 だから、初めからこの地下駐車場を宿とするつもりだったのかもしれない。判然としない。自分らしからぬ場当たり的な行動に、史哉は内心困惑していた。


「ま、別に何でもいいけれど」


 身を引いたのはヨーカの方だった。本当に何でも良さそうな口調。史哉が答えに窮すると彼女は常にこう言う。相手について必要以上に知ろうとしないのは、史哉も同じだった。企図する計画の巨大さと比べ、二人の共有する互いの知識は、特に過去に関する知識は少ない。


 暗黙の了解となった一線。その際を守りながら、会話は自然と続く。


「識人災害をこれだけ間近に体験したのは初めてだ。君もよくここで生活し続けられるな」


「新宿の識人はみんな南に逃げるでしょう? 多分、海を目指して。ここら辺に来たことは実は一回も無いの」


 それに、と諦めたような笑いを浮かべて、


「どうせ、私が一番安全に過ごせる場所はここだから」


 諦観の縮む彼女の態度は、しかし自嘲的なものではない。だから史哉も同情や哀れみを押し付けるような真似はしなかった。


「まぁ、君の場合はそうかもな。だが、他の住民はどうなんだ。他の都市圏に行くには航空交通を使わなきゃならないし、検患証明が必要だから無理なのは分かる。だが、関東圏内の別の地区に逃げるくらいならできるんじゃないのか」


「逃げてどうするの? 新宿住民の未整理IDじゃ今は住むところなんて無いんだし、仕事ももらえないから食べるものも無い。でも、ここには最低限の食事がある。第一、地上にいる限り、災害に巻き込まれる可能性は消えない。……私が言うのも変だけどね」


「空白地帯はどうなんだ? ほとんど無人地帯だから識人の発生率は低いし、少数だが自給自足で生活している人間もいる」


 都市圏と都市圏に挟まれた広大な空白地帯。インフラの無いそこにも、野生化した動物や作物で生き延びている少数の人間がいるとは聞く。防患隊の各方面軍による探索で、定期的に識人が発見、殲滅されているが、それでも新宿よりは相当安全なはずだ。


 もっとも、それは今はまだ日本政府が統一国家としての体裁を一応は保っているからであり、このまま戦争が長引けばどうなるかは分からない。極東ロシア連邦と欧州ロシアの間に生じた広大な空白地帯、あるいはカナダとアラスカのほぼ全域のように識人の楽園と化す可能性は高い。


 だが、それはまだ先の話だ。


「そういう人もいるのかもしれないけれど、インフラも何もない場所にいるくらいなら復興を待つ人が大多数なんじゃないかな」


 そういうものか。非当事者ではない自分には理解しにくいが、そもそも都市圏への人口密集が始まった時点で多くの国民は識人から遠ざかることより生活基盤を選んだのだった。そこまで考えた史哉の脳裏に、ふと、見慣れた人々の顔が浮かんで来た。活気を、生気を、意思を失った新宿住民の顔。惰性で生きているようなあの表情。


「……ここの住民は、いや、この国が、人類全体が、もう疲れ切っているのかもしれないな」


 逃げ出す気さえ、起きない程に。


「識人、識人かあ。結局、全部それが原因なんだよね。もし、この世界に……」


 ヨーカの言葉は薄れて消えた。その仮定は、雑談にしても虚しすぎる。


 しかし史哉は、問を零さずにはいられなかった。ヨーカの消えた文末をよりグロテスクに作り替えた問を。


「なぁ、ヨーカ。君は識人が憎いか?」


 彼女の息が一瞬詰まる。揺らぐ触角。地面を引っ掻く昆虫の鉤爪。彼女はただ、無言で首を横に振った。


「そうか」


「うん。……私が識人になるっていうのもあるけれど、それ以上に……。ほら、私は、自分が識人じゃなかったとしても、やっぱり識人を憎めなかったと思う。それは、史哉も同じでしょう? だからこうして、私のところへ来ているんだから」


「ああ、そうさ」


 彼は地下駐車場の暗い天井を見上げる。あのコンクリートの層の上には、瓦礫の山とそこに住む動死者たちの家並みが広がっている。


「だから、時々思うんだ。もっと素直に、ひたすら識人を憎んで迫害出来れば楽だったのに、って。一七○百万分の一の患者なんか知らず、ひたすら使命感に燃えて、義務感と誇りを持って、防患隊の技研局を目指して、破龍兵装の改良と開発に邁進できたら、って」


 史哉が生まれ落ちたのは、人類史上最も閉塞感が蔓延し、希望の存在しない時代だった。けれど、絶望的なりにその原因は単純で。その単純さだけを認識して生きれば、きっと世界は少しだけマシに見えた。


 そういう風にマシに生きている人間が大多数だから、戦う意思のないものも含めて世界中で識人は討伐され、破龍兵装へ転用されるのだろう。たとえ彼らと意思の疎通が困難だとしても、実際に人類への憎悪を暴力として行使する——一年前の新宿の個体のように——発症者がいても、なお全識人を問答無用で虐殺する以外の道も残されているはずだ。しかし、そうはならない。国際協調の冷え込みと国力の低下にもかかわらず、識人の他大陸や無人地帯への逃走を可能な限り認めない国が驚くほど多いのは、信用問題以上に憎悪の要請ではないだろうか。


 史哉は時折そう思う。口には出さずとも、彼の思いはヨーカに伝わっていたようで、


「うん、私もそう思うよ」


 今度のヨーカの笑い声には自嘲癖が溶け込んでいるように感じる。自分に影響を受けたその喋り方が、ドキッとするくらいあの少女を思い起こさせた。


 彼は無意識のうちに、ヨーカから顔を背けていた。

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