第三章 |軍神鹿島《ゲオルギウス》

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『機体が格納庫内に固定されました。神経同調を切断、巨大脳を分解します』


 その機械的アナウンスを皮切りに、鹿島康徳の九十メートルを超える身体は不随、無感覚となる。六式建御雷において、主操縦士が単独で司るのは視聴嗅の三つの感覚のみだ。異形の巨人の身体制御は、種々の触覚の受容も含めて巨大脳での並列分散情報処理の下に行われている。巨大脳が分解されてしまえば、たとえ随意行動の全面的主導権と反射行動の半分を担う彼であっても、鋼鉄の指一本動かすことさえ出来はしない。例えるなら脊髄損傷で全身麻痺となったようなものだ。


 だが常と異なり、今日はそれから十数秒が経過しても人間としての身体感覚が戻って来なかった。副操縦士サブパイロットたちの同調切断がスムーズに行われていないのだ。そういえば、今日から部隊に新入りが来たのだったか。


 手持ち無沙汰となった康徳は、狭い格納庫内部を見下ろしている。人間より上下に十五度ばかり広い、奥行知覚の不十分な単眼の視界。身体構造と符号しない近接戦闘に不向きなその光景が、識人とは自然淘汰の産物ではないことを示唆している。十年に及ぶ搭乗歴の中で、いつしかその感覚こそが彼の環世界になっていた。


『全操縦士の同調切断が完了しました。個別接続を順次切断します。知覚変容に備えてください』


 一転、その光景はフェードアウトし、康徳は茫漠たる暗黒の中にいる。次いで聴覚と嗅覚が——これらは人間のものと大差無い——サイレンと喧騒、機械油臭を失う。


 意識が自分の肉体に戻ったのだ。喪失していた身体感覚が戻って来る。弱い重力、比較的鋭敏な温感、腕の関節数の減少、直立する姿勢、何より尾骶骨に付属した三本の刃尾の消失。


 ああ、窮屈だ。


 康徳はこの瞬間が嫌いだった。感じる窮屈さは、人間の肉体の物理的小ささ以上に心理的無力さから来るものだ。八雲宗輔はそう言っていた。それは的を射ているかもしれないが、あまり愉快な解釈ではなかった。


 無音無臭の暗黒。その中で康徳は仰臥していた。パイロットスーツ越しに背中は操縦棺コックピットの緩衝材の柔らかさを、四肢は固定具の血管を圧迫しない程度の締め付けを、頭部は同調ヘルメットの存在を感じている。


 何分か知れない沈黙の後、ようやく外部からの刺激が来た。操縦棺の密閉が解除されるプシューという音。暗闇に外部からの光が差し込んで来た。


 意識には三十分ぶりだが肉体には三時間ぶりの光に、康徳は反射的に眼を細めた。やがて光に慣れ、視界が回復する。


 眼前に開いた気密式ドアの向こう。パイプや照明が並ぶ格納庫の天井が十メートルほど先に見え、その手前に数人の人影が操縦棺を囲んで立っている。皆、作業着に身を包み、防患隊式の敬礼で鹿島を出迎えていた。


「お疲れ様です、鹿島特佐!」


 そのうちの一人、齢四十の日焼けした男が野太い声を挙げる。鹿島の所属する破龍部隊では最古参の整備士メカニックだ。階級は一等防患尉。破龍部隊長の鹿島にとって直属の部下に当たる。


 彼ら整備士たちは鹿島のパイロットスーツに繋がれた固定具、機具を手際良く外していく。自由の身になった鹿島は操縦棺から身を起こし、無骨なスチールの足場に降り立った。変わらず敬礼の姿勢を取り続ける彼らに答礼し、無言で正面へ向かう。


 東京大防患地区、市ヶ谷地下第三十一から第十一階層。防患隊基地の二十一階層分をぶち抜いた広大な一画として、建御雷の本拠地たる第一格納庫は存在する。今、康徳が歩くのは最上部に近い第十四階層だ。というのも、彼の入る操縦棺は建御雷の素体となった識人の第一脳と同じ位置——つまり人間の脳と同じく頭部に存在するからだ。


 振り向けば、銀白色の巨大な、爬虫類を思わせる後頭部が見える。左右の手摺りの向こう側には円筒形の内壁と、それに沿って設けられた通路や照明の数々が眼下九十メートルに渡って存在し、豆粒のような人間が忙しなく行き来している。


 通路の奥まった場所にあるエレベーターに乗り、康徳は二十三階層へ向かう。操縦士専用のエレベーターは途中で停止することなく、迅速に彼を目的地へ運んだ。ドアが開くと通路を超えた向こうに建御雷のビルの如き大腿部と刃尾の一本がある。それを左手に眺めながら格納庫壁面の通路を半周し、機体正面付近へ。多関節を備えた二本の長大な腕が垂れ下がっているのを背後に、自動ドアから格納庫外へ出た。


 そこにあるのもまた通路だ。幅五メートル程の空間が一直線に遥か向こうまで伸び、ところどころで部屋や細い通路と接続している。標識も地図も見当たらないそこを行く康徳の足取りに迷いは無い。十年来の操縦士生活で、我が家のように、否、掛け値なくそれ以上に親しんだ基地だ。


 機器を満載した台車を押す補給士サプライ、高度に専門的な歩き話に興じる白衣の男達、稀に混じる戦闘服を着た支援士サポート。皆、康徳に気付くと各々の方法で挨拶をして道を譲る。彼に話しかける者はいない。人混みを進む彼の先に自然と道が開けるその光景は、どこか神話めいていた。


 だが、現代の英雄に気安く接する者も、まだいないでもない。


「お疲れさん、鹿島」


 その男は背後から早歩きで康徳に追い付き、バシッと一発、彼の背中に喝を入れた。並んで歩く康徳と同じく、身体のラインが浮き出るパイロットスーツを着ているが、その体躯は二回り以上も大きく、筋肉の鎧は首回りまでも太くしている。


「今回も楽勝だったじゃないか。楽勝すぎて困っちまう程だなぁ、おい?」


 巨漢は賀本寛かもとゆたか准特佐。建御雷の副操縦士長チーフサブパイロットだ。階級においては康徳の一つ下に当たるも、建御雷の操縦士の中では、彼を除けば唯一の一式時代からの現役である。その賀本の防患隊員らしからぬ——というより明確に規律に反した——砕けた口調に、康徳は一切気を悪くしない。康徳が気にしない以上、賀本に注意する者がいる筈もなかった。


「識人を圧倒して勝てるのならば、それに越したことは無い。我々の背後には東京都民八百万どころか、関東全域三千万の人命があることを忘れるな。戦闘にスリルや手応えを求めるのは、自殺的というよりは大量殺人的だ。新宿を繰り返すつもりか」


「ブレねぇ奴だ。だがな、俺達があまりにも軽々と事態を終息させちまうもんだから、役人連中も重たい尻を上げる気にならないんじゃねぇのか? 新宿自体をどうにかしねぇとイタチごっこだ」


「それを判断するのは政治家と役人だろう。俺達の仕事は破龍兵装でもって東京に現れた識人を迅速に、確実に殲滅することだ。それ以上でも、それ以下でもない」


「ああそうかもな。だが、だからってボケっと限界を待つつもりか? このままじゃジリ貧だし、いつか破綻するのは間違いない」


 岩のような手で鼻の下を擦りながら、


「いくらお前が無敵の軍神サマでもな」


 茶化すような口振りだったが、そこにあるのは純粋な労いと心配の気配だった。賀本は最も長く、最も近い場所から主操縦士としての康徳を見て来た。


 だから彼には分かってしまう。軍神と畏怖される康徳も人間なのであり、これで今年九回目となる過剰な出動は、確実に彼の心身を消耗させていた。たとえ自覚が無くとも。


 戦闘中は巨大脳に自我を埋没させる副操縦士と比べ、脳の中核として意識的に機体制御を行う主操縦士の負担——特に緊張から来る心理的ストレス——は凄まじい。賀本でさえ、最近は頭痛薬が無ければ眠れない日が多々ある。ならば康徳は……。


「問題は無い。何のために、こうして帰投直後にまでバイタルチェックを受けに行っているんだ。隔日検診も、な。衛生科に信を置くならば、全ての数値に異常無しだ」


 康徳の答えには取り付く島も無かった。これも十年来のことだ。賀本は何か言おうとしかけ、結局やめた。


「そりゃ結構なことだ。俺は筋肉が少し落ちたらしくてかなり参っていたんだが。歳かねぇ……おっと」


 おもむろに賀本は足を止め、康徳と共に歩いて来た長い通路を振り返った。人混みの中を、こちらへ駆け足で来る人影がある。二人に追い付くと、やはりパイロットスーツに身を包んだ彼女は、背筋を伸ばして少し張り切り過ぎの敬礼を行なった。


「お疲れ様です、鹿島隊長、賀本副長! そしてお初にお目に掛かります、鹿島隊長。一昨日付けで本第一破龍部隊に配属されました、曽木美花そぎみはな特尉であります」


 若い女性士官だった。防患大からの新任組に共通する希望と矜恃に満ちた精悍な顔立ちは、初めての実戦経験直後の高揚と、伝説の操縦士を前にした緊張で奇妙な表情の均衡を保っている。


「あーいいよ、いいよ。仕事終わったばかりだってのに、そんなかしこまらんで。楽にして」


「はっ!」


 両手を背後へ回し、両脚を肩幅に広げて休めの姿勢を取る曽木。そういう意味じゃないんだが……と言いつつ、賀本は康徳に彼女を紹介する。


「お前は顔合わせがまだだったな。我々の部隊に新たに加わった曽木くんだ。西の大学の……首席だっけ?」


「次席です、副長」


「そうそう、次席卒業の期待の新星だ。白崎の後任として第一刃尾の付け根と左下半身を分担する。奴がぶっ倒れちまったんで、卒業後実地研修は繰り上げてウチに来ることになった。二週間前に卒業、三日前に航空交通隊に東京へ送られて来て、模擬同調も無しにさっきのがぶっつけ初実戦だったが……すこぶる優秀だ」


 賀本の饒舌を聞きつつ、康徳はいつもの鉄面皮で曽木を見つめていた。職業軍人の境地のような威圧感に、大阪防患大学次席卒業の若きエリートは生唾を飲む。彼女には永遠にも思える数秒が過ぎて、


「初めての実戦はどうだった」


 康徳は素っ気なく言った。弾かれるように、曽木は若干上擦った声で答える。


「はっ! 賀本副長のお言葉は光栄ですが、小官としては数多くの過失を犯し、部隊に多大な損害を与えたことを猛省するばかりであります。記憶にある限りでは、出撃直後のものを含め一秒以上の反応遅延が四度、同調撹乱が二度、反射的自我再構築が三度です」


 神経同調による副操縦士の自我の埋没とは、彼らの意識のいくらかが境界を失い、主操縦士と機体の間の動作・感覚翻訳装置マルチ・トランスレーターと化すということだ。故に、戦闘中に曽木が経験したことは賀本も経験している。二つの経験は同一だ。


 しかし、完全に境界を抹消すれば戦闘後も自我を取り戻せない。同調切断後に個々人の意識へとまた分解出来るよう、巨大脳は完全単一色というよりはグラデーションを持った複合体として組み上げられている。グラデーション内の漠然とした一つの色が、一人の副操縦士の自我の濃度が高い部分に、そしてその副操縦士の担当する機体部位に相当する。


 同調切断後、副操縦士達は再度画定された自我をもとに、戦闘中の自分と他者の経験を遡及的に区別する。巨大脳だったときは誰のものか不明瞭だった体験から、事後的に自分のものが承認される。


 とはいえ、そのプロセスにも限界がある。そもそも人間の記憶自体が非常に可変的で脆い。目覚めた直後から把握している夢の筋書きが変容していくように、同調下での経験は片端から輪郭が曖昧になっていく。


 それをこうも自信を持って、この解像度で即答出来るとは。賀本は口笛を吹きそうになった。自分くらい経験を積んだ副操縦士ならばともかく、彼女はこれが初実戦の新米だ。しかも、賀本の把握する他者経験に照らし合わせる限り、彼女の報告は正確である。非凡なセンスと向上心の為せる芸当と言わざるを得ない。


「最初にしては上出来だ。自分でそこまで把握しているのならば、私から言うことは何も無い。今日はもう心身の休息に注力すること。明日から模擬同調と仮装戦闘を始める」


「はいっ!」


 康徳の言葉を聞くうちに、曽木の顔には見る見る歓喜と達成感が満ち溢れた。目を輝かせ、通路に反響する返事をし、一転、休めから気をつけの姿勢を取る。教科書めいた敬礼を行い、


「失礼します」


 通路の奥へ遠ざかっていく後ろ姿を見送り、賀本は笑い声を上げる。


「防患大出身者はどうもカタッ苦しくていけないねぇ。能力は申し分ないんだが……。まぁ、自衛官出身者あんたほどじゃないが」


 そう呟く賀本自身は、筋骨隆々の体格に似合わず純粋技術畑出身の人間だ。元々軍属ですらない彼が副操縦士長を務めているのは、破龍兵装黎明時代の奇妙な名残としか言いようがない。


 康徳は取り合うことなく歩みを進める。もっとも、向かう先は曽木、賀本と同じ。皆、出動後に義務付けられた一連のバイタルチェックを受けにいくのだ。


「どうだ? 優秀だろう、曽木は。だがな、アレだけ優秀な新人が、ぞろぞろ転がっているわけじゃない。今回はたまたまどうにかなったんだ」


 極度の精神疲労で同調後遺症を発症した白崎副操縦士。これ以上の同調は不可能となった彼の後任が、今回はたまたま存在しただけだ。次、同じ事態が起きたとき。そして後任が見つかる前に識人が出現したとき。関東全域にあと二つ、房総と横須賀にしか無い破龍兵装のどちらかが、手遅れになる前に到着する保証はあるのか?


「百歩譲ってお前は良しとしよう。けれど、はっきり言って部隊の他の連中はもう限界だ。数値の上で異常が無くても……徒労感を数値化できる指標は無い。一度立ち止まったら、終(しま)いだ。白崎みたいに真っ逆さまさ」


 変わらぬ歩幅で先行する康徳。賀本は速足で彼の背中に追い付き、その肩に大きな手を掛け、振り向かせた。軍神は、どこまでも平静で無表情だった。


「お前が声を上げてくれなきゃどうにもならないんだ。俺は所詮、一操縦士。防患大も防衛大も出てない、防患隊員のなり損ないさ。けど、お前は違う。お前なら、英雄鹿島康徳なら、政府の重いケツを蹴り上げることだって出来る筈なんだ」


 楽天的でおどけた彼には珍しい、心の底から懇願する声。正面から見つめ合う第一破龍部隊の隊長と副長を、道行く職員たちが遠巻きにしながら眺めていた。


「……そうだな。善処しよう」


 絞り出されたという風でもない、平板な声。その裏にあるものを、賀本は見通せない。だが、それで問題は無かった。十年間そうして来たのだし、何より鹿島康徳という男が虚言を吐くことはないのだから。


「そうかい……。ま、頼むぜ」


 賀本の口調は常のそれに戻っていた。安堵と疲労の混ざり合った溜息をつき、大きく伸びをした。


「あー疲れた。さっさと検診を終わらせて寝たいもんだ。……おっと、そうそう」


 歩み去る直前、彼は思い出したように背中越しに告げた。


「八雲博士がお前を探していたらしいぞ」

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