2
落ち着いたBGM、快適な空調設備、リラックス効果をもたらす柔らかい照明。それら贅沢品を一気に剥奪され、空間は無機質なものへと変貌する。史哉は食堂から通路へ出ていた。
コートのポケットに手を突っ込み、大学区画の外側を目指す。授業時間真っ只中の通路を歩く生徒は少ない。
一から人間の手で作り上げられたこの迷宮は、無目的、不合理なものを許さない。食堂の機能が防患大生へ憩いの場を提供することなら、この通路の機能は人の移動の媒介だ。装飾は一切必要無い。何らかの機能に特化した無数の部屋と、それを繋ぐ幾本もの寒い通路。史哉の慣れ親しんだ世界。
慣れ親しみすぎて忘れかけていたが、この空間は異常だ。人の生活環境とは、本来これほど徹底的に無駄を排除してはいない。法の統制の下、なお抑えきれない人間の欲と意思が、多少なりとも不合理を孕んだ街を作り上げる。その上に人間の営為と時間が堆積し、ようやく乱雑な都市空間を完成させる。
ならばそこから法が失われればどうなるか。無限に生成され濃度を高めていく混沌が、一つの都市の外へ溢れ出すことになるのだ。それこそ、防患隊の最高戦力さえ追い詰め得るような混沌が。その氾濫を決定的なものとするため、史哉は今、以前から取り付けていた約束の場所へ向かっている。
学生証で認証ゲートを抜け、広大な空間へ至る。迷宮線防患大中駅。時間帯故に人影のほぼ無いそこを真っ直ぐ行き、白く小さな四輪の車両へ身を滑り込ませた。
目的地を入力して幾つかの特殊な操作を行うと、慣性を感じさせない繊細さで伽藍堂の景色が背後へ流れていく。それを眺めるともなく眺めながら、史哉は呟いた。
「利己的だな……」
思い出すのは別れ際の友人たちの呆気に取られた表情。当然だろう。自分でもあんなに口が動くとは思ってもいなかったのだから。あれは対話というより反射的な独言で、そんなものが飛び出してしまう程にさっきの彼は動揺していた。
その動揺の根源を探っていくと、一つの事実に行き当たる。彼に似合わない感情的な言葉の原因は、英雄と祭り上げられた父の存在ではない。そんなものにはもう慣れた。
あのとき、彼は新宿が総合防患の対象になったという事実によって動揺していた。
何故か? 単純だ。新宿に防患隊の手が本格的に及べばヨーカの存在が明らかとなるから。彼の荒唐無稽な計画も破綻してしまうから。
つまり、彼は新宿の復帰に向けた動きを間違い無く拒絶し、否定したのだ。あのスラムの数十万の人命より計画を上位に置いていた。
今更といえば今更だ。まさか気付いていなかったわけでもない。だが、反射に近い言動となって飛び出したエゴの強さと向き合えば、
「はは……笑ってしまうな」
自嘲の声が溢れる。新宿の惨状も、そこに住む人間も、今から会う相手も、そして自分を慕ってくれる識人病の少女も。全部自分の都合で利用して、それを自覚してもやはり自分は止まらないだろう。
「血は争えない、か」
過去に縛られて識人を殺し続ける英雄と、やはり過去に縛られて英雄を殺そうとする息子と。周囲を考慮していないという点で、二つの生き様は相似形だ。無論、前者は結果として社会に利するのに対し、後者の立ち位置が真逆だという事実を無視するほど、彼も幼くはなかったが。いずれにせよ、
「もう、戻る気はないからな」
独白は意思の再確認ではなく、鼓舞だった。呼応するように機械的なアナウンスが響き、車両が停止する。彼は目的地に立った。
「いつも時間に正確だね、鹿島くん。親御さん譲りかい?」
「当然のことでしょう。住民IDに対して発行された迷宮線の既定コースで来たんですから。タッチパネルで教授の指示通りの操作を行うだけなら園児でも出来ますよ」
青白い蛍光灯に照らされた狭いロータリーには、史哉が乗って来たものの他に五、六台の自動四輪が並ぶ。総数一万台に及ぶこの迷宮内唯一の公共交通設備。それを集中的に管理する中央処理装置もまた、ここにある筈だ。
「貴重な体験だったろう?」
「ええ、まあ。楽しい経験とは言い難いですが。移動自体はいつもと変わらない迷宮の風景ですし、通ったことのない通路を二、三度過ぎただけでもうどの辺りを走っているか分からない」
「おや、僕を疑っているのかい?」
「現実感はありませんね」
史哉の眼前、認証機を備えた両開きの自動ドアを背にして、白衣の痩身が愉快そうに笑った。
「信用して欲しいな。ここは市ヶ谷だよ……まぁ時間が惜しい。立ち話に興じている暇は無いのでね」
そうして史哉に背を向ける。一本に縛った長髪が白衣の上で揺れている。彼、八雲宗輔は認証機に掌を押しつけながら言った。
「ようこそ、技研第一研究所へ」
ドアは音も無く左右に開く。八雲に続いてその内側へ移動すると、狭苦しい四畳程度のスペースに出る。八雲が天井付近にあるカメラへ顔を向けると、空間全体が僅かな浮遊感と駆動音に包まれた。虹彩認証式エレベーターだ。
僅か数秒でエレベーターは停止する。ドアが開くと、そこはもう研究と開発の場だった。
清潔感のある白を基調とする広い廊下。壁は所々でホワイトボードやアクリル樹脂となっており、殴り書きされた数式や様々な装置の並ぶ部屋の光景で施設の性格を主張する。行き交う人々は大抵八雲と同じ白衣か作業着で、スーツ姿が無いのはここがまさしく現場だからだろう。
八雲に先導されながら、史哉は初めて足を踏み入れるそこを見物する。工学部生相応に、彼の胸は高鳴っていた。
「応接間もロビーも無くて申し訳ない。さっきのは研究員用の裏口みたいなものでね。一応、局長に頼んで上にも話は通してあるんだが、流石に局の公式な部外者案内ではなく僕の裁量ということになっている。だから表玄関は使えない」
「確かに、仮にも防患隊の施設にしてはあまりに警備が手薄だとは思っていましたが……」
「利便性を重視した秘匿通路さ。迷宮線がここで完全に管理されている以上、一般人は何があっても迷い込めさえしない」
それに、と史哉は思う。大防患地区中にいるという時点で最低限の身分証明は済んでいるのだから。余分な詰め所を置くゆとりは無いのだろう。空間不足で常に拡大を続けるこの迷宮の合理性は、ここにも姿を見せていた。
「ま、要するに文字通り裏口入局ってことだよ。友人達には内緒にしているかい?」
「ええ、勿論。でも、よく許可されましたね」
言いつつ、史哉は周囲に目を配る。他の研究員達は彼の方へ物珍しげな視線を向けつつ、しかし誰も表立って抗議や非難の声を上げたりはしない。ホワイトボードや立ち話での議論は、流石に専門性が高過ぎて容易に理解することは出来なかった。
「君は優秀だからね。是非うちに呼びたいのさ」
「今のうちに唾をつけておく、と?」
「そういうことだ。防患大工学部の卒業生は引く手数多。技研の中だけでもうちを含めて四つのセクションがある。一年生ならこれからの専攻次第で自衛隊の方にだって行けるし、防
とはいえ、その言葉は半分以上誇張だろう。史哉の破龍兵装への興味偏重は八雲のよく知るところであり、日本の技研はそれを最も満たし得る環境の一つだからだ。
結局、史哉は八雲の個人的な罪悪感につけ込んだのだ。日頃のゼミや授業後の時間で作った関係と自分の立場を確信的に利用し、今、彼はここにいる。当然、八雲も史哉も表立ってはそんな素振りも見せない。
「あまり良いことじゃないけれど、多少の無理は僕なら押し通せる。しかも君が鹿島特佐のお子さんで、その特佐自身が僕の意見に積極的に賛同したとなれば、まぁ上も無碍には出来ないね」
「……え」
思わず声が漏れる。それは、あまりに予想外の事実に対して。鹿島康徳が、息子に全く興味を持たないあの男が、この行動に否定も賛成しないのではなく、積極的に賛成?
「特に今は、上も鹿島特佐の機嫌を損ねたくはないだろうし……おっと、今のは忘れてくれ」
八雲は振り返って笑みを浮かべ、戯けた調子で言ってみせた。だが、史哉の耳にその言葉は半分も入っていない。
「だから、礼を言うなら親御さんにどうぞ。ま、君の目的が目的だったってのもあるけどね。……建御雷の取り扱いに関して、特佐の発言力は特権的なものがあると言って良い。普通の破龍兵装に対する操縦士のそれ以上にね。だから君が建御雷を見学したいと言い、特佐が賛成した以上、誰も反対することは出来ないさ」
職権濫用の感が無いでもないが、と続ける八雲に対し、史哉はようやく我に帰って声を上げた。
「あの」
前を行く白衣の後ろ姿は足と独白を止めて振り返る。いつの間にか二人は通路の突き当たりに差し掛かっており、業務用の三つのエレベーター扉が並ぶ前で向かい合って立つことになる。八雲の顔に浮かぶのは、彼らしからぬ無表情。
「父は……父は、何か言っていましたか」
家族のことについて、と続けるつもりだった言葉は曖昧に濁って掠れた。久し振りにあの男を父と呼んだ違和感が、最後まで言い切ることを許さなかった。
「君が自分を憎んでいる、と。そう言っていたよ」
「……それだけですか」
ほんの刹那の落胆を経て、苦いような熱いようなモノが胃の底で膨らんでいくのを感じた。憎んでいる? それはそうだろう。それは単なる事実の確認だ。あまりにも自明で確認するに値しない事実だ。何を今更。
史哉は両手を色白む程握りしめ、奥歯が軋む程に相貌を歪めていた。それは激情の噴出から来た無意識の行動。だが、対面する八雲は当然それに気付き、無表情を一転、困惑するような、あるいは少し決まりが悪いような表情を浮かべた。
「僕が横車を押したのは、何もスカウトのためだけじゃないんだ。いや、間接的にはそういうことになるのかもしれないが」
八雲は一度口をつぐみ、顎に手をやって思案する。どう言ったら良いものか、と前置きし、
「何を今更と思うだろう。僕だって思っている。……勿論、罪滅ぼしだなんて大それたことを言うつもりはないし、何より僕にとっての罪滅ぼしは君に同情することじゃない。だから、確認だけさせて欲しいんだ」
鹿島くん、と、授業中と同じような気軽さと、見たことのない複雑な表情で、
「僕を憎んでいるかい。お父さんに対するのと同じように」
そのあまりに率直な言い草に、史哉は一瞬虚を突かれる。しかし、その後にやって来たのは寧ろ一周回ったおかしさ。きっと、どう答えても教授は自分なりに消化してしまうのだろう。
でも、たとえ歯に衣着せぬ物言いでも、向き合ってくれるだけマシに思えた。
だから史哉も無遠慮に答えた。
「ええ、それ相応に」
「そうかい」
たった一言、それだけ呟くと八雲は再び史哉に背を向けた。その表情は、もはや彼の方からは窺えない。ただ、声音は振り返る前と変わらず、朗らかに雑談の続きをするような調子だった。
「さて、このエレベーターを抜けるともう第一格納庫だ。お望み通り、建御雷を見せてあげよう。僕の作業場からということになるが、全方位式のモニターもある。質問にも可能な限り答えよう」
史哉もまた、先程までと変わらない調子で告げた。
「ありがとうございます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます