3

 光一筋さえ差さない暗闇の中、ヨーカの意識は微睡みから浮上した。前に眠ったのはいつだったか。どのくらい時間が経ったのか。前に起きたのは史哉が訪ねて来たときだったから……、いや、あれは前の前に起きたときだったか。


 外出を完全に絶った彼女が時間感覚を喪失して久しい。食事が必要無くなった時点で彼女のバイオリズムは相当人間離れしたものになっていたが、ここ最近の身体の変調が始まって以降、そのリズムさえ失われてしまった。断続的に襲い来る意識の切断と突然の覚醒。その感覚もどんどん長くなりつつある——筈だと史哉は言っていた——から、時間の把握など出来る訳もない。


 ——ん、もう流石にここも窮屈になって来たかな。


 左右で四対、計八本ある関節肢のうち比較的使い慣れている最前肢で壁を引っ掻きつつ独り言つ。否、発したつもりの声は腹部の気門から湿った空気として漏れ出て、声帯に繋がらない口器だけがガシャガシャと無機質な音を立てた。


 ——なかなか慣れないなぁ。むちゃくちゃなスピードで身体が変形、巨大化しているから仕方ないって史哉は言っていたけれど、大丈夫なのかな。


 一日につき平均三百キロの割合で巨大化するヨーカの身体は、既に住み慣れた地下駐車場の半分以上を占領している。人間と識人の身体的特徴が半々で混じり合って安定する第二病期を三ヶ月半で脱し、彼女の身体は識人病の第三病期に入っていた。


 つまり、明らかに質量保存則を無視した急激な身体膨張と変態の時期だ。


 識人としての身体が急速形成される一方、目まぐるしく変化する身体感覚に脳が処理オーバーを起こし、断続的な気絶と覚醒を繰り返す。そうして患者の意識は識人の身体に最適なものに変容する。しかし当然、移動もままならない状態であり、患者本人にとっては最も無防備な時期と言えた。


 ——ま、出来ることが待つことくらいしか無いのは、今までと変わらないんだけれど。

 待つことと、想うことだ。


 いつだってそうだった。半年以上前のあの日から。


 自分は、いつも彼が来るのを待って、想って、来たらあの少し毒のある饒舌に耳を傾けていた。自分の病気のことも、破龍兵装のことも、防患隊のことも何一つ知らなかった自分に全部教えてくれた。いつか識人になると分かっている自分に、識人に全てを奪われた自分に。


 ヨーカは大顎型の口器を開閉して音を立て、クチクラ質の甲殻に包まれた細長い腹部を蠕動させる。狭い駐車場内で反響した音が、【鼓膜を持っていた頃のような音とは異なる空気の振動】として触角基部の器官で知覚される。この振動がヨーカの身体とその周囲の物体の形として、視覚とは異なった意味を形成する独特の感覚。気絶と覚醒のサイクルを繰り返すごとに、この一連の翻訳作業はよりスムーズかつ正確にできるようになっていった。


 ——もう一回。


 無機質な音が響き渡る。


 ——あっ。


 思わず声を、気門からの蒸気として上げる。初めて鮮明に見えたのだ。


 目が人間のレンズ眼としてまともに機能していた頃は、視覚をこの感覚で補助することで暗闇でも生活出来た。しかし、第三病期に入った直後に彼女の視力もまた極端に変容し——史哉曰く複眼になり——、少なくとも暗闇で目を凝らすのには役立たなくなった。


 そして今、ヨーカは変容以来初めて自分の身体を知覚した。


 ——うわぁ。覚悟はしているつもりだったけれど、結構来るなあこれ。もう少し可愛らしい姿が良かったよ。


 心の中で呟いてみるが、実際に動揺が広がるような感じはしない。覚悟が出来ていたということなのか、精神まで昆虫めいてしまったのか、自分では判別がつかない。


 ——でも、史哉の言っていた通り。本当に似ないものなんだなあ。……親子なのに。


 六年前、あの埒外に巨大で獰猛なバラとして咲き誇った母親の面影を、彼女は自分の中に見つけ出すことが出来ない。当然だ。識人病は遺伝子に左右される類の疾病ではないのだから。


 一度思い出してしまうと止まらない。だから、普段はなるべく考えないようにしていたのに。


 ある日を境に、突然植物の芽や花のようなものが身体中から溢れ始めた母。父と兄と三人で母の身に起きた異変を隠し続けたあの日々。


 けれど全ては無駄で、ただ問題を余計に重大な形で先送りにしただけだった。家族全員で必死に生き延びさせようとした母は、生き延びて巨大なバラ型の識人となり、当然のように処理された。


 今でも時々夢の中で見る光景。切り裂かれ、引き千切られ、痛々しい声を上げながらバラバラになっていく母の姿。そして、三本の鋭利な尾と腕のブレードを振るう、銀白色の異形の巨人の姿。あの破龍兵装が彼女から奪って行ったのは母だけではなかった。戦闘中、刃尾の一本が跳ね飛ばした建物の一枚屋根が、避難していた彼女の目の前に、丁度父と兄の姿があった場所に落ちて来た。ありふれた、識人鎮圧作戦中の人的被害。


 分かっている。全部自分達家族のエゴが招いた結末で、しかもそのせいで死んだのは兄と父だけではないことは。自分達のしたことは決して許されることでも、正当なことでもない。だからあの鹿島康徳という操縦士が母を殺して英雄として扱われるのも、きっと真っ当なことなんだろう。でも、でも、


 ——じゃあ、お母さんは黙って防患隊に身を差し出せば良かったのかな。黙って死ねば、みんなもう少し幸せだったのかな。


 識人病に治療方法は無い。防患隊に罹患者が身を差し出すというのは事実上の死を選ぶということ。


 それは六年前も今も変わらない。それが患者本人以外にとって最善の選択肢である事実も変わらない。


 ——私、これからまた同じことしようとしているんだ。


 だが、思いはすぐに他でもない自分自身が否定してしまう。


 それは嘘だ。だって、今度は誰かに生きてもらうためじゃなくて、誰かに死んでもらうためなんだから。言い訳も出来ないくらいに、悪。


 鬱屈した気分を晴らそうと、ヨーカは八本の関節肢を動かそうとする。両手が変形した最前列の二本、両脚が変形した最後列の二本は難なく動く。しかし、その間に並ぶ四本は、まだ彼女の身体の一部にはなりきっていないのか微動だにしない。無理に動かそうとし過ぎて疲れたのか、急速な眠気がやって来た。意識を手放そうとしたそのとき、


 ——!!


 突如の轟音と激震。この身体になってから初めて感じる感覚器への暴力に、一瞬、思考回路がフリーズする。聴覚と触覚に依存する今の彼女にとって、それはスタングレネードに似た衝撃だった。数秒遅れて、ようやく状況を理解する。それは、人間として新宿に住んでから何度も聞いた同類の目覚めの大音響。


 ——ああ、また先越されちゃったか。

 そのまま、再びヨーカは眠気に身を委ねた。眠りに落ちる直前、彼女は曖昧な意識で人語になり得ない呟きを漏らした。


 ——間に合うかな……お兄ちゃん。


 暗闇の一隅。砂埃をかぶった缶詰とコートが、断続的な地鳴りに合わせて振動していた。

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