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 暗く窮屈だが、背面緩衝材の心地よい柔らかさに包まれた操縦棺内部。固定具の締め付けをパイロットスーツ越しに感じながら、鹿島康徳は仰向けとなり、無心で精神を統一していた。


 ルーチンワークと化した簡易操縦棺での仮想戦闘訓練の最中に識人出現の警報を受け、実戦用のパイロットスーツに着替えて第一格納庫へ駆け付けるまでで十五分。移動の合間に基地内緊急放送と支援士から得た情報によると、また新宿らしい。


『間の悪いこったな。総合防患が閣議決定されたばかりだってのによ』


 見透かしたかのように賀本寛からの通信が入る。十六人の副操縦士を束ねる長である彼は、刃尾付け根の第二操縦棺に収まって康徳と同様に待機している筈だ。


「実施が決定したからといって即日実施は不可能なのが現代行政だ。識人出現に備えて税金で飯を食っているのが俺たちだ」


『ブレねえな。軍人は無駄飯食らいであるうちが華だろう?』


「少なくともこの二十年、この国で軍人が無駄飯食らいだったことなど一度も無いが、な」


『嘆かわしいことだ。せいぜい気張るとするかね。新宿のスラム街で大暴れするのもこれが最後だと信じたいが。……おっと支援科からの詳細が入った』


 仰向けの鹿島の目前、操縦棺の蓋と呼ばれるディスプレイに、軍用ヘリで偵察に向かった支援科所属の先行部隊と解析班からの情報が表示される。


「頭部と胴体、対腕対脚を備えた直立二足歩行の準人型。推定の体高は約四十八メートル、体重は二二〇〇トン……随分と軽い見積もりだが」


『画像を見てみろ。もやしっ子だよ。飛翔型じゃあないようだが、こりゃ足が速そうだ。初期虚脱を抜ける前にさっさと現場に到着出来なきゃ、もし市街地を走って逃亡でもされれば面倒なことになるかもしれん。もちろん、最悪なのはこいつの狙いが無分別な虐殺ってケースだが』


 いわゆる識人とは正式には第四病期到達患者を指す。第三病期を終えると、異常活性と呼ばれる身体組織の全体的かつ爆発的巨大化の症状が現れる。都市部のど真ん中に巨大な識人が突如出現するのは、これが数分で一気に進行するためだ。だが、巨大化した患者はそのショックで一時的な虚脱状態に陥る。この初期虚脱時にどれだけ手を打てるかが、識人災害の被害を抑える要となる。


「近隣住民の避難は」


『渋谷から品川、新橋辺りまで、奴さんの逃亡ルートはいつも通りに人払いを始めてるとさ。慣れたもんだよ、まったく』


 そこまで聞いて、康徳は通信を副官である賀本との一対一から全操縦士向けの回線へ切り替えた。彼と賀本を含め十八名の操縦士は、既に全員が建御雷の全身に散在する操縦棺へ搭乗している。


「速攻で決めるつもりだが、万が一逃げられたら相当シビアな鬼ごっこになる。下半身組は、慣れない持久走に挑む可能性も念頭において翻訳に当たってくれ」


 該当する隊員から返事を受け取りつつ、康徳は先程の賀本の言葉を反芻していた。万事上手く運べば、これが新宿で行う最後の戦闘になるかもしれない。


 ならば、何かそれらしいことを言うべきだろうか。


「……この一年半、隊員諸君には相当な無理を強いてきたと思う。これが我々の、少なくとも新宿における一連の戦闘の最後になる筈だ」


 だから、と口に出して、何と締めるべきか数秒だけ迷い、


「……気を抜かずに取り組んで欲しい」


『はいっ!』


 重なって聞こえる十七つの気魄に満ちた肯定の声。康徳はそれに対し僅かに肩の荷が降りるような心地を覚えた。


「武運を」


 その一言で通信を終了する。だが、彼が最も信頼を置く副官はすかさず個別回線で接続して来た。


『ハハハ、慣れないことしやがって。無駄を嫌う軍神様も焼きが回ったか?』


「…………」


『おいおい、そんな顔すんな。ちょっと楽しくなっただけださ』


「……棺桶同士の通信は音声のみの筈だが」

『見なくたって分かる。何年の付き合いだと思ってやがる。だからこそ、あんたにも隊員への思い遣りが芽生えて来たことに涙を溢さずにはいられないってわけよ』


 康徳は溜息をつく。固定具さえ無ければこめかみを押さえていたところかもしれない。


「無駄口を叩くために通信を繋いできたのか? さっさと神経同調に入れ。時間が無い」


『悪いな。性分でね。……一つだけ確認しておきたい』


 そう切り出した賀本の声は、ひょうきんさの裏に滲み出すような真剣味を持った独特のもの。付き合いが長いからこそ、康徳には既に賀本が言わんとすることが予想出来た。


『あんたの死龍憑きの症状が悪化しているかもしれないと、八雲博士が言っていた。俺はあんたを信用しちゃいるが、それでも確認させてくれ。……本当に大丈夫なんだな?』


「ああ。抑制剤は飲んでいるし、戦闘で昂ぶれば変な方向に神経が飛ぶこともない。大丈夫だ」


『そうか……』


 回線の向こうの賀本はまだ何か言いたげな雰囲気ではあったが、やがて諦めたかのように通信を切った。


「—————」


 再び、操縦棺内は一寸先も見えない暗闇となる。賀本率いる副操縦士達は建御雷に搭載されたヤクモシステムに基づき、互いの神経を同調させて一つの巨大脳を形成している頃だろう。それまでの僅か数十秒の間、主操縦士たる彼は一人で待機しているのだが、


 ————。


 自分以外には誰もいない、物理的にいられる筈のない狭いそこで、康徳は確かに他者の気配を感じていた。


 それは視線、息遣い、体温、その他あらゆるとして提示される。無論、それが自身の精神が知覚系に投射した影に過ぎないであろうことは理解している。死龍憑きという破龍兵装操縦士特有の精神疾患の、現代科学における唯一合理的な結論がそれだ。


 だが、今日の彼女はあまりにリアルすぎた。


 彼女は一言も話さない。それが彼女の生前の性格故なのか、十年の月日で康徳が彼女の喋るところを思い出せなくなっているのか、あるいはオカルトマニアが説明するような霊魂の活動なのか、彼は知らない。いずれにせよ、それが物理的干渉を行って来ない以上、側に存在を感じつつも無視し続けて来た。一度問えば後戻りが出来なくなる気がして、もう後戻りはしないと決めていたから。


 その筈なのに。


「お前も、俺を憎んでいるのか?」


 暗闇に溢れた問は当然の如く独白となって消える。返る言葉は無く、彼女の存在感だけが変わらずそこにある。


「史哉は俺を憎んでいる。当たり前か。お前を殺したのは、史哉の目の前で殺したのは俺だ。お前はどうなんだ」


 返事は無い。しかしそれでも構わないと言うように、康徳は独白と化す問を虚空に投げ続ける。


「殺して、それだけでは飽き足らず殺させ続けて、人はその俺を英雄だと言う。お前の死体の上で数億の人命が、世界が救われて、俺は英雄になったんだ。……なあ、お前は、お前は俺を憎んでいるのか!? どうなんだ!」


『巨大脳が形成されました。主操縦士の個別接続を開始します』


 無機質な機械音声に告げられ、康徳は我に返った。呼吸が荒く、心拍数は高い。あまりにも無自覚に激昂していたのだ。


『どうした、特佐。応答しろ』


 バイタルサインの異常が検知されたのか、市ヶ谷基地の対策本部から通信が入る。その頃には彼は頭に昇った血がすっと降りていくのを感じていた。一度深呼吸をし、


「いえ、問題ありません。同調を」


 通信の相手は建御雷の運用に関し積極派の代表格として知られた防患将の一人だ。康徳の自己申告を真に受けたのではないだろうが、一瞬の間を置き、


『頼むぞ、鹿島。お前の双肩に日本がかかっている』


 耳にタコが出来る程聞き飽きた激励の言。それを皮切りに、


『知覚変容に備えてください』


 康徳の意識は体高九十メートルを超す巨人の中にある。大防患地区の二十一階層分をぶち抜いた格納庫さえ窮屈に感じ、広く立体感に乏しい視界の中では蟻のような整備士達が走り回っている。蛍光棒を用いた彼らの合図に合わせ、建御雷の身体各部に繋がれた極太の固定用牽引ワイヤーが外されていく。


 次いで、彼を包む第一格納庫の風景が徐々に沈み始めた。建御雷を載せた格納庫床部がリフトとなり、機体を地上へ運んでいるのだ。


 格納庫の天井が四つに割れて開き、高さ五メートル程の空間が新たに現れる。上昇を続ける機体が新たな天井に達するとまたそれも四つに割れ、機体は更に上昇する。五つ目の天井が割れたとき、建御雷の直上から冬の昼間の鈍い陽光が差した。


『神経同調を開始』


 その音声でようやく、康徳の意識が建御雷の身体を支配下に置いた。一二五○○トンの質量が自身のものとして、人間離れした強靭な両脚に負荷を掛ける。湾曲した背骨と多関節の腕が獣じみた姿勢を自然なものとして強いる。それらアンバランスな身体形状を、三本の長大な刃尾が自在に動いて繊細に統括し、制御する。


 首を回し、両肩を軽く上下させて同調率を確認する。知覚可能なラグはほぼ無い。鈍い温感は冬の冷気を感じず、単眼の視界は不自然な絵画のようだ。


 過去二十年の識人災害で高層建築物を失った平坦な首都地上部に、天を衝く魁夷な銀白の巨人が屹立する。


 その偉容を、防患隊員達や基地内に避難して来たスラム街住民が遠巻きに見上げている。康徳には彼ら一人一人の表情までは見えない。新宿の方へ身体を向け、先行する数台の装甲車の誘導に従いゆっくりと歩を進めた。


 防患隊基地の真上に当たるそこは、破龍兵装の操縦訓練や輸送に用いる広大な空き地となっている。都市部を移動するだけで付近に甚大な被害を及ぼしかねない破龍兵装は、通常は超大型航空輸送機十数機で目標地点まで空輸される。


 だが、基地に隣接する新宿ならば話は別だ。建御雷の歩幅は約四十メートル。市ヶ谷新宿間ならばたったの五十歩、一分足らずで移動してしまう。三本指の足が舗装路を踏むごとに、莫大質量が轟音と激震を生む。


 ——あれか。


 基地区画とフェンスで仕切られた新宿の風景。その北西側に、建御雷と似た準人型の異形がそびえ立っている。


 爬虫類めいた獰猛さを持つフォルムの建御雷と比べ、こちらは針金、あるいは枯れ柳が人型を形成したような鋭利で醜悪な外観だ。体色は深緑。節くれだった細い四肢と胴体は病的に痙攣し、蒼天を仰ぐ顔には虚ろな穴が両眼と口のように存在する。しかし、実際にあの穴が感覚器だとは限らない。


 ——まだ初期虚脱から抜け切っていないな。一気に終わらせるか。


 それまで悠然と歩いていた建御雷は一度足を止め、装甲車に散開するよう合図を送る。近隣住民の避難は出撃直後に完了していた。迎撃は原則として新渋緩衝地帯で行うが、最善策は初期虚脱のうちに殲滅することだ。

クラウチングの姿勢で力を溜め、


 ——!


 一気に突貫した。凄まじい加速度により三歩で最高速度に達し、四歩目でフェンスを飛び越え、無数のもろい劣等合成樹脂製違法バラック群を踏み潰し識人へ迫る。


 前傾姿勢のままファルメンダスト鋼のブレードを備えた右腕を下から振り抜き、枯れ枝のような体表を逆袈裟に切り裂こうとし——。


 ——クソ、目を覚ましたか!


 康徳は一切の抵抗無く空を切った右手の感覚から、目視より先に空振りを確信する。


 振り抜いた腕と伸ばした刃尾の遠心力で半回転。周囲を確認しつつ重量に見合わぬ身軽さで勢いを殺して静止する。


 だが、眼前にあるのは今しがた走破したスラムの街並みだけだ。識人の姿はどこにも見えない。


 ——上だ!


 上下に広い視界の上端が捉えた影と、歴戦の古兵の直感から反射的に一本の刃尾を振り上げた。


 金属がぶつかり合う耳障りな高音。


 今度こそ確かな手応えが伝わる。


 見上げれば機体に覆い被さる刃尾が、深緑の両腕を受け止めている。赤い単眼と虚穴の両眼が一瞬交差して、


「kgrrrrrrrr‼︎」


 カエルかコオロギを想起させる鳴き声を上げ、識人が跳び退って衝撃を殺した。中空できりもみ回転しながら奇怪な姿勢制御を見せ、建御雷の前方四○○メートルの地点に着地する。


 二体の巨人は初めて正対で向かい合った。両者の体格差が明瞭になる。識人の体高は建御雷の半分強、重量に至っては五分の一だ。だが、だからこそ機動性では近接高機動戦闘型である建御雷さえも凌駕する。


 今の一連の流れの中で、康徳は相手の戦力評価を相当高く見積もらざるを得なくなった。


 ——賀本が言っていた通り、厄介な相手だ。もし逃げの一手を打たれたら建御雷でも追い掛けるのは困難か。


 そうなれば最悪、上空で待機している防患隊の航空戦力か、横須賀の破龍兵装である綿津見が迎撃することになる。いずれにせよ、市街地への被害は避けられない。


 ——幸い、今は奴もやる気らしい。……力を得たばかりでハイになっているうちに処分してしまえれば楽なんだが。


 思案し、眼前で佇む識人を観察する。先程までのアクロバットを微塵も匂わせない直立不動が不気味だった。その内にあるはずの人間としての意思は、外部からでは特定できない。この不可視性こそが、防患隊があらゆる識人を予防的に殺し続ける理由だ。


 ——やることは常に同じか。見敵必殺、可及的速やかに。


 そして戦法もまた常に同じだ。建御雷の建御雷たる強みとは、意外な伏せ札でも一度きりの切り札でもない。ただ純粋に俊敏かつ強靭であること。それだけだ。それだけだからこそ、十年以上大破せず日本防患隊の最高戦力として君臨して来た。


 故に取る戦法も一つ。正面から圧倒し、捻じ伏せる。そのために前進せんとしたとき、


 ——何?


 視界の隅に表示された機体管制システムからの緊急信号。


『第一刃尾の神経系に異常を検知。同調を一部切断』


 意味が即座には理解出来ず、僅かな硬直が生じる。


 敵はその隙を見逃さなかった。


「kgrkrrrrrrrr‼︎」


 雄叫びを上げ、今度は識人が突進する。両腕を背後へ伸ばした歪な超前傾フォーム。


 建御雷は咄嗟に残る刃尾の片方で迎え撃つも、敏捷な識人は前方へ跳躍して回避。その刃尾と建御雷の肩部装甲を足場に三段跳びの要領で背後へと跳んだ。


 建御雷はすかさず振り返ろうとし、


 ——!?


 勢い余って右半身から盛大に転倒した。体側で大小無数のバラックを押し潰し塵芥を巻き上げる。


 その砂埃のカーテンの向こうから深緑の幽鬼の影が迫る。振り上げた両腕を横たわる建御雷に叩きつけようとし、


「kr⁉」


 横合いからぶち込まれた二発のミサイルに吹き飛ばされた。


 建御雷の背部に格納された六連装対識人小型ミサイル。転倒と同時に康徳が反射的に三発を発射し、うち二発が咄嗟の照準で識人を強襲したのだ。


 機体を起こすと、識人は瓦礫の山の上で沈黙していた。しかし、康徳は安易には追撃しない。建御雷の小型ミサイルはもっぱら牽制撹乱用の非殲滅兵器だ。いくらあの識人が相当に軽量であるとはいえ、一撃で決められるとは思えない。何より、


『異常の原因について危機対応データベースに該当例無し。第一刃尾の先端から中央部にかけて神経系の麻痺障害が発生。神経回路を一部遮断、巨大脳から第十一領域を隔離。同調を切断』


 ——麻痺障害。おそらく即効性の神経毒だ。第一刃尾ということは……。


 康徳の脳裏に第一接敵ファーストコンタクト時の光景が浮かぶ。あのとき、上空からの識人の強襲を彼は第一刃尾で受け止めた。毒棘か、あるいは毒腺か。両腕に神経毒を分泌する何らかの器官があると見て間違いない。


 表面的に機械化されているとはいえ、破龍兵装の本質は生体兵器だ。特に建御雷の刃尾は縦横無尽の動きを実現するため薄く柔軟な蛇腹装甲を用いている。毒が通用する余地は多分にあった。


 ——少なくとも戦闘中の快復は不可能だろう。


 機体に不測の事態が発生したとき、破龍兵装は該当部位の副操縦士を保護するため、巨大脳を一部だけ分解する。該当部位の神経が丸ごと消失するようなものだ。


 それは刃尾の繊細な動きで機体の重心バランスを保つ建御雷にとり、致命的問題と言えた。機動性が著しく損なわれてしまうからだ。


 ——さあ、どうする。


 思案する間に識人はのっそりと瓦礫から身を起こし、またあの直立不動の姿勢に戻った。その外観からダメージは窺えない。ブラフだったのだろう。元は喧嘩慣れした人間だったのかもしれない。


 識人による二度目の突撃。真正面からの、何の工夫も無い強襲だ。


 康徳は瞬時に見抜く。それは露骨なフェイントだ。


 故に眼前で識人が横跳びに視界から消えても狼狽しなかった。左腕を水平方向に横へ振り抜く。直後、腕側面のブレードが迫る識人の両腕と拮抗して火花を散らし、再び深緑の影が自分から宙を舞って衝撃を殺した。


 そこから戦闘は一種の平衡状態に達した。

 識人は縦横無尽に跳躍し、身を翻し、突進し、後退し、フェイントを掛ける。力に酔ったが如き過剰な立体機動だ。前後左右三六〇度、時には上方から建御雷に肉薄し神経毒を分泌する両腕を叩き付けんとする。


 対する康徳の建御雷は一箇所に止まり、全身で最も装甲の厚い両腕で正確に相手を迎え撃つ。明らかに人間の動体視力を超えた三次元の強襲を、歴戦の直感と観察眼で予測し、決して識人を寄せ付けない。


 二本の刃尾が大蛇のように自在にうねり、その慣性力で建御雷の繊細な動作を補助する。


 機体を中心に半径百メートルの半球として描かれた絶対防御圏。その内部で建御雷の銀白の巨体が回転し、何度も挑み掛かる深緑の幽鬼を膂力の差もあって的確に弾き飛ばし続ける。


 天を衝く二体の巨人が演じる死のワルツだ。


 その最中にも、機体を繰りながら康徳は冷静沈着な思考を続ける。


 管制システムが伝える腕部装甲の表面の微細な歪みの群れ。激突のたびに増えていくそれが第一刃尾を襲った毒棘の痕だろう。腕は刃尾と異なり分厚い装甲に覆われており、毒棘はその奥の生体組織までは届かない。


 ——だが、決め手を欠くのはこちらも同じ。このままではジリ貧だ。


 元より識人の機動性と反射神経が建御雷のそれを凌駕している上に、刃尾の一本を失った今の建御雷は走ることさえままならない。防戦に徹して初めて敵の侵攻を水際で食い止めているのが実情だ。


 ——刃尾での反撃は大きくバランスを崩す危険が伴うし、何よりこれ以上刃尾を失えば行動不能に陥るかもしれん。


 識人の目的はまだ不明だ。多くの場合と同様、言葉を発せない相手の目的を理解するのは不可能だろう。だが、これが大抵の患者に一般的な力に酔った衝動的な攻撃なのだとすれば、時間が経つごとに相手も我に返って逃走に移行する危険が高まる。市街での殲滅戦が最悪の展開なのは言うまでもない。


 いずれにせよ守ってばかりでは埒が明かない。康徳がその結論に辿り着いた刹那、

 ——!?


 見計ったかのように敵の行動が変化した。

 もはや一面瓦礫の山と化したスラムの跡に着地した識人は、建御雷に飛び掛からず両手を向ける。康徳の視界の中、針金のような二本の腕が、突如として風船のように大きく膨らんだ。


 ——これはまずい!


 本能的な危険を察知し夢中で飛び退る。着地して体勢を整えるより先に、


「kggrrrrr!」


 識人の両腕が爆ぜた。


 風船の破裂に似た音が響き、ほぼ同時に無数の物体が亜音速で建御雷へ射出される。


 一本が一メートル近い長さを持つ毒棘だった。生物由来とは思えぬ細さと鋭さ、強靭さの鼎立。


 破裂によって拡散したそれの飛来は点というより面の攻撃で、飛び退った分だけ建御雷の前面を広く強打した。


 ——————。


 機銃掃射を思わせる連音と衝撃。


 それを耐え忍んだ康徳が前方を確認すると、識人は依然として直立不動の姿勢にあった。だらりと下げられた両腕からは深緑色の体液がこぼれ、ズタボロになった先端部から蒸気が立ち昇っている。


 その手前、瓦礫の上に二本の刃尾が力無く横たわっていた。


 薄手の銀白色の装甲や、蛇腹構造の隙間に細く鋭利な棘が無数に突き刺さっている。その横、視界の隅に表示される管制システムからのメッセージ。


『主操縦士権限で第二、第三刃尾の神経回路を遮断、同部位の同調を切断。第十二から十五領域を巨大脳から隔離』


 識人の両腕の膨張を見たあの瞬間、どのような攻撃が来ようとも回避は不可能だと康徳は判断した。そのままでは身体前面が直撃を受けることも。


 対処方法は一つ。両刃尾を目の前で巨大な盾とすることだった。毒が回るより先に同調を切断したため、副操縦士にフィードバック負荷が掛かることはなかった筈だ。


 ——しかし……。


 凄まじい喪失感と、何より単純な身体バランスの悪化から、足下がぐらりと揺れて膝を突く。単純な歩行さえもう困難だった。


「kkkkkrrrrghrr!」


 識人が虚ろな顔を天に向け咆哮する。それは今までの興奮や怒りの発露とは異なる、明確な勝利の雄叫び。蒸気を上げる両腕を空へ突き出すと、失った筈の先端部が古い皮膚を突き破るようにして再生した。


 六式建御雷という破龍兵装への知識が無くとも、自在にうねっていた刃尾の沈黙は識人に勝利を確信させるには充分だった。


 識人は最高速度で進撃し、接敵するかなり手前で大跳躍。膝をつく建御雷へ上空から急角度で急襲を仕掛ける。


 誤魔化しもフェイントも無い、単純極まりないテレフォンパンチ。正面から狙うは爬虫類じみた巨人の顔面。そこに光る単眼。腕が迫り、迫り——。


「g」


 識人の無防備な胴体は、刃尾の真下からのカウンターをまともに食らった。


 あらゆる体組織が不可逆的に潰れ、引き千切られる不気味な音が響く。前面を強打された識人は宙高く舞い上がり、回転しながら、遠く新宿北西部のスラム街に墜落して轟音を立てる。その仰向けの身体にダメ押しとばかりに三発の対識人小型ミサイルがぶち込まれ、爆発した。


 そのまま識人は沈黙、二度と起き上がることはなかった。


 それを確認し、一本の刃尾を両腕で振り抜いた姿勢で固まっていた建御雷は、崩れ落ちるように突っ伏した。


 ——最後の最後で油断してくれて助かった。


 あまりにも際どい、運だけで拾った賭けだった。


 なまじ戦闘の素人としての人間の意識がある分、識人は最後の最後で勝利を確信し、無策な攻勢に打って出た。


 康徳はそこを突いた。


 たとえ刃尾が動かなくとも、まともに移動することが困難でも、建御雷には識人に五倍する重量がある。まともに攻撃が入ればたった一撃で勝負がつくほどの差だ。


 無防備な跳躍に合わせて両腕で持った刃尾を力の限りの膂力で振り抜く。


 それだけで激戦は決着した。


 康徳は巨体で横たわり、基地へ救援と帰投の申請を送る。今の状態では歩行での自力帰還は困難だった。超大型航空輸送機十数機から成る防患隊の輸送大隊が、破龍兵装用の牽引ワイヤーで基地上空まで空輸してくれる筈だ。


 一連の通信を終えるとドッと疲労感が押し寄せてきた。ここまで苦戦したのは何年ぶりだ。少なくとも、刃尾を三本とも使用不能に追い込まれたのは十年で初めての経験だった。


 強敵だったのは否定しない。だが、新宿防患戦に就いて既に一年半。十数度の出動を経て、軍神などと呼ばれる自分にもとうとう限界が来たのかもしれない。明確に戦友と呼べるただ二人の男たち——賀本と八雲——の幾度もの忠告を思い出し、康徳はそう思う。


 しかし、同時に彼は気付いてしまった。


 自身の胸の内に宿る戦意が、その基盤となる自責と憎悪の念が、現実を理解してもなお一切衰えていないことに。


 ——ああ、そうだ。これは、こればかりは何度識人を殺そうと消えることはない。……俺は……。


 突然、康徳の思考は中断された。彼女の気配を感じたのだ。出撃前の暗闇で傍らにいたあの気配。彼の神経を逆撫し、激昂させたあの気配だ。


 それが忽然と戻ってきたように感じたのは、戦闘の極限状態において気にならなくなっていたからか、そもそも全てが康徳の主観でしかないからか。ここ最近、彼女の気配は四六時中康徳に付き纏っている。姿は見えず声はきこえなくとも、半日以上彼女の存在を感じないことはない。死龍憑きの症状はますます酷くなるばかりだった。それにもかかわらず精神病理学上の異変が一つも数値として検出されないのは、この病が識人と同じ非合理だからだろうか。


 出撃前のような動揺は無い。建御雷と同調したままの意識で漠然と彼女の存在を感じつつ、康徳の思考はどこまでも客観的に冷えていた。


 輸送機の特徴的な起動音が、建御雷を通して耳朶を打つ。

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