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 狭苦しい通路と大小の教室が並ぶ防患大区画を抜け、五分程単調な道を行くと少し開けた地下空間に出る。二五メートル四方のその空間では、四列に並んだ防患大生達の話し声が耳障りに反響する。


 授業を終えた史哉はその最後尾に並ぶ。教科書以外のものも入れたショルダーバッグは常日頃より少し重く、肩に食い込んで痛い。それを足下に置いてから、通知バイブのうるさいフィクサフォンを取り出す。二十件近くの新着メッセージ。差出人は全て宏樹だった。


『今日の特別講義マジで凄かったな!』


『俺、感動したよ』


『今からでも将官課程に入り直そうかなぁ』


 その他、実りの無い感性的な感想が貧相な語彙力でダラダラと垂れ流されている。まったくもって不毛だ。迷惑この上ない。


 実際のところ、客観的に見て今回の講義には目新しい要素や知見など無かった。


 建御雷のスペック、ヤクモシステムの理論、巨大脳への同調感覚、識人のクオリア。どれも初歩的な話題であり、それなりに熱心な防患大生なら一年生でも知っていることだろう。宏樹はどうだか分からないが。勿論、それを操縦士の口から聞いたのは史哉にも初の体験ではあったが、それで専門書を読むより上質な知識が手に入るということはない。


 だから今回の講義の目標は、鹿島康徳という生ける伝説と触れ合わせて防患大生の意欲を向上させることだったのだろう。


 宏樹の極端な興奮ぶりを見るに、その目標は多分に達成されたと見て間違いは無さそうだが……。


『でさ、今から操縦士になるにはどうすればいいかな?』


『取り敢えず人並みの勤勉さと語彙力をつけるべきだろう』


 辛辣な助言を返すと同時に、丁度一つ前の男子生徒の姿が無くなり、史哉が列最前となった。


 彼の前に音も排気音も無く小さな白色の乗り物が滑り込んで来る。それはもう東京では見なくなって久しい自動車に似た四輪車。しかし、開いたドアの中の座席は大人が二人座れる程度の広さだ。しかも、ハンドルやアクセルは見当たらない。代わりにタッチパネル型デバイスが席の向かいに取り付けられていた。


 トーチカ唯一の公共交通機関、東京新地下鉄道だ。通称、迷宮線。完全自動運転の個人用車両で、電気を動力源とする。これも政府の地下優遇政策の賜物である。


 乗り込むと独特の芳香剤が鼻腔を満たした。タッチパネルに目的地を指定する。機械的なアナウンスに従ってシートベルトを締め、バッグを横の座席に転がすと、振動も慣性も感じさせないまま、車両は静かに走り出した。


 トーチカは各研究施設、政府機関、大企業本社等の地下設備を前身とする。それら東京地下に散在する個別の施設が迷宮線で繋がれ、世界最大の地下都市が形作られている。目につくものの無い通路を三分も走れば、史哉にはもはや自分がどの辺りにいるのか漠然としか分からない。


 役目を終えたタッチパネルには防患軍プレゼンツの車内広告が表示されている。先日の東京での対識人戦の映像とともに、破龍兵装の有益性を華々しく喧伝するそれを漫然と眺めながら、史哉の意識は思考の底に沈んでいる。


 軍神鹿島。常勝不敗。極東のゲオルギウス。救国の英雄。最古参の破龍騎兵。一割の識人を殲滅した男。


 あの男を形容し、生ける伝説とする数々の異名、称号。宏樹の崇拝に近い入れ込みぶりは例外的かもしれないが、今日の授業の雰囲気から考えるに、これら神話的修辞は鹿島康徳のイメージそのものとして捉えられているのだろう。


 分かりきっていたことだ。


 あいつが初めて一式建御雷を操縦した日。


 人の叡智の拳が初めて識人を蹂躙した日。


 史哉の人生が決定的に方向付けられた日。


 十年前のあの日以来、鹿島康徳は常に人類にとっての英雄であり、史哉は英雄の息子であった。


 中等部二年で個人研究が防患隊賞を獲得した。流石は鹿島特佐の御子息だ。


 高等部二年でヤクモシステムの改良プログラムを発表した。やはり生まれが違う。


 東京防患大学工学部に首席入学した。あれが軍神の息子か。


 その不条理な理屈付けに憤りを感じなかったと言えば嘘になる。そもそも破龍兵装の主操縦士と工学系の研究者志望。たとえ父が伝説的な存在だとしても、こうも分野が違えば無関係に評価するのが正当ではないか。


 とはいえ、そろそろ二十歳を迎える今となればそのような葛藤は感じない。十年の間に折り合いを付けてしまったということでもあるし、大学では彼の才を単体で評価してくれる友人や教官に巡り合えたということでもある。


 だが、それでも。


 鹿島康徳は英雄ではない。


 それは決して、父親に対するコンプレックスから来る否定などではない。というより、それでは順番が真逆なのだ。


 十年来抱き続けている父に対する否定の念が先にあり、その故に彼の息子として評価されることを心の底から拒絶し続けた。


 だからこそ、英雄鹿島の偶像が防患大学という識人学の総本山にも根を張っている現実を目の当たりにし、予め理解してはいても落胆せざるを得なかったのだが。


 鹿島康徳は英雄ではない。


 少なくとも、鹿島史哉という一個人にとっては。


 十年前。二◯◯九年の夏の日。世界が識人に別の意味を見出したあの日を境に、史哉の目に映る父の姿は、不可逆的な変容を遂げてしまったのだ。


『目的地に近付きました。車両が停止するまで、シートベルトを締めてお待ち下さい。本日は東京新地下鉄道のご利用、ありがとうございました』


 再びの機械的アナウンス。車両の減速と共に史哉の意識も思考の海から浮上して来る。


 長い溜息をついて目頭を押さえる。感傷的になりすぎだ。らしくない。


「よっぽど応えたのかな」


 一人きりの車両。機械仕掛けの操縦士は独言に対し何ら返答を寄越さない。


『ICカードでドアにタッチするか、タッチパネルを操作して精算してください』


 車外へ出ると地下に共通するカビと埃の混ざり合った臭いが鼻を突く。低い天井の下に人が数人立てる程度の小さなスペースがあり、その隅では自動販売機が茫と光を放っている。


 スペースの先、壁にぽっかり空いた穴から地上へ続く登り階段の下端が見える。穴の上には蛍光緑色に光るピクトグラムと文字。


 ——中野方面第三ゲート。

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