第二章

第4話 イライラ

「もう無理だ! 頭がおかしくなりそうだ!」


 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に慎也はあかりを連れ出し、開口一番、弱音を吐いた。がらんとした埃っぽい空き教室に、文字通り魂からの悲痛な叫びが虚しく響く。


「うーん、まあ……そうだね。でも、もうちょっと頑張ってほしいなーなんて……」


 口ではポジティブに励ます彼女の表情も苦々しい笑みに歪んでおり、入れ替わり生活を続けていく困難さに心当たりがあるのは間違いなかった。


 慎也は俺の顔でそんな表情するなよ、と悪態をつきたくなるのを我慢して、ため息と一緒に腹の底から湧いた激情を押し流そうとする。だが、ため息程度で鬱憤は晴れず、腹の辺りにムカムカしたものが残った。


 お互いの身体が入れ替わってから既に一週間が経とうとしていた。

 たった一週間、されど一週間。それだけの期間があれば、慎也の不満が爆発寸前にまで至るには十分すぎた。

 生まれてこの方、ずっと男として何不自由なく暮らしてきた彼にとって、女子高生として生活するということは、野を駆け回っていた犬をいきなり狭苦しいケージに押し込めるようなものだった。


 時は少し遡り、慎也がようやくあかりの身体の勝手がわかり始めた頃、意気揚々と登校していた慎也にあかりから一件のメッセージが届いた。


『歩く時の歩幅が大きい』


 これが地獄の始まりだった。

 ガニ股で歩かない、ポケットに手を突っ込まない、階段の昇り降りの際にはスカートを気にする、風が吹いてもスカートを気にする、座るときもスカートを気にする、足は閉じなければならない、大口開けて笑ってもいけない。


 彼女より逐一、自分の所作に対するダメ出しが送られてきたのだ。その範囲は普段の言葉遣いにも及び、入れ替わりがバレないようにあかりの友達や先輩と話を合わせるのに加えて、言葉遣いにも気を遣わなければならず、ふとした瞬間に緩まっただけですぐさまメッセージが飛んできてお叱りを受ける。


 その地獄耳加減と徹底的なスパルタ教育に恐れ慄きつつ、彼はストレスゲージを着実に高めていった。

 また、簡単とはいえメイクも覚えさせられ、スキンケアにファッション、果ては髪を痛めにくいドライヤーの使い方まで教示された。


 そして、女子としての研鑽に疲労困憊しているその最中、慎也にとどめを刺しにきたのが二日前に始まった生理だった。

 慎也は妹がいたため、比較的その苦痛を理解していたつもりだった。だが、いざ自らが体感する立場になると全くもってその認識を改めざるを得なかった。

 いつ終わるとやもわからない鈍痛、怠さに加えてイライラも募る。トイレで目にしたかつて見たこともないような血の量には危うく気を失いかけた。

 月経が身体的な苦しみのみならず精神にもくることをまさに身を以て思い知らされたのだった。


 入れ替わりのストレスも相まった故に、本日あかりに抗議することを決心したのである。


「なあ、やっぱ皆に……」

「それはダメ!」


 食い気味にあかりが否定する。慎也はあからさまに不快感を示す。


「なんで」

「それは前にも言った通り、皆信じてくれないと思うし……それに、もう一週間も騙しちゃったし……今更言えない」


 あかりは低い声で弱々しく呟いた。


 自分の姿で女々しく振る舞われると余計にイライラした。まるで自分の弱さを突きつけられるかのようで目を背けたくなる。

 猛烈に怒鳴り散らしたい衝動に駆られるが、それをすると余計惨めになる気がして、どうにか溜飲を下げようと大きく息を吸って、それからゆっくり吐く。

 少し冷静になると、なぜこんなに苛つくのか疑問に思う。そして、すぐに下腹部の鈍痛を思い出した。やはり、生理はかなりストレスを溜めるらしい。女の身体の理不尽さにはほとほと嫌気が差す。


「……わかったよ」


 慎也の言葉に彼の頭一つぶん上にある不安そうな顔が安堵で緩んだ。間抜けな自分の顔に思わず拳を握り締めつつ、言葉を続ける。


「ただし! こっからは俺の行動にいちいち細かい文句つけんな。なるべく女らしくするからそれで我慢してくれ」


 あかりは何か言いたげに口をもごもごさせていたが、有無を言わせず、もう一つ条件をつける。


「それと、携帯出してくれ」


 彼女は訝しげな表情で渋々ポケットから携帯電話を取り出す。慎也はそれを見るやいなや、彼女の手からひったくり自分のものと交換する。


「ちょ、ちょっと! 何するの!」

「交換するんだよ。石田さんの友達と話合わせるのにいちいちメッセージ転送してたらキリないから。石田さんもその方が楽でしょ?」

「う、うーん、そうかもしれないけど……でも!」

「パスワードは?」

「………………いちいちにーごー」

「おっけー。あ、俺のはパスワード切ってあるから」


 彼女から聞いたパスワードでロックが解除されることを確認し、彼女のものだった薄ピンクの携帯電話をブレザーのポケットの中へと滑らす。

 不服そうな表情で突っ立っている慎也の姿をしている彼女に一瞥をくれてやり、挨拶もそこそこに空き教室を後にした。


 廊下に出た慎也は、颯爽と肩にかかるくらいの癖のある黒髪を靡かせた。だが、不意にその髪を鬱陶しく思う。逡巡した後、左の手首につけていた赤いヘアゴムを取り、慣れない手つきで後ろ髪をまとめる。

 首筋を薫風が撫でつけた。髪とともに心も幾分か軽くなった気がして、自然と歩くスピードも速くなっていく。

 ふと窓ガラスに映った自分が目に入る。


 ──俺、女なんだな。


 初めて、自分が自分でありながら、まるで自分じゃないような奇妙な感覚を覚えた気がした。


 ***


 絶対イライラしていた。


 スカートをひらめかせて空き教室を出ていく、自分の姿をした慎也を目で追いながら、あかりは独りため息をついた。


 そういえば時期的に今生理中かあ……。でも、あんなに怒らなくてもいいじゃん。あたしだって大変だったんだから、お互い様でしょ。


 同情と憤慨、半々を胸に抱きつつ、でもちょっとやりすぎたかもなあ、と少し反省する。

 仮にも女子の、しかも自分の姿で行動するならば、それ相応の所作や立ち振る舞いを演じてもらわなければ困る。

 だが、それを今まで男として生きてきた彼に強いるのは少々酷だったかもしれない。とは言っても、こちらとて慣れない男の振る舞いを必死に演じてきたのだ。特に強制はされていないが、もし今までと何ら変わらず女の子っぽく過ごしていたら確実に文句を言われていただろう。

 先ほどだって、女々しい部分を見せたら明らかに不愉快を顔に出していた。

 彼は、そういうところがずるい。


 何なのもう。……二人でいる時くらい素の自分でいたって別にいいじゃん。


 八つ当たり、というわけではないが、慎也に不機嫌な態度で一方的に文句を言われたことに対して、段々と怒りが湧いてきた。

 常ならば、この胸に渦巻く憤慨を茶道部の良き先輩である恵に吐き出し、矛を収めていたところであるが、この身体であればそうもいかない。


 行き場のない怒りの感情に悶々としていると、ぐうう、と腹の虫が大きな声をあげた。

 イライラすると余計にお腹が空く。ただでさえこの身体は燃費が悪く、早弁なしで午前中を乗り切るのが大変だったというのに。


 初日の朝、慎也の母親に渡された弁当の大きさには仰天した。国語辞典くらいの大きさお弁当箱が二段重なっていたのだ。それに加えて、もし足りなかったらこれで何か買いなさい、と小銭まで渡され、あかりは何かの冗談かと耳を疑った。

 だが、何より驚いたのはそれを残さず食べ切れてしまう自分自身だった。女子高生時代には考えられない量のご飯を平らげている。


 男子高校生の食欲に末恐ろしさを感じつつ、あかりは空き教室を出て購買部へと向かった。


「よう慎也。こないだお前が言ってた漫画面白かったぜ」

「こーさかー、今度ラーメン行かんかー?」

「あ、高坂くん! ちょうどよかった委員会の件なんだけど……」


 途中、何人もの慎也の知り合いと思われる生徒が話しかけてくる。あかりはそれを曖昧な返事でのらりくらりと躱しつつ、購買部へと急いだ。全部をまともに相手していたら昼休みがなくなってしまう。


 正直、渋る素振りは見せたものの、お互いの携帯電話を交換できたのはかなり助かった。

 彼はあかりの友達といちいち彼女越しに連絡を取るのが面倒であることを理由に挙げていたが、圧倒的に彼の方が友達が多く、むしろあかりの方が転送されるメッセージの量に頭がパンクする寸前だった。


 慎也の友達の多さに辟易する一方、その人望の厚さをどこか快感に思っている自分もいた。

 何をするまでもなく、勝手に人が集まってくる。もちろん、これまでの彼の努力や人柄があった故の今の状態ではあると理解しているが、まるで物語の主人公にでもなったかのように自分中心で進んでいく話題に、つい人気者になったのかと勘違いしそうになった。


 やっぱかっこいいもんなあ。


 流れていく廊下の窓ガラスにうっすらと映る慎也の顔を見て思う。きりっとした眉に綺麗な鼻筋。誰が見ようとイケメンだ。

 初めは気がつかなかったが、少し落ち着いて周りが見えてくるようになると、特に後輩の女の子たちからの熱い視線に気づく。今だって、すれ違う女子がこちらをちらちら窺っている。


 これは慎也の顔。決して自分のものではない。そう戒めていないと、天狗になって自信過剰な振る舞いをしそうなくらいにあかりは浮かれていた。


 だから、つい普段ではしないような行動をとってしまったのかもしれない。

 あかりが購買部目指して一階へと階段を降りていると、もはや懐かしさを感じる顔とすれ違う。

 茶道部の先輩、宮内恵だ。

 文学少女のような素朴さと奥ゆかしさ。どこまででも包み込んでくれるような温かさが無性に恋しい。


 あかりは、内心いけないとわかっていてもその姿に目が離せなかった。刹那、迷った挙句、とうとう声をかけてしまった。


「──あのっ……めぐみ先輩!」

「……何ですか」


 ゆっくりと振り向いた彼女の目と声色は警戒と嫌悪の色を含んでいた。


「あ、いや、あの……」


 あかりは普段の優しい穏やかな彼女からは想像もできない視線を受けたことに面くらい、言葉に詰まる。すると、恵は何かに気づいたように目を開いた。


「あなた……」


 あかりは一縷の望みに懸けて彼女の双眸に訴えかける。だが、その願いはすぐに破られた。

 開かれた恵の瞳孔はまもなく、羞恥と侮蔑の入り混じったものへと変わり、そしてあかりをキッと睨みつける。


「……どうやって私の名前知ったのか知らないですけど、用が無いなら行きます。……それと、私のことは忘れてください」


 冷たく放たれた言葉に目の前が真っ白になった。

 彼女の立ち去る足音だけが頭の中で妙に大きく響いている。

 あまりのショックに恵の口ぶりがまるで慎也を知っているかのようなものだったことにあかりは気がついていない。それより、頭の中は話しかけた後悔でいっぱいだった。

 てっきり、この容姿ならば仲良くできるんじゃないかと甘く見ていた。あわよくば、恵ならば本当の自分にだって気がついてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた──けれど、そんなことはなかった。


 穢らわしいものを見るような嫌悪に満ちた目。突き放すような氷点下の声色。思い出すだけで嫌な汗がじっとりと背中を濡らす。

 人気者になったと浮かれていた先ほどまで気分はとうに地の底まで沈んでいる。


 私、恵先輩に嫌なことをした……。


 恵に拒絶されたショックよりも彼女に話しかけた自分に失望する。

 どんなに外見が変わろうとも、性別が変わろうとも、心の醜さは変わらない。


 私はバカだ。なに主人公気取りで歩いているんだ。なに人気者になったと喜んでいるんだ。周りに人が集まってくるのは私の力じゃない。私は何も変わっていない。


 あかりは鉛のように重い足をどうにか上げて階段を降りていく──踊り場の窓から漏れる光が届かないところまで。

 



 あかりが購買での買い物を終えて教室へ戻るとすでに昼休みは半分ほど過ぎていた。足早に窓際の自分の席へと向かう。

 慎也はとっくに戻っていたらしく、弁当を広げて柚香とおしゃべりに花を咲かせていた。


「遅かったじゃない。石田さんと何かあったの?」


 席に着くやいなや、前の席を借りて弁当を食べていたらしい森本和樹があかりに尋ねた。

 今までならば、彼に話しかけられたことに心躍り、大喜びでその質問にどう答えようか、電光石火の如く考えを巡らせていたところだが、今日は違った。

 彼の探るような視線と鋭い洞察が痛く感じられる。


 和樹は慎也に話しかけているのであって、決して中身の自分、あかりに興味を持っているわけではないのだ。それはもう、恵の態度に嫌というほど実感させられた。


「ううん、何でもないよ。ちょっと部活の連絡があっただけ」


 和樹の目を直視することができず、弁当を広げながら何でもないことのように答える。


「ほんと?」

「……うん」

「そっか」


 彼は言い訳にあまり納得いっていないようだったが、あかりはわざと気づかないふりをして押し通した。

 しばしの間、二人の間に沈黙が落ちる。周りのクラスメイトの喧騒がいやに大きく感じられた。

 慎也の母が作ってくれた弁当が今日はやけに薄味で、調味料の配分を間違えでもしたのだろうか、とぼんやり考えていると、


「そういえばさ、この間誘ってくれた映画だけど、再来週の土曜はどう?」


 何気ない感じを装って和樹が訊いてくる。だが、その瞳はしっかりあかりを捉えていた。


 あかりは慎也から引き継がれていない突然の誘いに動揺する。「誘ってくれた」ということは恐らく慎也側から計画されたものだろう。

 他の友達であれば、曖昧に返事をして先延ばしにできた。

 だが、彼の前ではそれが許されない気がした。眼鏡の奥の優しくも強い瞳ががっちりと掴んで離してくれない。


「……うん。大丈夫」


 気づけばそう答えていた。


「じゃあ、決まりね」


 大きな川に押し流されるように、為す術なく頷く。和樹は答えを聞いて満足したようににっこりと微笑む。


 ……ずるい。


 あかりは心の中でそっと文句を垂れる。しかし、嫌な気はしなかった。

 教室が喧騒を取り戻す。壁にかかった時計は昼休みが残り少ないことを告げていた。

 慎也の方に目を向けるが、彼はこちらには目もくれず、未だ柚香と笑い合っていた。


 じわじわと胸に薄暗い喜びが広がっていくのを感じた。

 二人でのおでかけ──入れ替わることがなかったら、決して実現しなかっただろう。


 わかっている。森本くんは高坂慎也と出かけたいのだ。でも、今は自分が彼になりきっている。中身が違うなんて思いつきもしない。だったら、少しくらい降って湧いたこのイベントを楽しんでもバチは当たらないのではないか。


 来週末、彼とデートする自分の姿を想像して、思わず顔がにやけてしまいそうになり、慌てて弁当のご飯をかき込む。


 恵との階段での出来事はちくりとする棘だけを心に残して、とうにあかりの頭の中からは消え失せていた。




 空腹が満たされると今度は眠くなる。

 全く、男子高校生の身体は本能に忠実に従うようにでもできているのだろうか。ぼーっと考えるあかりの身体を窓から差し込むぽかぽかとした陽光が包む。

 あかりは大きくあくびをした。


 眠気に拍車をかける黒板に書かれた数式と戦いつつ、それらをノートに書き写しているうちに気がつけば五限目が終わっていた。ところどころ記憶が飛んでいるせいか、いつもより時間が早く過ぎた気がする。


 黒板の隣に大きく掲示された時間割表に目をやると、次の時限は体育だった。周りの男子たちは既に着替え始めている。


 あかりはのっそり立ち上がると、手を上に大きく伸びをして、それから机の脇にかけておいた体操服とジャージの入った袋を手にとる。

 一瞬迷って辺りを見回すが、すぐに教室の扉へと向かうことにした。


「私、トイレ行きたいからついでに着替えてきちゃうわ!」


 教室を横切る途中、あかりの声でそう告げる慎也が先に廊下へと飛び出していった。遅れてあかりもその後に続いて廊下へと繰り出す。


 他の女子の着替えを見ないようにわざわざ一人で着替えているとは、彼も結構律儀だなと思う。それともただ恥ずかしいだけなのだろうか。自分のように。

 いや、欲に忠実な男子高校生が女子の裸を見たいとは思わないわけがない。

 きっと彼の理性的な部分でどうにか踏みとどまっているに違いない。勝手にそう結論づけて少し感心する。

 仮にこの先、彼が欲に負けて他の女の子たちと一緒に着替えることがあったとしても、その秘密は墓場まで持って行ってやろう。彼の理性に敬意を表して密かに誓う。


 ていうか、高坂くんて私の裸は見てるんだよね。


 今まで深く考えないようにしていたが、ふと思い当たる。

 自分の体で良からぬことを働いている彼の姿を想像してしまい、恥ずかしさに熱くなった顔を嫌悪感に歪める。


 前言撤回。もし、他の女の子と一緒になって着替えてたら文句言ってやろう。


 実際のところはわからないが、彼も健全な男子たる以上、その可能性を完全に否定しきれないので、うっかり尻尾を出したところをしょっぴいてやることにした。


 あかりの中での慎也の評価が乱高下していうちに、目的地である男子更衣室に到着する。白いベニヤに磨りガラスがはまっていて中の様子は見えない。

 自分を落ち着かせるために小さく息をつく。誰もいないことがほとんど、というかそもそも男子更衣室があること自体あまり知られていないようなのだが、扉を開ける瞬間は未だに緊張する。


 意を決して静かに戸を引く。埃っぽい匂いに仄かにカビが混じったような臭いがむわっと広がる。

 あかりは眉を顰めつつも奥へと進んだ。


「あ」


 正方形で仕切られた四角いマス目が並ぶ棚の前でちょうどインナーシャツを脱ぎ終えた様子の先客と目が合った。


 寸時、秒針が止まる。


 普通ならば、妙に気まずい空気が流れそうなものだが、それを感じる間も無く目を奪われてしまった──透き通るような白いお腹、触れたら壊れてしまいそうなほど華奢な体躯。まるで女の子みたいなその容姿に。


「……高坂くん?」

「……うぇ? あ、ああごめんごめん、安岐くん」


 固まっていたら葵が不思議そうな目を向けてきたので、慌てて彼の隣に移動する。

 距離にして一メートルほどだろうか。

 本来ならもう少し離れても良いのだが、如何せん男子更衣室は狭い。女子更衣室と比べて半分の広さもないのではないだろうか。そのぶん利用する生徒も少ないので致し方ないのだが。


 正方形で仕切られた棚の一つに袋を置く。わずかに緊張しつつ、上から順にワイシャツのボタンを外していった。


「なんか意外かも。高坂くんが更衣室使うの」

「え? あ、そ、そっかな? ははは……」


 不意に葵から話しかけられ、うまい言い訳が咄嗟に出ず、返事に困る。


「ご、ごめん。失礼だったかな」

「いやいや! そんなことないよ……安岐く……安岐はどうしてここに?」


 気になって訊いてみると、彼は少し考える素振りを見せてから、やがて口を開いた。


「……笑わないでほしいんだけど、人前で着替えるの恥ずかしくて。……男らしくないよね」


 困ったように笑う彼の表情は何だか儚げで、胸がざわついた。


「……そんなことないよ。わた……俺も皆がいるところで着替えるの慣れなくてここ来たんだし」


 高坂慎也を演じるならば、この答えはふさわしくないだろう。

 だが、言わなければならない気がした。彼は驚いているだろうか。あるいは、不思議そうに目を見開いているかもしれない。

 あかりはその答えを見ることなく、体操服の裾へと潜り込んだ。

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