第12話 リレー

「──何でいるわけ」


 本来、この場にいるべきはずでない人物の姿を認め、あかりは思わずそう口にする。

 なぜこんなにも刺々しい物言いなのかと言えば、それはその人物がいくら言い争いをしている最中とはいえ、自分に対して何の配慮もなく酷い事実を突きつけた張本人、慎也だったからだ。


 あかりは心を落ち着かせるべく、ひとつ息をついた。

 彼の人格が素晴らしいことは認めよう。だが、あの時、あの場で言い放たれた言葉だけはやはりいただけない。

 自分なりに怒りを噛み砕いて飲み込んだつもりだったが、こうして本人を目の前にすると怒りが再燃する。

 昼休みの時は落ち込んでいたのと、周りの目もあって気まずさが勝っていたが、今は知り合いなどいない。思う存分、敵意を向けることができた。


「女子の欠員が出たんだよ。捻挫だってさ。昼休み、あかりがいない間にそういう話があったんだ」


 靴紐を結び直している慎也は顔も上げずに素気なく答えた。


「ふーん」


 なるほど。紅白対抗リレーに出る予定でなかった彼が出場者の集まりに並んでいるのはそういう事情か。


 あかりは納得する。だが、まだわからないことがあった。なぜ、それほど足が速くないはずの〈あかり〉が代走を任されることになったのか。補欠の選手もいたはずだ。

 腑に落ちない様子を感じ取ったのか、あかりが疑問を口にする前に先に慎也が答える。


「補欠の内藤さんは今日休んでるだろ? それで、自分で言うのも何だけど……棒引きで活躍した俺に白羽の矢が立ったってわけだ」


 慎也から事のあらましを聞いて、あかりはやはり中身が違うと周囲の人からの人望の厚さも変わってくるのだな、と自嘲的な笑みを浮かべる。

 もし、彼と入れ替わらずに自分が自分のままであったとしたら、例えリレーの走者に欠員が出たとしても自分が抜擢されることなどなく、事態の趨勢をただ眺めているだけのいちクラスメイトだっただろう。


 それを彼は変えた。

 もはや、〈あかり〉はあかりではない。確実に彼の色に染まってきている。


 なぜだかとても切ない気分になる。このまま自分が、あかりという存在が誰にも気づかれることなくこの世から消えて無くなってしまうような、そんな切なさが押し寄せてくる。


 きっと今までも心のどこかにそれを感じている自分がいたのだろう。無意識に気づかないようにしていたのかもしれない。


 だが、この体育祭で嫌というほど直視させられた。

 本当のあかりは、棒引きであんなふうに本気で立ち向かって行ったりしない。

 そもそも棒引きなんて希望せず、騎馬戦で誰かの土台になっている。

 応援だって森本くんの隣にいるなんてことはあり得ない。

 柚香の慎也応援隊の輪の隅っこの方で渋々付き合わされている感じを出しながら程々に応援しているに違いないのだ。

 そして、もちろんリレーにも出ない。


 ──私は……。


「足の怪我大丈夫かよ」


 暗い思考へと沈んでいきそうになったが、慎也によって現実に浮上させられる。

 指摘された自分の膝へと目を落とすと、正方形の大きい絆創膏にはわずかに血のしみが浮かんでいた。


「別に。結局棒倒しも出たし、ここまできたらもうやけくそ」


 小さく肩をすくめて投げやりに答える。

 彼女の言い草を聞いて、慎也は鼻を鳴らすように小さく笑った。だが、それも束の間で、表情こそ見えないがおそらく神妙な面持ちをしているのだろう、声色に同情とも異なる静かな気遣いを含んで彼は言った。


「……惜しかったよな」


 惜しかった、というのは先の棒倒しの結果だろうか。

 あかりのチームは決勝で白組のチームに敗北を喫している。完全な力負けだった。


「惜しくないよ。ボロ負け」


 自虐でも何でもない、客観的に見てそういった評価だ。


「でも、惜しかった」


 彼は依然として顔を上げずにあかりの言葉を否定する。

 それがあかりには同情されて慰められているように感じた。

 そんなのは求めていない。ムキになって言い換えそうと口を開きかけた時、ようやく靴紐を結び直し終えたらしい慎也が「よし」と小さく呟き、ゆったりとした動作で立ち上がる。


 彼と目が合う。自分よりも頭一つ分は低い位置にある瞳。

 本来、自分のものであるはずのそれは、慎也の命の下で輝きを放っている。とても澄んでいて、眩しい光だった。

 目を逸らしたくなるのに不思議と逸らすことができない。まさに眼球に釘でも打たれたかのような感覚だった。 

 そのまま数秒が経ち、やがて彼が口を開く。


「この間は悪かった」


 一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。

 だが、すぐに彼が先日の言い争いに関して謝っているのだと気づく。そして、ずるいと思った。


 面と向かって謝られてしまえば、許すほかなくなる。

 許さない、と駄々をこねることもできなくはないが、たかだか口喧嘩でそれは少々見苦しい気がした。謝意を示した相手を許すことができるのが大人だ。

 だから、いっそ彼には謝ってほしくなかった。まだ、怒りを向けさせて欲しかった。全部慎也のせいにしておきたかった。

 それをさせてくれない彼は誠実で優しくて、ずるい。


 自分の姿をしているのに醜い自分の心とはまるで違う彼のまっすぐな瞳。

 その瞳は彼の心根を映したようだった。ならば、今慎也が見つめているこの瞳は何を映しているだろうか。


「…………うん」


 こういう時、何を言うのが正解なのかわからなかった。

 普段の自分なら何て言うだろう、と想像してみても、今まで誰かと顔を合わせるだけで気まずくなるような喧嘩をした経験などない。

 喧嘩になる前にいつもこちらから折れて、なあなあにしてしまっていた。

 大人の対応といえば聞こえはいいが、実際は相手を尊重していると言うよりかは自分を守るべくそうしていた。

 諍いによって嫌われるのが怖かった。孤独になるのを恐れていたのだ。

 故に波風立てず、周囲との生ぬるい関係を維持しながら良い人だと思われ続ける。 

 それがあかりの処世術だった。


 あかりの返事を聞いた慎也は、その淡白さを気にする様子もなく、破顔して白い歯を見せた。


「頼りにしてるぜ、相棒」


 彼はあかりの二の腕あたりを二回ほど叩いて、トラック半周を隔てた向こう側の待機列の方へと足早に駆けて行く。


 あかりは自分をしっかりと持っている慎也を羨ましいと思った。

 入れ替わっても決して変わらない強い芯。彼にはそれがある。そしてそれは、周囲の人間の評価をも変える力がある。


 対して、自分はどうか。確固たる自分を持っていると自信を持って言えるか──わからない。仮に持っていたとしても、もはや見失いかけている。


 私は──私はいったいどうしたいんだろう。


 彼に叩かれた左腕を反対側の手で抱え込むようにしてそっと触れる。ピリピリとした痛みがまだ感じられる。


 わずかに帯びた熱が火種となり、轟々と燃え上がる炎となるか、それとも誰にも知られずひっそりとただ燻るのみか。


 あかりは空を見上げる。

 ひと雨きそうな薄暗い曇天に、紅白対抗リレーの開幕を告げる高らかな放送が響くのであった。




 ***




 お前って緊張とかしなさそうだよな。


 人からそう言われることは多かった。

 けれど、慎也自身は全くそう思っていない。


 大きな舞台──例えばテニスの大会だったり、学力試験だったり、それこそ体育祭のリレーの前には人並みに緊張するし、うまくやれるか不安にだってなる。

 ただ、それがあまり顔に出ないが故に、周りの目にはいつだって堂々としていて、リラックスさえしているように映るのだろう。


 慎也は大きく深呼吸する。

 紅いハチマキも靴紐も十分すぎるほどきつく結んだ。


 バトンをパスされてからトップスピードに乗るまでを想像する。

 クリアなイメージが浮かんだ。


 緊張はしている。だが、体がガチガチになって動かなくなるほどではない。


 大丈夫だ。今日もいつもと同じようにいける。


 慎也はそう自分に言い聞かせた。

 だが、どうしても一抹の不安が拭いきれない。理由はいつもと違うこの身体にあった。


 あかりはたいして足が速くない──それは棒引きの時、全力で走って気づいた。

 無論、元の自分の身体に比べれば、性別や体格の違いから遅いと感じるのは必然だろう。

 だが、同じ同年代の女子と比べても、決して足が速い方とは言えなかった。それなのに、リレーの走者を任された。

 つまり、皆は自分に期待してくれている。その期待を裏切るような真似はできない。


 慎也は不安を感じる一方、妙な高揚感を覚える自分がいることにも気がつく。

 思えば、たかが体育祭。負けたとて死にはしないし、学校生活に支障もきたさない。せいぜい、今日の夢見が悪くなるかもしれない程度だ。ならば、ちょっとした主役になれるこの瞬間を楽しもうじゃないか、と。


 それに──


 単純に嬉しかったのだ。去年立てなかったこの場に今立てていることが。

 学年別リレーと異なって、紅白対抗リレーの代表者は各クラス男女一名づつしか選出されない狭き門である。

 それゆえ、慎也よりも足が速い男子がクラスにいた去年は出場することができなかったのだ。


 正式な選手でもなければ、本来の身体でもない。しかし、体育祭の華とも言えるこの競技に参加できたのは非常に幸運だった。


 ドドド、という地響きにも似た地面を蹴る音とともに、紅白それぞれ二チームずつ、計四名のバトンパスが目の前で繰り広げられていく。

 今のところの戦況はほとんど僅差と言って差しつえない。


 慎也は周りを見渡す。


 男子はトラック一周、女子は半周を走るため、列は男女交互に入り乱れている。と、その列の後方、つまり慎也よりも後に走る集団の中に里沙子の姿を見つけた。

 向こうもこちらに気がついたようで、手を振りながら近づいてくる。


「あかりちゃんじゃん! 今までリレー練習にいなかったよね?」

「先輩、こんにちは。実は怪我しちゃった子の代わりに走ることになりまして……」


 不思議そうな表情を浮かべる里沙子に、慎也が事情を説明すると彼女は納得したように「そっかそっかそういうことね」と頷いた。


「先輩、足速いんですね。何か速く走るコツ、みたいなのってありますか?」


 そんな都合のいいものはない、と一蹴されるのを覚悟した上で、彼女に尋ねる。

 だが、意外にも里沙子はそうだなあ、と真面目に考える素振りを見せた。


「──もっとテニス部の練習に顔を出すことかな」


 里沙子は真顔でそう言った。


「……すみません」


 慎也は痛いところを指摘されて身の縮む思いになった。決してサボっていた、と言うわけではないが、茶道部にも顔を出す必要があったので、必然的に周りの部員よりも練習時間は短くなってしまっていた。

 小さくなったあかりを見て里沙子はぷっ、と噴き出す。


「ごめん、冗談冗談」


 そう言って笑う彼女に慎也はほっとする。だが、まるっきり冗談として言ったわけでもないように感じられるのが彼女の末恐ろしい部分でもあった。


「でもあかりちゃん、前よりもテニス真剣にやってるみたいだし、期待してるよ。夏の合宿もね」


 笑っていたかと思えば、今度はにこやかに微笑んでそんなことを言う。

 出会った当初はただの気のいい先輩かと思っていたが、彼女を知れば知るほどその底知れない部分が垣間見える。


「は、はい! 頑張ります!」


 慎也の返事に満足したのか、里沙子は師匠面をしてうむ、と大きく頷いた。


「それより、そろそろ順番じゃない?」


 里沙子は首を傾け、慎也の背後を覗き込むようにして言った。

 彼女の視線につられるようにして振り返ると、ちょうど前の男子がバトンを受けて駆け出していくところだった。


「やべっ! じゃあ、失礼します」


 軽く頭を下げてから、慌てて所定の位置に着こうとする慎也のことを里沙子が呼び止める。

 慎也はその場でぴたりと止まり、顔だけ後ろに向けて彼女の言葉を待った。


「速く走るコツだけどね、応援されることだよ。あたしもあかりちゃんのこと応援したげるから、あたしのことも応援してね」


 里沙子が微笑む。

 慎也は顔を綻ばせ、雲さえ突き抜けそうなほど高らかに返事をした。




 里沙子のおかげもあって、いつしか緊張と不安もほぐれ、生憎の天気と裏腹に慎也はすっきりと晴れ渡るような気分で位置に着く。


 先ほどバトンを受け取った男子がいよいよトラックを一周して帰ってくる。

 慎也はその男子からバトンを受け取り、今度は自分が二〇〇メートルの旅へと出るのだ。バトンを渡されるのが待ち遠しい。


 慎也はそこでふと、リレーという競技が今の自分とあかりの状況に当てはまるんじゃないか、そんな奇妙なことを思った。

 自分の持っていたバトンは彼女へと渡り、彼女の持つバトンは自分に渡された。それぞれがそれぞれの役目を果たす、たった二人っきりのリレー。

 もはや、それはリレーとは言えないかもしれないが、それでも、バトンを渡されたからには走り出さなければならないし、ゴールへと紡いでいかなければならない。

 果たして、このリレーにゴールがあるのか否か、それは走り切ってみないとわからない。


 とりとめもなく思考に費やしていると、あっという間に目の前までバトンがやってきた。

 慎也はゆったりと助走をつけ、後ろ手でバトンを受ける体勢をとる。

 そして、バトンに触れるや、しかと握りしめ、地面に着いていた右足を思いっきり蹴り抜いた。



 慎也はぐいぐいと加速していく。

 だが、懸命に足を回しても、腕を振り上げても、イメージの中の自分を超えない。

 顔にぶつかる空気は重く、肩で切る風は小さい。


 前を走る背中は次第に遠ざかり、背後に迫る足音は一定のリズムを崩さずに徐々に迫ってくる。

 やがて、同じ紅組の別チームの一人に抜かされた。

 これで四人中三番手。慎也の後ろに控えているもう一人は白組だ。彼女も慎也を抜かさんと迫ってきているのだろう。

 大きくなる足音が、まるで死神が命を刈り取るべく振り下ろした大鎌の風切り音にすら感じられた。


 文字通り、死に物狂いで走った。しかし、無情にも白組の彼女は慎也に並びかける。


 悔しい、というよりもただただ絶望した。


 俺って結局、こんなもんなのか──


 例え、性別が変わろうと、身体が違えど、足が速くなかろうと、なんだかんだいいところまでいけるんじゃないかと思っていた。

 一位に躍り出ることは無理でも、今の位置をキープすることくらいは可能なんじゃないかと軽く考えていた。

 だが、蓋を開けてみれば最下位。勘違いも甚だしいというものだ。


 残り半分、一〇〇メートルが途方もない道のりに感じられる。

 いっそ全てを投げ出してこのまま逃げ出したい。慎也はそんな思いに駆られる。

 気を抜けば惨めな気分に心を侵されそうで必死に何も考えまいと前を向いた。


 すると、視界に何かがちらついたような気がした。


 濁流の如く流れていく景色の中、その何かに意識を傾けると、正体は紅組の応援旗だった。

 真っ赤な布地に黒文字で今年の紅組スローガン〈唯我独尊〉が靡いている。

 そして、それに勝るとも劣らないほど顔を真っ赤にしながら、必死に応援旗を振っているのは葵だった。自分の背丈を悠に超える旗はさぞかし重いに違いない。体ごと持っていかれそうになっている。

 それでもなお、雄大な八の字を描かんと必死に腕を振るう彼の姿は逞しかった。


 刹那、葵と目が合った気がした。一瞬だったので勘違いかもしれない。だが、通り過ぎる刹那、彼の瞳は確かに「負けるな」と、そう言っていた。

 途端に諦めかけていた自分を深く恥じる。

 何を自分勝手に投げ出そうとしているんだと自分で自分の頬を引っ叩いてやりたくなる。


 応援の列に目を向けると和樹がいた。らしくもなく、大口を開けて叫んでいる。隣には柚香。彼女もはち切れんばかりの声援を送ってくれている。


 自分は本当に恵まれた人間だと感じる。周りに本気になってくれる人たちがこんなにたくさんいるのだから。

 慎也は地面を蹴り抜く足にさらに力を込める。


 ──もっと死ぬ気で走れ。相手を殺す勢いで食らいつけ。この瞬間に全てをかけて挑め。


 離されかけた白組の彼女の背中が再び近づく。

 気がつけば、コーナーから直線に移っており、眼前には待ち構えたあかりの姿が見えた。


 せめて、同着──いや、必ず追い抜く。


 歯を食いしばり、軋む身体に鞭を打つ。さながら、サバンナを駆ける猛獣ように地を這いずる。


 そして、ついに白組の彼女と肩を並べ、わずかに追い抜いた──というところで、勢いそのままにテイクオーバーゾーンに突っ込んだ。

 普通ならばバトンパスは上手くいかない。だが、流石の身体能力というべきか、暴走する慎也のバトンをあかりは難無く受けとり、スピードを上げていく。


 反対に、役目を果たした慎也は走るのを止め、数歩流した後に立ち止まった。

 瞬間、酸欠状態だった身体が酸素を求めて暴れ出す。

 心臓は爆発寸前の如く鼓動し、全身から汗が噴き出す。


 地面に倒れ込みそうになるのを必死に堪え、どうにか膝に手をつく程度に抑える。


 まだ、やらなければならないことが残っている。


 慎也は息も絶え絶えに目一杯の空気を肺に送り込み、顔を上げ、そして叫んだ。

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