第13話 決着

 あかりは目の前で繰り広げられる攻防に思わず目を疑った。


 ──慎也がリレーで競い合っている。


 普通に考えれば、それはあり得ない光景だった。

 鈍足の〈あかり〉がリレーで相手に肩を並べているのだ。目を擦って、もう一度確認する。やはり、いい勝負をしていた。


 スタート直後は「ああ、やっぱりな」という感想しか抱かなかった。

 所詮、自分の身体だ。慎也が乗り移ったからといって突然速くなるわけでもなければ、スーパースターになれるわけでもない。距離を走るにつれて後方から抜かされ、前との差は開くばかり。悔しくもないし失望もない、予想通りで当たり前の展開だった。

 それでもあかりはなんだか居た堪れない気持ちになって、目を伏せ、バトンが回ってくるのをじっと待っていた。


 その俯いていた顔を上げさせたのは沸き上がる応援席だった。

 あかりは紅白の順位が入れ替わりでもしたのかと他人事のように考えながら、視線を彷徨わすと、次の瞬間、飛び込んできた光景に目を見張る。


 ──慎也がみるみる加速していく。


 いったいどんな魔法を使ったというのだろうか。あるいは入れ替わってから彼は肉体改造に励んだとでもいうのだろうか。そうでなければ説明がつかない。

 自分の身体は自分が一番よく知っている。それゆえ、あかりは目の前の現実を疑わざるを得なかった。


 走法にコツでもあるのかと注意深く慎也の姿を追い続ける。

 だが、彼がコーナーから直線に入って正面を向いた時、あかりは悟った。

 魔法でも、肉体改造でも何でもない、彼はただがむしゃらに諦めまいと食らいついているだけなのだと。

 ちぎれんばかりに腕を振り、空転するほど足を回しているその姿から目を離せない。


 思えば、今まであんなに懸命に、死に物狂いになったことはなかった。

 いつも何だかんだ理由をつけて追うのを止め、諦め、自分に言い訳してきた。

 本気でやって届かなかったらどうする。どう頑張ったって持って生まれたもので限界は決まっている。身の程知らずだと周りに笑われるかもしれない──だから、やめよう。そうやってずっと恐怖から目を背けてきたのだ。


 だが、慎也は違った。

 彼はそんな恐怖など知らない。あるいは知った上で丸ごと呑み込んでいるだけかもしれない。いずれにせよ、彼はただひたむきに、一生懸命に全力で挑み続けている。


 彼の身体に乗り移って、あかりはその人望を、容姿や身体能力を、人柄を羨んだ。同時に持って生まれたものの格差を思い知らされて、落ち込み、嫉妬し、そして仕方ないと諦めた。

 だが、それは間違いだと知る。もちろん、容姿や身体能力は才能かもしれない。でも、例えそれらが無くたって彼の築いてきた信頼や結果が変わることはないだろう。

 それは才能のかけらもない自分に乗り移っている彼自身が今、証明している。


 ──慎也はすごい。


 あかりは心の底から思った。

 自分には到底不可能なことを彼は実現してみせている。

 自分でも見たこともないほど、汗にまみれ必死さに歪めた顔。今まで好きになれなかった自分の顔が初めて悪くないと思えた気がした。


 どうやら慎也はスピードを緩めるつもりはないらしい。勢いそのままにこちらに突っ込んでくるようだ。

 あかりは執念とも言える彼の全身全霊ぶりに身震いする。

 彼の気持ちを無駄にするわけにはいかない。早々に助走を始め、右手を後ろに突き出す。

 彼が間近に迫った後はもう振り返らない。ただ右手に全神経を集中させて、今か今かと待つのみだ。


 ──きた。


 右手に確かなものを感じてぎゅっと握りしめる。バトンと一緒に彼の思いも伝わってきた気がした。

 あかりは顔を上げて、正面を見据える。すでに先行している背中が二つ。かなり遠い。

 自分にやれるだろうか。わからない。

 四方から慎也を応援する声が飛び交う。今度こそ、期待に応えなければならない。彼らはかっこいい慎也を見たいと願っているのだから──


 声援がプレッシャーのように上からのしかかってあかりを押し潰さんとする。まるで鉄球に繋がれた足枷をつけているかの如く足が重い。あかりの心に不安が広がる。


 もし、届かなかったら──


 その時、降り注ぐ応援の中を一筋の光が穿つようにして、声が届く。


「あかりいいいいいっ! 勝てえええええええっ!」


 全てを出し切り、残り滓すら振り絞るような慎也の声援。

 周囲の盛り上がりにかき消されまいと叫んだ必死の声は、はっきりとあかりのもとに伝わった。


 全校で、全世界で彼だけが唯一、自分を慎也ではなく「あかり」として見てくれている。その事実があかりに勇気を与えた。心細さは心強さに変化し、重い足枷からも解き放たれたように感じた。


 がむしゃらに腕を振るう。地面を抉り抜くほど駆ける。

 決して美しいとは言えないフォームかもしれない。だが、それが彼らしい。そして、自分にも似合っているだろう。


 前を行く背中にぐいぐいと距離を詰め、ついに二つのうちの一つ、同じ紅組の別チームに並びかける。

「同じ紅組なんだから」なんて言い訳は通用しない。ましてや共闘して一位の白組を引き摺り下ろすなんてもってのほか。ここには意地と意地のぶつかり合いがあるのみだ。


 ちらりと横に目をやる。苦しそうに歯を食いしばっている紅組の彼の表情の中に、微かな悔しさが見てとれた。きっと彼は彼我の能力差をひしひしと感じているに違いない。それでもなお、絶望せず、諦めず、全霊をもって走り続けている。


 慎也と入れ替わらなければ、慎也からバトンを渡されなければ、一生それに気づくことなく、今もただの一観客として憧れと羨望、そして諦観の念を燻らせて遠くから眺めているだけであったろう。


 だが、もう、遠慮はしない。

 周りにどう思われるかも気にしない。

 私は私のやりたいことをやりたい。


 紅組の彼を引き離し、次のバトンパスまで残り二〇〇メートルといった具合だろうか。一位の白組の背中は未だ遠い。自分の番で全てを抜き去る必要などない。

 しかし、あかりは彼を抜かしたいと思った。一番の景色を見てみたいと思った。そうすれば、特別な何かに近づける。そんな気がした。


 また転んだらどうするんだ。皆に迷惑をかけるし、疎まれるかもしれない。それならこのまま無理せず、現状維持でバトンを繋ぐのが賢明な判断ではないだろうか。

 どこからともなく聞こえてくる自分の声は全て鼻で笑い飛ばす。


 ──やりたいことを、したいことをする。


 おそらく今が自分史上一番わがままな瞬間だろう。あかりは口元に微かな笑みを浮かべて、それから折れんばかりに歯を食いしばる。


 四〇〇メートルという距離は全力で走り続けるには少々長い。半分を超えた辺りから足に疲れが溜まってくるし、呼吸も乱れる。前半よりも後半の方が、明らかに走力が落ちるのだ。

 彼我の差を埋めるとしたらそこを狙うしかない。

 あかりは限界間近の身体に鞭を打ち、気持ちを押して勝負をかけた。


 果てしない距離に思えた白組の彼の背中はじりじりと近づき、やがて手が届く位置にまで迫る。自身の呼吸に交じって彼の荒い息遣いが聞こえた。


 間も無くコーナーを終えて最終局面を迎える。勝負は最後の直線に持ち越された。

 白組の彼はあかりの一歩前を行く。

 だが、あかりも負けてはいない。獲物を追い詰めるかのようにじわじわと差を詰め、ついに並ぶ。そのまま追い抜くかに思われたが、白組の彼も負けじと加速する。


 互いに一歩も引かない白熱したデットヒートを繰り広げる。そして、バトンパス直前、万雷の歓声に迎え入れられた二人は、笑っていた。






 

 熱を持った身体を地面に投げ出す。

 荒い砂利が敷かれた校庭は想像よりも硬くて痛い。だが、ひやりとした冷たさが心地いい。空模様は相変わらずのグレーだったが、心なしかいくらかトーンが明るくなったように感じられる。


 勝負はどっちが勝ったのだろうか、と他人事のように思う。

 あかりの見立てでは良くて同着、普通に考えればタッチの差で負けているだろう。

 だが、それでもよかった。悔しい、という気持ちがないと言えば、嘘になるが、それよりも出し切った清々しさ、やり切った満足感が心を満たしていた。

 なんと心地いい気分。当分、起きあがろうという気にはならないだろう。


 あかりが勝負の余韻に浸り切っていると上からぬっと影が伸びてきた。逆光に目が慣れず、目を瞬かせたが、しばらくするうちに覗き込んでいるのが誰だかわかった。


「あかり、お前すげえな! あいつ、一年の頃全く勝てなかったやつなんだよ」


 興奮気味にそう捲し立てるのは他でもない慎也だった。あいつ、とはおそらく白組の彼のことだろう。

 あかりは億劫そうに状態を起こしてから、未だ鼻息荒い彼に向けて言った。


「今回も勝てなかったけどね」


 あかりの言葉を聞いて慎也は一瞬、きょとんとした表情になる。だが、すぐににやっと口元を歪めて、自信満々な口調で言った。


「いーや! あれはあかりが勝ってたね!」

「ええ? 私にはそう思えなかったけど……」


 あかりは怪訝な表情を浮かべる。


「俺は確かにあかりが先にゴールラインわったのを見たね!」


 彼は自分の主張に自信があるらしく、意地でも譲らないつもりらしい。それが自分の勝利を確信してのことだったので悪い気はしない。だが、それでも負けは負けだ。

 あかりが潔く認めようと口を開きかけた時、不意に誰かから「慎也」と名前を呼ばれる。その場にいた本物の慎也と二人して振り返ると、そこには白組の彼がいた。改めて見るとかなりがっしりとした体つきだった。


「驚いたぞ。いつの間にあんなに速くなったんだ」


 予期しない人物の登場にあかりがまごまごしていると、隣から小さな声で「トモキ」と呟かれる。あかりはその意図を図りかねたが、すぐに白組の彼の名前だと気づいて慌てて正面を向き直る。


「お、おう、ともき! まあ、あれだな、俺もトレーニングしてきたんだよ」


 しどろもどろな受け答えだったが、トモキなる白組の彼は納得したらしく、ふっ、とその厳つい体格によく似合った低い笑みを浮かべて言う。


「今回は勝ちを譲ってやるが、次はそうもいかないからな。来年はお互いアンカーで白黒つけようぜ」


 それだけ言うと、彼はゆったりとした動作で踵を返して去っていった。

 去り際の彼の鍛え上げられた肉体を見て、あかりは「私はこんなのと張り合っていたのか……」と内心、自分の無我夢中さを空恐ろしく感じた。


「な! あいつもそう言ってたんだし勝ったんだよ!」


 トモキの前では静かにしていたが、彼がいなくなった途端、慎也は我慢できないと言った様子であかりに主張した。きらきらした瞳で笑顔を向けるその姿が、まるで犬が喜びを振りまいているそれに見えて、何だかおかしくて笑ってしまう。

 あかりの笑顔を勝利の喜びによるものだと勘違いしたのか、慎也もいっそう笑みを深める。


 二人で笑い合う──ここまでくるのに随分と時間がかかったような気がする。きっと身体が入れ替わらなかったら起こり得なかった未来。

 世界でたった二人、運命の悪戯で同じ人生を共有することになったのだから、もっとわかり合いたい。あかりは素直にそう思った。


 二人の新たな門出を祝福するが如く、万雷の喝采が上がる。

 その中心に目を向けると、ちょうどリレーのアンカー同士の決着がついたようだった。


「紅組、勝ったっぽいな」


 同じように歓声が上がっている方向に目を向けていたらしい慎也が口にする。


「ね。自分のことに夢中で全然見てなかった」


 ちょっとした罪悪感を抱きつつも、自分達が紡いだバトンが勝利に繋がったのを見て、胸をくすぐるような、言葉にできない喜びを感じた。


「行こうぜ」


 見ると、慎也が優しい笑顔をして手を差し伸べていた。

 全く、彼は。こういうところが無自覚に人を惹きつけるんだろう。特に女の子を。


「女の子じゃないんだから、ひとりで立てますう」


 あかりは冗談っぽく口を尖らす。


「そうか」

「そうですう」


 言いながら立ち上がり、手で軽く尻を叩く。

 隣には頭ひとつ分低い位置にある彼の顔。視線が合って再び二人して破顔する。そして、息を合わせたように皆の待つ方へと駆け出していくのであった。

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