第14話 打ち上げ
店を出ると辺りはすっかり闇に落ちており、店の入り口のスポット照明だけが煌々と足元を照らしている。
温く湿り気を孕んだ風が頬にまとわりつき、あかりに梅雨の到来を予感させた。
彼女は梅雨に片足を突っ込んでいるこの空気の感じがわりと好きだった。しっとりと落ち着いていて円やかな感じがする。
あかりは鼻を膨らませて目一杯空気を吸う。と、その中に微かにお好み焼きの匂いが感じ取り、思わずゲップが出そうになった。
隣に立っている、先に店から出ていたらしい慎也もどうやら同じ思いなのか、顔を歪ませていた。
あかりと慎也は体育祭の打ち上げと称してクラスメイトたちとお好み焼き店を訪れていた。
欠席者を除いても三十余人はいる団体の客を受け入れることができて、なおかつ安価な店は高校近隣では、しゃぶしゃぶ店かこのお好み焼き店に限られる。だから、この辺りはまさに激戦区と言っても過言ではない。激戦するのは客側であるが。
あかりと慎也の二年A組は、手際のいい和樹がかなり前から予約を入れてくれていたおかげですんなり入ることができた。故に気兼ねせず楽しめるはずだったのだが、あかりにとってはそこからが激戦だった。
二つのリレーで大きな見せ場をつくったことに加え、そのほかの競技でもそれなりの活躍を見せたあかりは、クラスメイトたちから賞賛という名のお好み焼きを振る舞われた。食べ放題だったことが災いして、目の前にまさに山の如くお好み焼きが積み上げられていった。
もう注文するのはやめてくれ、というあかりの嘆願は無事願い下げられ、無情にもこんがり焼きあがっていくお好み焼きの数々をただ眺めていることしかできなかった。
よもや食べきれないかと思ったが、『お残し厳禁!』という店の壁に貼られた貼り紙と店員の射るような目つきに慄き、無理やり胃袋に押し込んでいった。
改めて感じたのは男子高校生の胃袋は異次元だということである。
「ああー、昔はもっと食えたんだけどなあ」
腹をさすりながら、無念、とでも言いたげな口調で慎也が嘆く。
なるほど、度を超えた満腹に顔を顰めていたのではなく、もっと食べられたという意味でそうしていたのか。
店内で見た限りでは、あかりほどではないが彼もお好み焼きを積み上げられる立場の人間だったので同じ感覚を共有する仲間と思っていたが、そうではなかったらしい。あかりは己の認識を改める。
「私の身体で太ったら許さないから」
「大丈夫だって、今日めっちゃ走ったし!」
慎也はなぜか力瘤をつくるように片腕を持ち上げつつ、へらへら笑う。
そんな彼の様子にあかりは鼻白んだ目を向けるが、内心はこのやりとりに心地よさを覚えていた。
リレーでの一件があってからというもの、あかりは気がつけば慎也の姿を探しており、今もこうして彼に引き寄せられるように隣に立ってしまっている。
昨日までではあり得ない光景だ。だが、今は彼の姿が見えないとどうにも落ち着かず視線を彷徨わせてしまう。
人はきっとこの行動に恋愛感情を見出すだろう。
あかり自身も、私は彼のことを好きになってしまったというのか、と動揺した。しかし、どうも胸に湧き上がる感情が恋愛のそれとは異なるような気がした。
恋や愛よりももっと親密で、他人であるはずなのに決して他人とは思えないような感覚。彼が元々自分の一部に組み込まれていたような違和感の無さを覚えるのだ。
これが恋ではないという証拠に、彼の隣にいても、彼の視線を受けても、彼と言葉を交わしても全くドキドキしない。心臓が高鳴らない。
それどころが近くにいるとかえって安心するのだ。その安心感が心地よくて、つい彼を目で追い、無意識に近づいてしまう。
──これも入れ替わってしまった影響なのか。元々自分の身体であるゆえに親近感を覚えてしまうのか。あるいは彼と仲を深めたことによる単なる心境の変化か。
あかりが満腹感でぼーっとする頭でとりとめもなく思考を流していると、聞き馴染みのある懐かしい声で自分の名前を呼ばれた気がした。
「やっぱりあかりちゃんだ!」
声がした方に目を向けると、宮内恵が手を振りながら近づいてくるところだった。
あかりは思わず反応しそうになるが、彼女が声をかけているのは隣にいる慎也であることに気がつき、挙げかけた右手は所在なさげに宙を舞う。
「先輩! 先輩たちのクラスも打ち上げここだったんですか!」
恵の呼びかけに気づいた慎也が尋ねる。
「そうなの! それより、今日のあかりちゃんすごかったねえ。棒引きにリレーに大活躍だったじゃない」
「ありがとうございます! 先輩も騎馬戦で敵のハチマキ取っててすげーってなりました!」
「見られてたの? ちょっぴり恥ずかしいな」
「いやいや! かっこよかったですって!」
あかりを置いて慎也と恵がきゃいきゃいと盛り上がる。あかりは、自分はここにいていいのだろうか、と微妙な居心地の悪さを感じる。
目立たぬよう、こっそりフェードアウトを試みていると、こちらに気づいたらしい恵と目が合ってしまった。
「あなたは……」
おそらく、階段で不用意に話しかけた一件を思い出しているのだろう。
恵の表情がだんだんと強張っていく。
あかりは冷たい言葉を浴びせられるのを覚悟して目を瞑ったが、かけられた言葉は思ってもみないものだった。
「……リレー、すごかったですね。……あと、この間は失礼な態度をとってしまって、すみませんでした」
言ったきり、ぷいっと目を逸らされ、「それじゃ」と慎也にだけ手を振って彼女は自分のクラスの集団にさっさと戻って行ってしまった。
一見すると、感じの悪い態度にも思えるが、あかりの中ではまさに革命が起きた瞬間だった。
呆気に取られているあかりの顔を慎也が覗き込んで尋ねる。
「なんかあったのか? てか、俺、先輩に嫌われてない?」
「……嫌われてはいる、かもしれない。でも、それは慎也のせいじゃないから安心して」
あかりの含みを持たせた言い方に慎也は「どういうこと?」と首を傾げる。あかりは彼に話すか数秒迷ってから、話すことに決めた。
「……恵先輩はさ、なんていうかその、男が苦手、だからさ」
「……あー、なるほど、そういう……」
あかりの言わんとするところを察したのか、慎也は納得したように目を細めた。
そうなのだ、恵は男性に苦手意識、ないしは嫌悪感を抱いている。
あかり自身、突っ込んで訊いたことはなかったが、前に一度、彼女が自分でそう言っているのを耳にした。
何が原因で、どうして共学の高校に通うのかなど詳しいことは知らない。
ただ、彼女がいつもの慈愛に満ちた表情とはあまりにもかけ離れた、憎悪に塗れた目をしてそうカミングアウトしたものだから、強く印象に残っていた。
そんな男嫌いの彼女が現男性である自分に声をかけてくれたのだ。
これがどれだけ凄いことか。モノトーンの世界が色づくくらいの衝撃だ。あかりは久しぶりに仲良しの先輩と話すことができた喜びに打ちひしがれる。
やっぱり今日は頑張ってよかった。
あかりがしみじみと感じ入っていると、今度は慎也から衝撃のカミングアウトがなされる。
「本当は言うべきじゃないんだろうけどさ、あかりだし言っとくわ。……恵先輩って女テニの吉浦先輩と付き合ってるって……知ってるか?」
濁点のついた汚い驚愕があかりの口から飛び出す。
「……まじ?」
思わず慎也の方に視線が吸い寄せられる。
「……マジ」
彼の横顔はいたって真剣なものであり、冗談で言っている雰囲気ではなかった。
「へええ、恵先輩はまだしも吉浦先輩までそっちだったとは……」
思ったことがそのまま口をついて出る。
いかんいかん、と俗っぽい考えを振り払おうとするも、つい、同姓で付き合うってどんな感じなんだろうと想像してしまう。
「……俺も和樹のことを知った時、そんくらい衝撃的だったんだぞ」
じろり、と慎也に睨まれる。あかりが冗談めかして「それは悪うござんした」とへこへこすると、彼は「何だそれ」と笑った。つられてあかりも笑う。
「──なんか僕、笑われてる気がするんだけど悪口かい?」
二人して後ろを振り向くと、そこにはにやっと笑う和樹の姿があった。あかりと慎也は大慌てになりながら身振り手振りで否定する。
その様子を見て、和樹は笑顔の皺を深めて言った。
「ふーむ、怪しいねえ」
肝を冷やしたあかりが、何かうまい言い訳はないかと脳みそが茹だるくらいに思考をフル回転させていると、さらにその後ろから柚香がぬっと現れる。
「ほんと怪しいんだから、二人とも」
柚香は目を細めて睨みつけるようにあかりと慎也を交互に見た。
その振る舞いは一見すると茶化しているようだが、目の奥に確かな鋭さを隠し持っているのをあかりは見逃さなかった。
じっとりとした冷たい汗が背中に滲むのを感じる。
「何でもないって。体育祭楽しかったねって話してただけだよ、な?」
あかりが慎也に同意を求めると、彼はこくこくと頷く。
「そう? ならいいんだけど。二人がリレー一緒に走ってから仲良さそうだからちょっと気になっちゃった」
柚香は事なげにそう言った。だが、内心穏やかではないのだろう。
ふと、目が合った和樹も小さく肩をすくめて何も言わない。
あかりはたまに彼女が醸し出すこういう空気感を知っている。
嫉妬だ。やきもちなんて可愛いものではない、明らかな嫉妬。
相手を牽制し、自分の立場の方が上だとアピールするのが狙いだ。そして、今この場で牙を剥かれているのは、あかり、もとい慎也だ。当の彼はといえば、ボケっとした顔で突っ立っている。
おそらく、柚香に敵意を向けられていることに気がついていないのだろう。
あかりは誰にも聞こえないようにそっとため息をつく。
気の利いた事ひとつ言えないどころか、「まあ、確かにリレーで仲良くなったところはあるかもね」だなんて得意げに宣う彼の頬をぶん殴ってやりたい気分だった。
笑顔の仮面に隠された柚香の感情が温度をすーっと下げていく。それが手に取るようにわかって、あかりの胃はキリキリと痛み出すのであった。
遅れて輪に入ってきた葵がいなければ、今頃、あかりの胃には大きな穴が空き、先ほど食べたばかりのお好み焼きがもんじゃ焼きに姿を変身させて腹を突き破っていたかもしれない。
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