第四章

第15話 夏合宿


 バスの外を流れていく鼠色のアルファルトはジリジリと焼けており、わざわざ空に目をやらなくとも灼熱の太陽を充分に感じさせる。


 季節はまさに夏真っ盛りというもので、梅雨のじめじめとした空気も、振るわなかった学期末試験の成績も、ついでに涙を呑んだ地区大会すらも、太平洋高気圧がどこかへ押しやってしまった。

 かわりに訪れたのが夏休みであり、世の高校生たちは線香花火のように短く儚い青春を謳歌すべく、鼻息荒くし、すでに湿気をたっぷり含んだ空気を飽和水蒸気量の限界まで押し上げるのであった。


 そんな八月の初頭、茹だるような蒸し暑さとは無縁のクーラーのよく効いた大型バスの車内で、日に焼けた少女たちに混じって、慎也も例に漏れず人一倍鼻息を荒くしていた。

 だが、決して煌めく青春に意気込んでいたというわけではなく、女子テニス部の仲間たちとトランプ遊びに興じていたのだった。

 慎也は手元にある二枚のカードのうち、左側の一枚をポニーテールの少女の手によって抜き取られる。


「あああああー、くそー」

「やったー!」


 少女が諸手をあげて喜ぶのと慎也が座席に崩れ落ちるのはほぼ同時だった。首を長く伸ばしてババ抜きの行く末を見守っていた観客たちが沸く。


「じゃあ、あかりのおやつ貰ってくねー」


 彼女らは無情にも、慎也の折りたたみ式テーブルに広げられた色とりどりのパッケージの菓子類をひとつ、またひとつと取り上げていく。


「ああ、さようなら。私の子どもたち……」


 慎也は目の前から次々と姿を消していくチョコにスナック、ソフトキャンディたちを悲しみのこもった目で見送ることしかできない。皆が取り終え、唯一残ったのはコーンポタージュ味のうまい棒だけだった。

 慎也は慈悲として残されたそれを大切に齧る。

 罰ゲームにそれぞれ持ち寄ったおやつを賭けようと言い出した数刻前の自分をぶん殴ってやりたい気分だった。

 単純にトランプで楽しめばいいものを、仲間だけで貸し切られたバスの車内という特殊な空間、そして、これから始まる非日常への期待感が高まって、変に調子に乗ったのがバカだった。心なしかテーブルの上に放り出されたジョーカーも嘲笑っているような気がする。


 慎也はうまい棒の最後の人かけらを口に放り込むと、通路へ顔を突き出す。

 パスの前方、天井付近のグリーンのデジタル文字は時刻が十時十一分であることを示していた。目的地の山中湖まではまだ一時間ほどはかかるだろう。


 慎也は中腰に疲れてどかっと背もたれに体を投げ出す。

 すでに二時間はバスに揺られている。サービスエリアでの休憩時間があるとは言え、流石に腰や背中が痛くなってきた。あと一時間もこの状態では体もカチコチに固まってしまい、午後の予定に支障をきたすのではないかと慎也は懸念している。


 そもそも、高校からはるばる三時間、大型バスに揺られていったい何をしにいくのか──その目的はと言えばテニス部の合宿だった。


 毎年、男女テニス部合同で夏休みに山中湖の湖畔の民宿を貸し切り、三泊四日の間テニス三昧の日々を送る。

 技術の向上はもちろん、部員同士の連帯感を強めることが目的とされているが、そんな堅苦しい建前は置いといて本音は皆、友達との宿泊にわくわくしている。

 そして、車内に浮き立った空気が充満している理由がもう一つ。

 それは、友達のみならず、気になる異性との交流に思いを馳せているからだった。

 実に三泊四日もの間、フロアは違うとはいえ、男女が同じ宿で生活するのだ。普段とは異なる非日常感も相まって仲を深めるきっかけは多分にあるはずだ。


 男子ほど露骨ではないものの、何人かの女子はそういった恋愛話で盛り上がり、虎視眈々とお近づきになるチャンスを窺っているようだった。もっとも、慎也には全く縁のない話であるが。

 仮にも少女の姿をしているとはいえ、精神は男であり、なおかつ異性愛者である慎也にとって、これほど退屈な話もないだろう。


 そして──

 慎也は隣の席に目を移す。


 トランプ遊びが慎也の一人負けという形で一区切りつき、参加していた周りの少女たちはおのおの隣の席に座る者同士でお喋りに花を咲かせ始める中、一人退屈そうに窓を流れる景色を眺めている明るい茶髪の少女。

 慎也の隣に座る彼女こそ、慎也の恋人であり、あかりの親友の柚香である。


 恋人との三泊四日の共同生活──世間一般の男子高校生ならば、その響きに心躍り、実際に踊り出してしまう輩まで現れそうなシチュエーション。

 だが、慎也は複雑な思いでいた。

 なぜなら、柚香にあかりとして接しなければならず、加えて恋人より親友として彼女と一緒にいる方がむしろ楽しいと感じてしまっているからだ。

 そして、これが一番大きい理由だが──最近、彼女の態度が冷たい、というか素っ気ないのである。今だって「バス酔い大丈夫?」と慎也が声をかけても、彼女はこちらを振り向きもせずに「ん」とだけ返事して、そのまま会話が終了する。

 普段の彼女ならば、バス酔いなど気力で吹き飛ばせと言わんばかりに、嬉々としてお喋りに精を出すというのにもかかわらず、だ。


 よほど体調が優れないのか。それとも、自分が彼女の機嫌を損ねている原因なのだろうか。

 慎也は心配になる。

 だが、彼女は乗車の際、他の窓際の席が空いていながら、わざわざ自分のところに来て「私、窓際がいい」とどかしてまで隣の席になったのだ。

 嫌われている線は薄いような気がした。ならば、もう一方の可能性だが、彼女の顔色を見る限り体調不良というわけでもなさそうだった。


 慎也は彼女の不思議な態度に思わず首を傾げる。


 不思議、と言えば、もう一つ慎也を驚かせたことがあった。

 それは、柚香がテニス部の合宿に参加したことである。

 テニス部の部員でもマネージャーでもない彼女は本来この場にいることはない。


 ならば何故、バスの一席に押し込められているか──その理由は、彼女自身が男女テニス部の顧問と部長たちに直談判したらしく、部員たちのサポート役という名目でこの合宿に参加することになったためである。

 慎也はそのことを昨日、彼女から届いたメッセージで知った。

 女子テニス部員であり彼女の現親友である慎也の助力無しにすんなり決まったのは、おそらくマネージャーのいない男女テニス部側としても、そういったサポート役の人員を欲していたからだろう。


 慎也としても柚香が参加すると知って驚きこそすれ、不快に思うようなことはなかった。

 だが、一つ疑問に思ったのは、柚香が自分からすすんでそういった役割に手を挙げた理由だった。

 彼女自身、テニスに思い入れはなさそうだし、裏方というよりは表に立って目立つ方を好むタイプである。

 考えられるとしたら、恋人である自分、つまり〈慎也〉も参加しているから、という理由だが、わざわざそのために知らない人間も多い集団に飛び込むだろうか。あるいは、親友である〈あかり〉がいるから、という線もあり得る。

 いずれにせよ、隣に座っている彼女に訊けば済む話だが、どうも質問できる雰囲気ではない。


 ただ、参加した意図がどうであれ、慎也にとってはこれから始まる数日間の合宿がより楽しみになったのは間違いなかった。

 そこでふと、三日目の夜に控えている花火のレクリエーションが頭を過る。

 去年は雨で中止になってしまったが、今年はできるだろうか。

 あかりに葵、そして柚香。和樹がいないのが些か悔やまれるが、それでも今年の花火は十分に楽しいものになる。

 慎也はそんな予感をひしひしと感じたのであった。




 ***




 慎也の乗る女子テニス部のバスの後方につけて走行するもう一台、同じく青とオレンジのラインが入った大型バスの車内にあかりはいた。

 気分はまさに牢獄にぶち込まれるために護送されている囚人そのものだった。奔流に呑まれるように流れていく景色を眺めながら、思わずため息をつく。


 合宿……はあ、帰りたい……。


 内心呟いたその言葉に、彼女が現在抱く全ての負の感情が込められていた。

 あかりは集団生活があまり得意ではなかった。

 決められた時間に決められた行動を強制され、なおかつ、自分のプライベートスペースに他人が入り込んでくる感覚。それがどうにも性に合わなかった。

 合宿なんかはその典型である。寝食を共にし、語り合い、友人との絆を深める。社会性を身につけるいい機会だと人は言うが、あかりにしてみればストレス以外の何物でもなかった。

 しかも、三日間テニス漬けの毎日。

 終わる頃には疲労とストレスで気が狂ってしまうのではないか、と半ば本気で心配していた。


 ──去年はどうやって乗り切ったんだっけ。


 あかりは遠い記憶を手繰り寄せようとするが、これといった印象が浮かんでこない。嫌すぎて脳が記憶を消去でもしてしまったのだろうか。

 あかりは再びため息をつく。


 これが茶道部の合宿だったらなあ……。


 恵と二人、京都のお茶屋さんで抹茶に舌鼓を打っているところを想像して、その想像上の自分を羨む。現実の自分は山中湖へ護送中だというのに、頭の中の自分は甘い茶菓子に頬を落とし、風情ある街並みをフィルターに収め、湯気薫る温泉に心を溶かしている。全くもって許しがたい。

 思わず嫉妬の炎に身をやつしそうになるが、所詮は現実逃避。そんな想像上の自分など存在しないと自分に言い聞かせ、心を鎮める。


 それに──


 仮に茶道部に合宿があったとて、現状、男の姿をしている自分は参加不可だ。

 行くのはあかりの姿をした慎也。その現実の理不尽さに震え上がる。


 自分から始めた妄想で勝手に落ち込んでいては世話ないな、とあかりがひとり苦笑していると、隣に座る妖精、もとい葵が顔を覗き込んできた。


「慎也くん、顔色悪いけど大丈夫? バス酔いだったら前の席に移るといいいらしいよ?」


 彼は心底心配したような表情で尋ねる。

 あかりは心配してくれる彼に申し訳なさを感じて「全然大丈夫! ちょっと考え事してただけ!」と顔の前で手を振ることで、何でもない様子をアピールした。


「そう? 何かあったら言ってね」


 葵は表情に気遣いを残しつつも、ふわっとした柔らかい笑みを浮かべて言う。


「……うん」


 あかりは思わずその可愛らしい笑顔にしばし見惚れる。

 私もこんなふうにかわいかったらなあ、などと再び現実逃避を試みていると、他でもない目の前の葵によって現実に引き戻される。


「そうだよね。慎也くん、部長だもんね。ぼくたちと違っていろいろ考えないとだから大変そう。ぼくも頑張らなきゃ」


 葵は尊敬のこもった眼差しであかりを見つめた。

 うぐ、と呻き声が出そうになるのをどうにか堪えて、あかりは「そんなことないよ」と気丈に振る舞う。だが、内心では「そうなのよおお」と叫んでいた。


 夏休みが始まる少し前に部内での代替わりが行われ、二年生が部の中心となった。そしてその部を率いていく部長に任命されたのが慎也、つまりあかりだったのだ。

 あかりは必死に部長を回避する術を模索したが、先代部長と後輩、それに同級生にも「部長が務まるのはお前しかいない」と熱い言葉をかけられ、もはや辞退することは不可能だった。

 まさか、慎也の信頼や人望に泣かされる日が来るとは思ってもみず、相当な恨み言を慎也に投げかけたのは記憶に新しい。


「でも、合宿楽しみだな」


 ただでさえ乗り気でない合宿に部長の責務も上乗せされ、どん底の気分のあかりをよそに葵はのほほんとした口調で笑みを見せて言う。


「……そうだな。三日目の花火とか特に」


 あかりの心からの言葉だった。


「慎也くん気が早いよー」


 葵は飴玉を転がすように笑った。それから、不意に真剣な顔つきになったかと思えば、今度は頬をほんのり染めて伏し目がちに呟いた。


「ぼくね、花火の時にあかりさんに告白しようと思ってるんだ」


 突然彼の口から飛び出した衝撃的な発言にあかりは言葉を失い、口をパクパクさせてしまう。


 アカリニ、コクハク……?


 頭の中で何度か反芻し、ようやく彼が何をせんとするのか理解が追いついた。

 あかりに告白。

 それはつまり今の慎也に想いを伝えることを意味している。


「ご、ごめんね! 急に変なこと言い出して! 困るよね」


 急にあかりが押し黙ったことで、困惑していると思ったのか、葵は慌てて謝った。「困るよね」と言った彼の表情には、それこそ困ったような笑顔が浮かんでいて、あかりは胸の奥底に眠る庇護欲みたいなのをそそられる。


「……ごめんごめん、ちょっと驚いただけ。……ちなみに告白ってあの告白だよね?」


 静かに気が動転しているあかりは自分でもよくわからない確認をする。


「……うん」


 真っ白な首筋や耳まで赤く染めて葵は小さく頷いた。

 あかりはそんな彼の様子を見て、うれしいような、泣きたいような、何とも言えない気持ちになる。今までの慎也に対する彼の熱っぽい眼差しから、何となく察しはついていたが、いざ告白となるとどうすればいいのかわからない。


 まずは慎也に連絡した方がいいのかな? その前に私としての返事を考えておくべき? いや、でも彼が好きになったのは慎也であって私ではないのかもしれない。その場合、慎也は何て返事するんだろう? それとも、いっそ入れ替わっていることを正直に話して、理解してもらう? ああ、でもそれだとなんか私と慎也がすでに付き合ってて、フるための言い訳に聞こえちゃいそうだな。あ、慎也は柚香と付き合ってるからそれは大丈夫か……?


 さまざまな懸念や問題点が浮かんでは消え、あかりの脳内を思考が移ろっていく。

 目まぐるしいスピードで回転する思考にシナプスがショート寸前まで陥った結果、最終的に出した結論は「その時になってから考えよう」という思考放棄だった。

 ただでさえ、あかり史上前例のない部長という大役を任されながら、テニス漬けの三泊四日集団生活を乗り切らなければならないのだ。これ以上、心配事を抱えると生え際が後退してしまうかもしれない。弱冠十七歳、しかも慎也の身体でそれはまずい。


 幸いにも、葵が告白宣言した花火のレクリエーションまではまだ時間がある。

 とりあえず、その件は後回しにしておき、最初の苦難として立ちはだかる部内ミーティングでの目標・意気込み発表に向けて、あかりは昨晩作ったカンニングペーパーを開くのであった。

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