第16話 風呂

 昼食のカレーをたらふく食べたせいで、心地よい満腹感に意識を奪われそうになる。慎也が襲いくる眠気と一線交えていると、あっという間にミーティングの時間が終了した。

 女子は食堂、男子は向かいの大広間に別れて行ったそれは、合宿中の目標や目的意識、また各々胸にする意気込みの確認の場だった。

 無論、重要なミーティングではあるのだが、慎也としては実際にプレーしている時間の方が好きなので、少々退屈に感じていた。

 故に眠気に襲われるのは仕方のないことなのだ。だが、この後はいよいよ待ちに待った練習が始まる。コートの状態も良好だと朧げながら聞いた気がするので楽しみだった。


 顧問にバレないよう、最後のあくびを噛み殺しながら軽い足取りで食堂を後にすると、向かいの大広間ではまだ男子たちがミーティング中だった。

 襖が開けっぱなしだったので、通り過ぎるついでに何気なく中の様子を窺う。

 すると、囲むように半円になって座る部員たちの前で、ちょうどガチガチに緊張して肩が強張った様子のあかりがホワイトボードを背に、部長としての責務を果たしているところだった。


「え、えーあー、そ、それでは合宿中のスローガン……じゃなくて、えっと……目標! みょく標……ごほん。目標の方を、は、発表します」


 あまりの彼女の緊張ぶりに慎也は思わず笑みが溢れる。

 いかんいかん、彼女は真剣なのだ、と慌てて表情を取り繕おうとするも、ミーティング中の男子たちも同じ思いなのか、ある者は瞑想するが如く目を瞑り、またある者は自らの太ももをつねっていることに気づいてしまう。全員が全員笑いを堪えているその異様な雰囲気が余計におかしく感じ、慎也はつい噴き出してしまった。


 やべ、と思った頃には既に遅く、男子テニス部の顧問にギロリと睨まれ、部員たちも噴き出してしまった哀れな犠牲者の正体を知るべく振り返っていた。


「失礼しましたっ」


 慎也は頭を下げて、脱兎の如くその場から逃げ出した。全身から変な汗が噴き出してくる。

 やっとの思いで民宿の入り口まで逃げおおせて、ほっと一息をつく。それから、皆がシューズを履いているのに混じって、慎也もシューズケースからピンクのラインが入ったプリンスのテニスシューズを取り出した。このシューズもかなり履き古しているし、そろそろ替え時かな、などとぼーっと考えていると、とんとんっ、とリズムよく肩を叩かれる。


 振り返ると、里沙子がにたにたとした笑みを浮かべていた。


「あかりちゃん、あの状況で噴き出すとかなかなか度胸あるねえ」

「……見てたんですか」

「目に焼き付けたよ。それはもうこんがりと」


 からかうような目を向けてくる里沙子に、自分はまたおもちゃにされるのかと慎也はげんなりする。


 初めこそ、よく話しかけてくれるし、親しみやすくていい先輩だな、という印象を抱いていたが、体育祭の後くらいから何かにつけてからかわれるようになり、今となっては立派に、「めんどくさい先輩」の地位が慎也の中で確立していた。

 とは言うものの、慎也は別に里沙子のことが嫌いというわけではない。むしろ、好きな部類に入る先輩だった。部長という立場だっただけあって、引き締めるところは引き締めるし、反対に場を和ますこともある。端的に言えばムードメーカー。人柄も悪くない。

 そして何より、彼女はテニスが上手い。テニス部に所属している者にとっては、自分より技術が上のテニスプレイヤーはそれだけで尊敬に値する。


 面倒見が良く、ムードメーカーでテニス巧者。これだけ抜き出せば、慎也にとって里沙子はまさに先輩たるものの理想像だと言えた。

 ただ、一つ欠点があるとするならば、かわいい後輩に少々構いすぎてしまうところだろう。

 だが、その欠点さえも、後輩たちが自分に萎縮してしまうのを防ぐ役割を担っていると考えると、目の前にいる、にたにた顔の先輩はもはや非の打ちどころのない完璧超人なのではないだろうか。

 慎也が里沙子に対し、畏怖にも似た憧れの念を抱いていると、不意に彼女の笑みが柔らかくなった。


「それにしてもあかりちゃん、今年もちゃんと合宿参加してくれてよかったよ」


 慈しむような優しい目が慎也に向けられる。


「参加するに決まってるじゃないですか」


 彼女の言葉の真意がわからず、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら慎也は答えた。

 すると、里沙子が驚いたように目をぱちくりさせ、それから「ふーん」と再びにたにたした不敵な笑みを浮かべる。嫌な予感がした。


「そう言ってくれてあたしは嬉しいよ、あかりちゃん。じゃあ、今年も遠慮なくしごかせてもらうね」


 彼女は語尾にハートマークがつきそうな口調でそう言い、ウインクする。

 余計なことを言ってしまったか、と後悔したところでもう遅い。

 慎也はテニスに関することでは容赦のない彼女が考える「しごき」を想像して戦慄する。「やー、楽しみだなあ」と他人事のように宣うその笑顔が悪魔か、あるいは魔王のように思えた。


「あ、そうそう! 合宿に来たあかりちゃんの親友の、何ちゃんだっけ?」


 魔王が不意に尋ねた。


「柚香、ですか?」

「そうそう、ユズカちゃんね! あの子にも伝えといて。『余所見できると思わない方がいいよ』って」


 魔王はより一層口元の笑みを深めて言った。慎也は心の中で手を合わせる。


 柚香……死ぬ時は一緒だぞ……。


 かくして魔王による地獄の合宿練習第一日目午後が幕を開けるのであった。





 ***





「ああー、もう死にそう」


 丸まった猫背で、くすんだ臙脂色の絨毯が敷かれた民宿の廊下を進んでいくのは、ひどくやつれた顔をしたあかりだった。慎也の精悍な顔つきは見る影もない。


 今日一日、正確には午後なので半日だが、部長としてミーティングの目標発表やら、慣れない練習メニューの指示出しやらその他何やらで、気が休まることがなく、心身ともに疲弊していた。

 丸一日練習やミーティングが詰め込まれている残りの二日間はいったいどうなってしまうのか。考えただけで恐ろしかった。


 せめて風呂くらいはゆっくりと入りたい。そう思って、あかりはわざわざ適当な理由をつけて部員たちの誘いを断り、誰もいなくなる時間を見計らってこうして大浴場に足を運んでいた。

 赤と青で分けられた暖簾の片側、赤い方をくぐり、中へと進んでいく。


「おう」


 脱衣所にはTシャツに手をかけている慎也の姿があった。声にはいつもの張りがなく、見れば、彼も疲れた顔をしていた。

 おそらく彼も心身を癒すべく、これから風呂に入るのだろう。


 できれば、ひとりで入りたかったけど……まあ、慎也ならいっか。


 鈍い働きをする頭であかりは適当に相槌を打つと、向かい側の空いているカゴに着替えを放り込んで、自らも服を脱ごうとする。そこで、はたと気づき、慌てて振り返る。


「え? 何でいるの⁉︎」

「いや、こっちのセリフだよ! ここ女湯だぞ!」


 慎也の方も違和感に気がついたらしく、同時に振り返って言い合う。

 あかりは今しがたの記憶を引っ張り出し、慎也に指摘された通り、自分が女湯に入るというミスを犯していたことに気づく。


「あー、ごめん。疲れてるわ」


 一歩間違えれば大惨事になりかねない失敗。あかりはがっくしと肩を落とし、いそいそと来た道を戻ろうとする。

 が、慎也に後ろから「なあ」と声をかけられ、引き留められる。


「せっかくだし、一緒に入らねえ?」


 振り返ったあかりは耳を疑った。それか、疲れすぎて脳がおかしくなったのかと勘違いした。


「ごめん、なんて?」


 聞き返すあかりに慎也は、本当に疲れ切った表情で繰り返した。


「だから、せっかくだし一緒に入らね? 風呂」






 慎也が湯船に入ってくるのを眺めながら、何でこんなことになったんだっけ、とぼんやり考える。


 そうだ、慎也に誘われたんだった……。


 間違って入ってきてしまった異性をそのまま風呂に誘うのはどうかしていると思うが、その誘いにのる方もどうかしている。

 あかりはひとり自嘲的な笑みを浮かべながらも、普通ではあり得ない新鮮な体験に少しばかりワクワクしていた。

 これもきっと極度の疲労がもたらしたおかしなテンションによるものだから致し方ないのだ、と誰に対するでもなく、心の中で言い訳する。


「ああああ、疲れたー」


 おっさんのような声を出しながら、隣に並んだ慎也が肩までお湯に沈む。緩み切ったその横顔は魂でも抜かれたみたいに間抜けなアホ面だった。


 あかりは妙に緊張していた自分が馬鹿らしくなる。

 体育座りを解いて慎也同様、湯船の縁にもたれかかり、足を伸ばす。自然とおっさんみたいな呻き声が出た。

 残響は浴場内に染み渡り、やがて消える。その後は時々の水音を残して、心地よい静けさがやってくる。


 それほど大きくない、石タイル貼りの浴槽に壁には磨りガラスの嵌った申し訳程度の窓。

 洗い場の数も多くなく、一度に十人も入れば渋滞が発生するだろう。ぎゅうぎゅうにひしめき合いながら湯船に浸かった去年の記憶が、遠い昔のことのように感じられる。


「今日のミーティング、頑張ってたな」


 あかりがぼーっと浴場を眺めていると、ふと、慎也がそんなことを言った。彼の方を向くとその口元はニヤリといたずらっぽい笑みに歪んでいる。

 あかりは返事をせず、正面に向き直ると無言のまま彼の肩に思いっきりパンチを喰らわしてやった。


「いってえ!」


 高めの悲鳴が浴場内に響く。あかりは自身の一撃が有効打だったことに満足し、鼻を鳴らした。

 慎也は「ちょっとからかっただけなのに」とか何とかぶつくさ呟いていたが、しばらくすると再び水音だけの世界に戻る。


「何でわざわざ遅くにお風呂来たの?」


 水面に滴が垂れる音に混じってあかりが尋ねる。


「何でってそりゃあ……なんか悪いし」


 歯切れ悪く慎也が答える。


「ふーん」

「ふーん、て。そっちはどうなんだよ」

「私? 私は……落ち着かないから?」

「そうだよな。俺もそんな感じだよ」


 二人の間でくすくすと笑いが起きる。あかりは彼との間に、人には決して話せない、二人だけの悪戯を共有する悪友めいた繋がりとか絆みたいなものを感じた。


 ひと通り笑い合った後、あかりは何とはなしに気になっていたことを訊いてみた。


「そういえば、里沙子先輩、何で合宿に来てるの? 三年生なのに」

「あー、あの人推薦でほぼ大学決まってるようなもんだから特別に参加認められたらしいぞ。テニス上手いしな」


 慎也は頭の後ろで手を組みながら答える。


「へー。スポーツで大学決まるのいいなあ」


 勉強が好きではないあかりとしては、好きなスポーツをやっているだけで大学に行けるのを羨ましく思った。

 実際には並々ならぬ努力の賜物であることは理解している。だが、それでも、スポーツの才も勉学の才もない者にとっては受験なしに進路が決定するというのは憧れでもあり、恨めしくもあった。


「いや、そうじゃなくて普通に学校の成績の方だよ。指定校推薦」


 二物も三物も一人の人間に与える天に文句を言ってやりたい気分だった。

 あかりがそのことを嘆くと慎也は「まあ確かにな」と笑って言った。


「でも、悪魔みたいな人だよ。今日は柚香と散々にしごかれたし」


 慎也にしては珍しく恨みがましい表情で文句を垂れた。

 午後の練習でコートをかけずり回っている慎也と柚香の様子を遠巻きに見ていたあかりは、自分が去年同じようにしごかれたのを思い出し、二人にそっと手を合わせた。


「あ、それでさ、柚香がちょっと前から機嫌悪いみたいなんだけど何でか知らないか?」


 柚香が話題に出たことで想起されたのか、慎也が尋ねる。


「ああ、それ。たぶん嫉妬されてるのかもね」

「嫉妬?」


 慎也が首を傾げる。よくわかっていない彼のためにあかりが説明する。


「いろいろあってほら、私たち仲良くなったじゃん? それを見て面白くないんだと思う。私への連絡も頻度上がったし」


 最近やたらと「今何してる?」といった他愛のない内容のメッセージが彼女から届くのも、そのせいだとあかりは睨んでいる。

 あかりの見解を聞いてなお、解せないような顔つきの慎也は疑問を口にする。


「別に俺ら友達ってだけで、浮気しようっていうわけじゃないのにか?」


 真剣な顔でそう訊いてくる慎也にあかりは苦笑いを浮かべる。


「うーん……自信がないって言えばいいのかな。劣等感、みたいな。私は柚香の気持ち何となくわかるよ。好きな人の前でどんなに可愛く着飾っても、どんなに明るく振る舞ったとしても、心のどこかに不安を抱えちゃう。『あの子の方が可愛いかも』『彼とあの子の方がお似合いなのかもしれない』って。女の子はみんなそうなんじゃないかな。柚香もきっと」


 モデル体型で顔も可愛くて性格だって明るい。そんな柚香も普通の女の子と何ら変わらないことを知って、あかりは安心感を覚えた。そして同時に、自分が彼女に嫉妬されていることにほんの少しの喜びを感じる。優越感に近しいそれはあまりに暗く薄汚い感情であり、決して面に出さぬよう、平然を尽くした。


「だから、こうして並んでお風呂入ってるの見られたら、私たち殺されると思う」


 心に燻る黒い感情を覆うように、あかりは冗談めかして慎也に笑いかけた。彼はちらっと入り口の方を見るや、ブルっとひと身震いする。


 そういうリスクをまるで考えずに風呂に誘ったのか。

 あかりは彼の行動に愉快さを感じて思わず声を上げて笑う。

 何とも心地いい関係だろう。顔色を窺う必要も、気を回す必要も遠慮さえも必要ない。互いを信頼し、互いに信頼されているのをわざわざ口に出さずともわかっている。

 恋人とも家族とも違う不思議な関係。友達に近いけれど、友達とは違った特別な関係。あかりは心にじんわりと温かい波が広がっていくのを感じた。


 願はくはこの生ぬるい関係が続かんことを──

 そこでふと、あかりは慎也に伝えておかなければならないことがあったのを思い出す。


「そういえばさ、安岐くんが花火で告白するらしいよ?」

「へえ、誰に?」


 他愛もない世間話が続いていると勘違いしているのか、慎也は他人事のように訊く。


「慎也」


 あかりが彼の方に顔を向けて名指しすると、彼もまたこちらを向いて目をぱちぱちと瞬かせる。


「え、俺⁉︎ それってつまり……あかりってこと……でいいんだよな?」


 一拍おいてようやく呑み込めたらしい慎也は、状況を整理するようにあかりに確認する。

 彼女がこくりと頷くと、彼は「はー」とか「ほー」など感嘆の声を漏らしながら、ゆっくりと元の位置に収まっていった。


「で? 俺はどうすればいい?」


 さも当然の如く、慎也が訊く。予想通りの彼の返しに、刹那、あかりは迷ってから口を開いた。


「こういう場合って私が答え決めちゃっていいのかな?」

「他に誰が決めるんだよ?」


 何を当たり前のことを、と言わんばかりに怪訝な表情を浮かべる慎也に、あかりは自分の中にある違和感をどうにか言葉にしようとする。


「でもさ、安岐くんが好きになったのってあかりじゃなくて、あかりの姿をした慎也ってことにならない?」


 慎也は難しい顔をしている。

 このもどかしい感情を彼にわかって欲しくて、自然と言葉に熱がこもる。


「私ってほら、別に外見が良いわけじゃないじゃん。だからきっと、好きになってくれたのは性格のおかげだと思うのね。でも、その性格は慎也のものじゃない? 安岐くんは転校してきたから私が私だった頃の性格は知らないし……。だから、私が答えを出すのは違うのかなって……」


 慎也は理解してくれただろうか。その横顔は未だ険しく歪んだままだ。

 だが、不意にその表情がふっと柔らくなり、温かみを湛えた瞳がこちらを向く。


「あかりは優しいやつだな」


 何の脈絡もない、突然投げかけられる賞嘆。

 普段褒められ慣れていないせいか、しどろもどろになりながら聞き返すあかりに、慎也は自分の胸の心臓の上あたりにそっと手を置く。そして柄にもなく、温かくて優しい口調で言った。


「だって、この身体はあかりのものなんだぞ。他人があかりになりかわって葵と付き合うことになるかもしれないのによ、相手の気持ちばっか考えて自分の気持ちは後回しにしてるんだぜ? そんな優しいやつなら、例え俺と入れ替わってなくても葵は好きになってたよ、絶対」


 慎也に言われてハッとする。


 確かに、安岐くんや慎也のことばっか考えて、自分の身体がどうとかまで全く頭が回らなかった……。


 それは優しさなどではなく、単純に一杯一杯になっていて思い当たらなかっただけかもしれない。けれど、彼は「優しい」そう言ってくれた。


 そして、「絶対」という強い言葉。

 嬉しいような、報われたような、認められたような、そんな静かな情動があかりの中で湧き上がる。それは、蝋燭の火がジリジリと蝋を溶かすように胸に広がっていった。


 涙が溢れそうだった。

 押さえ込んでいた何かが決壊して、とめどない感情にどうしようもなく思考が流されていく。


 あかりは泣いているところを見られたくなくて、手でお湯を掬い、それを自分の顔に浴びせかけた。ここが風呂でよかった。

 水滴が涙かお湯か、もしくは汗か、全く見分けがつかないのだから。


 あかりは決断する。


「──私、安岐くんとは付き合わない」

「おう」


 受け止める慎也の瞳は優しく、そして強くもあった。

 いつか、自分もこんな光を宿すことがかなうだろうか。憧れの彼に近づくことはできるだろうか。きゅっと目を瞑り、脳裏に思い浮かべる。


「……ちなみに慎也だったらどうしてた?」


 とはいえ、やはり気になった。こりゃまだまだ憧れには程遠いな、と自嘲めいた笑みを浮かべつつ、彼の返事を待った。


「俺? 俺はまあ普通に柚香がいるしなあ。断るな」

「へえ、柚香いなかったら付き合うんだ? 男の子だよ?」


 あかりは挑戦的な目を慎也に向ける。


「そうは言ってないだろ! ……まあでも、そうだな。でもさ、性別とか抜きにしても、なんかあいつって不思議な魅力ないか?」

「あ、何となくわかるかも。目が惹きつけられるって言うか、儚い感じに魅了されるって言うか」


 頷くあかりに慎也が我が意を得たりとばかりに「だろ?」と得意げな顔をする。


「それに、今は女子の身体だしな。いっそ男と付き合ってみるってのも……うーん。……やっぱないな」


 どっちよ、とツッコミたくなる気持ちを抑えて、彼の横顔から目を離し、再び正面を向く。

 逆の立場だったら、たぶん自分はもっと揺らいでいただろうから──


 遠くで水面に雫が落ちる音がした。そろそろ上がらなきゃと思いつつ、尻と背中が石のタイルに接着剤でくっついてしまったかのように離れない。


「……何で私たち、入れ替わっちゃったんだろうね」


 何百、何千回と繰り返した疑問を再び投げかける。


「さあな」


 慎也は、考えた上で出したのか、それとも端から放棄した結果なのかわからない、いつものお決まりのセリフをこれまたいつものように宙に飛ばした。

 それに対して、あかりは特に何も返さない。

 一連の会話はもはや、二人の間で取り決めた合言葉みたいなものだった。

 しかし、今夜は続きがあった。


「……私と身体が入れ替わってさ、嫌だった?

 ずっと怖くて聞けなかったことが、口をついて出る。顔は正面を向いたままだ。


「……はじめはな。でもそれはお互い様だろ?」


 慎也がこちらを向いた気がした。あかりは相変わらず壁に取り付けられた照明を見つめる。


「……うん」

「でも、今は悪くない気分だな。双子のきょうだいができたみたいで楽しい」


 また、強くて優しい声。


「……そっか」


 導かれるように頷く。

 あかりの胸はいつしか温かいもので満たされていた。一滴の不満すら入れ込む余地のない、満ち足りた充足感。

 きっと、何度人生を繰り返したとて、自分はまた慎也と入れ替わる未来を選ぶだろう。今度は自分自身の意思で。


 あかりは立ち上がる。水簾の如くお湯がその身体から滴り落ち、水面は寄せては返す波を打つ。


「私、そろそろいくね」


 見上げる慎也にそう告げる。「じゃあ、俺も」と彼が後に続こうとしたので、あかりは待ったをかける。本当に鈍感なんだから、と内心呆れて笑った。


「万が一、一緒に出るとこ見られたらどう言い訳するつもりよ」

「……確かに。なら、俺はもうちょっとゆっくりしていくわ」


 慎也は浮かせかけた身体を再び湯の中へと沈めていく。

 呑気な慎也を背にしてあかりは湯船から上がる。そして、脱衣所への引き戸の前まで来た時、ちょっとした意地悪を思いつき、慎也をからかってやることにした。


 ──ミーティングのこと笑ったお返しだ、ひひ。


 にやけそうになる口元を手で隠して振り返る。


「柚香に怪しまれたくなかったら明日からはちゃんとみんなと入るんだぞ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る