第17話 融解

 ──ったく、あかりのやつこっちがどれだけ気を遣ってるのか知らないであんなこと言ってきやがって。


 内心、ぶつくさ言いながら、慎也は濡れ髪をタオルで抑えつつ、部屋がある二階への階段を昇る。


 普段の着替えとかでも気まずく感じるのに、女子たちに交じって風呂とか精神がもたないだろ……。


 愚痴の内容は専ら、入れ替わりによる弊害──着替えや風呂、トイレなどのプライベートゾーンに関することだった。

 トイレや着替えであれば、今まで通り、なるべく誰ともかち合わないようにすれば済む。何なら、最近は一緒になったとしても特段気にするようなこともなくなってきた。

 しかし、合宿、しかも風呂となれば話は別だ。四六時中同じ空間にいる上に、一矢纏わぬ姿を晒し合わねばならない。


 無論、慎也も健全な男子高校生たる以上、女子たちのキャッキャウフフなお風呂シーンに興味がないわけではない。

 だがそれ以上に、不可抗力とはいえ、精神が男の自分が女の園に入り込むのは、ある種の気まずさと罪悪感を感じるのだ。さらには、間近であかりに見られているという変な緊張感が、慎也の心のタガをガチガチに締め上げていた。

 彼女自身、監視している気などさらさらないだろうが、慎也からしてみれば、まさに目には見えない鎖で繋がれた飼い犬のような気分にさせられていた。

 その心うちを知ってか知らずか、(いや、あれは確実にわかっている。慎也はそう確信しているが、)彼女はみんなと風呂に入るように勧めてきたのである。全くもって憎たらしい笑顔だった。


 明日どうするかな、と思い悩んでいるとあっという間に部屋の前まで到着する。

 年季の入った重い襖を開けると、二十畳ほどの殺風景な和室大部屋に布団が所狭しと並んでいた。すでに踏み荒らされており、掛け布団が捲れていたり、シワが寄ってたりで多少乱れている。

 そんな畳から布団へ模様替えでもしたかのような大部屋の隅で、柚香がひとりうつ伏せに転がりながら携帯電話をいじっていた。


「みんなは?」


 慎也は本来、布団の数だけいるはずの少女たちの姿が見えないのを不思議に思って尋ねる。


「んー? こっそりコンビニ行ったり、男子にちょっかいかけに行ったりいろいろ」


 柚香は画面から顔を上げずに答える。まるでパタパタさせている足がしゃべっているみたいだった。


「そう。柚香は行かなくて良かったの?」


 慎也のところに、という言葉は呑み込む。

 嫉妬されているという自分の口からその名前を口に出すのは良ろしくない気がしたからだ。せっかく、彼女の機嫌が良さそうなのに台無しにするわけにはいかない。慎也は乙女の嫉妬深さを教えてくれたあかりに感謝の念を送る。


「うーん、今日はなんか疲れちゃったし。あかりもそうでしょ?」


 柚香がわずかに顔を上げて、こちらを見やる。

 彼女の言う通り、慎也は里沙子の鬼特訓のせいでくたくただった。

 意識すると急に睡魔が襲ってくる。思わず口から大きな欠伸が出そうになったが、それは柚香の言葉によって遮られた。


「あかり、髪びしょびしょじゃない! 風邪引くわよ? ほら、こっちおいで。乾かしてあげる」


 そう言って起き上がった彼女は、近くにあったドライヤーをコンセントに繋ぐ。

 正直、髪を乾かすのを億劫に感じていたので、ありがたく彼女の厚意に甘えることにした。


 慎也は言われるままに柚香がいる方まで歩いていき、彼女の前にすとんと腰を下ろす。

 間もなくして、低いファンの音とともに温かい風が慎也の濡れた髪を撫で付け始めた。柚香のすらりとした指が触れ、冷えた首筋が温まっていくのを感じる。

 彼女の手つきは優しくて、少しくすぐったい。


「結構上手いでしょ? 昔、お姉ちゃんによくこうやってあげてたの」


 頭越しに得意げな声が聞こえた。柚香が鼻を高くしてドヤ顔しているのが想像つく。

 美容院くらいでしか誰かに髪を乾かしてもらう経験のない慎也は、彼女のドライヤーが上手いかどうか、いまいちピンとこなかった。

 だが、大事なものを慈しむような優しくて温かい手つきはとても心地良かった。触れる肌から愛情が伝わってくるような、そんな感じがした。


 ふと、小さい頃、妹が湯上がりにいつもこうやって母に髪を乾かしてもらっていたことを思い出す。ドライヤーを当てられている間、妹は決まって気持ちよさそうに目を細めていた。

 当時は、その様子を尻目に「わざわざ髪を乾かす必要のない男に生まれてラッキー」とゲームをしていたが、今思えば、彼女は彼女で「こんなに気持ちいいのにお兄ちゃんは髪が短くてかわいそう」みたいな感じで自分のことを憐れんでいたのかもしれない。

 確かにこうしていつまでも撫でられていたい。そう思えるくらいに、好きな人の手で優しく髪を乾かしてもらうというのは心が安らぐ。


 慎也がつい夢の世界へと誘われそうになっていると、ドライヤーの音に混じって柚香の落ち込んだような声が聞こえてきた。


「……ごめん」


 何を謝ることがあろうか。こんなにも気持ちいいというのに。慎也はのほほんとした口調でそんな感じのことを伝えた。


「……違うの」


 食い気味に返される。気付けばドライヤーの音は止んでいた。

 慎也が不思議に思って後ろを振り返ろうとすると、「そのままでいて」と彼女は言った。慎也は言われた通り、前を向いて柚香の言葉を待つ。


 コチ、コチ、と古めかしい時計の秒針が時を刻んでいく。やがて、柚香が意を決したように息を呑む音が聞こえた。


「……私最近、何だかおかしいの」


 何かを抑えるように静かに話し始める。


「慎也とあかりを見てるとどうしようもなくもやもやして、二人に嫌な感じ出しちゃって……」


 ひどく小さな声から、彼女の自信のなさが窺える。普段の彼女からは想像もつかない弱々しい印象だった。


「わかってるの。あかりがそんなことするような子じゃないって。でも、いつの間にか二人がどんどん仲良くなっていくの見てたら、私二人に置いてかれるんじゃないかって不安でたまらなくなって……。慎也のこともあかりのことも大、好きなのに、私、意地悪なことばっか……考えちゃって」


 涙声で詰まりながらも、柚香は懸命に言葉を紡いでいく。


「合宿についてきたのだって、慎也を取られちゃうんじゃないかって、あかりに嫉妬したからだし、でも、あかりのことも好きで、嫌われたくないし、慎也のことも諦めたくないし…………私、胸がぐちゃぐちゃになっちゃってもうどうしたらいいか、わかんない……」


 今にも消えてしまうのではないか。そう感じさせるほど、儚げで切ない感情の吐露だった。


 慎也は後ろを振り向くと、無意識に柚香を抱き寄せていた。

 自分がこんなに想われているとは気づかなかった。

 彼女は彼女なりに精一杯想いを伝えようと頑張っていたのに、いつも、それを面倒に感じている自分がいた。こちらの想いは充分に伝わっているはずだと決めつけて、話し合うことを、理解し合うことを放棄している自分がいた。


 きっと彼女は思ったよりも少し子どもっぽいところがあるのだ。しっかりと言葉で本心を伝えなければ想いは伝わらない。今までそんなことにも気づかずにただのうのうと付き合っていた。


 今日初めて、本当の意味で柚香と向き合えるようになった気がする。

 腕の中の彼女はあまりに小さく強く抱きしめれば、壊れてしまいそうだった。しかし、慎也はその小さな存在を決して離すまいと、回した腕にいっそう力を込めた。


「いつも不安にさせててごめん。柚香。私は柚香を嫌いになったりしないよ。絶対。信じてほしい」


 柚香が胸の中で小さく頷いたのが感じられた。それから、彼女はか細い声で恐る恐るというふうに尋ねる。


「……あかりは……あかりは、慎也のことが好きなの……?」


 答えを聞くのが怖いのか、慎也のTシャツの裾を掴む彼女の手がほんの少し強くなった。


「好きだよ」


 彼女の背中が強張る。慎也は安心させるようにその小さな頭を優しく撫でると、すぐに続きを口にする。


「でもそれは、友達として。私とあいつ、案外気が合うことがわかったんだ。それで、最近は話すことが多かったのかもしれない。けれど、それだけ。付き合いたいとかそんな気持ち一切ないよ」


 迷いのない口調で本心からそう告げる。あかりもきっと同じことを彼女に言ったに違いない。慎也は確信を持って力強く頷いた。


 ──それに。


「第一、慎也は柚香のこと……その、ちゃんと好きだと思うよ?」


 言ったそばから顔が赤くなるのを如実に感じた。

 柚香が胸に顔を押し付けていて助かった。もし、今彼女に顔を上げられたら、余計な想像をさせてしまうかもしれない。


 そんな慎也の心配をよそに、柚香は慎也の胸でまるで赤子のように泣きじゃくる。

 泣きながら、何度も何度も「ごめん」と謝り、それと同じくらい「ありがとう」を繰り返した。


 きっと、ずっと不安に思っていたのだろう。その不安の一端は自分に責任がある。

 慎也は本当の自分の声で、瞳で、身体で彼女に想いを伝えられないことをもどかしく思った。

 こんなに焦ったいのは久しぶりだ。普段意識することはなかったが、すっかりあかりとしての生活に慣れきってしまっていたのだろう。


 しばらくして泣き止んだらしい柚香がおもむろに顔を上げる。泣き腫らして赤い目元が何とも愛おしく感じた。


「えへへ、ごめんね、あかり。疲れてて気持ちが弱くなっちゃったのかも」


 彼女は照れたように笑みを浮かべながら言い訳めいたことを言う。

 そんな彼女を見て、慎也は感情の盛り上がるままにその想いを口にした先ほどの場面が蘇り、頬が熱くなるのを感じた。それを誤魔化すかのように彼女に笑い返す。

 二人の間にくすぐったいような、心地いいような空気が流れる。まるで初恋の相手との初めてのデートに緊張している時のような変な気分だった。

 そんなくすぐったさから逃れるかの如く、柚香はわざとらしくぷりぷり怒るように腕を組む。


「それもこれも、あの里沙子とかいう女が無駄に走らせるのが悪いのよ! そもそも私、部員じゃないし! 全く、あいつは悪魔かなんか、いいえ、魔王、人に意地悪するのが大好きな魔王に決まっているわ!」


 彼女のあけすけな物言いに笑ってしまう。彼女が魔王だというのは慎也も同感だった。


「──誰が魔王だって?」

「ひっ」


 突然、聞こえた声に思わず飛び上がりそうになる。

 二人して恐る恐る振り返ると、そこには襖に手をかけた威風堂々、魔王と呼び声高い里沙子の姿があった。

 先ほどまで全身を生き生きと通っていたはずの血の気が、一転して逃げるようにサーッと引いていく。

 だが、慎也自身はこの場からは逃げられない。隣の柚香を横目で窺うと、彼女の顔も真っ青に青ざめていた。

 対照的に目の前の里沙子は、水を得た魚のように生き生きとした表情で部屋をぐるりと見渡す。


「あれえ、もうすぐ消灯時間だってのに二人しかいないじゃーん。弛んでるんじゃないの二年。ね、どうなの?」

「はい、全くその通りで返す言葉もございません」


 超低姿勢のへりくだった態度で慎也が深々と頭を下げる。ほとんど土下座に近い状態だった。その様子を見た里沙子はニンマリと口を大きく歪めて言う。


「そっかそっかあ。仕方ない。ここは連帯責任としてあなたたち二人は明日も私の相手、お願いしよっかな」


 連帯責任の意味を履き違えている気がするが、指摘したところで覆るはずもなく、大人しく運命を受け入れざるを得なかった。というか、彼女はもともとそのつもりで部屋を訪れ、そこにちょうどいい大義名分を与えてしまったのではないだろうか。

 そう勘繰ってしまう。いずれにせよ、明日も満身創痍が確定し、慎也の気分は一気に急降下した。柚香もさっきとは別の意味で青くなっている。


「じゃ、お二人さんおやすみー」


 お通夜のような雰囲気な二人を嘲笑うかのように里沙子はひらひらと手を振って、部屋の前から立ち去った。


 全く、とんだ災厄だった。

 一つ不幸中の幸いがあるとすれば、柚香との想いのたけ合戦を見られていないことだろう。もし、あれを見られていたらこんなものじゃ済まなかった。

 あり得たかもしれない未来に戦々恐々としつつ、慎也が顔を上げると放心状態の柚香と目があった。


「……寝よっか」


 どちらともなくそう言い出し、煌々と照明が灯る大部屋の隅で二人並んで布団に入る。

 Tシャツの胸辺りについた柚香の涙の跡がひんやりと冷たい。けれど、それはとても暖かくて、このまま乾いてしまうのが惜しいと感じた。そんなことを思っているうちに、いつに間にか、意識は深い夢の世界へと沈んでいった。

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