第18話 駆ける
「あかりさん!」
まるで天使のように透き通る声に呼び止められて慎也は振り返る。
東の空から差し込む陽光がその声の主を隠し、しばし、姿が見えなかったが、間もなくして目が慣れたのか、線の細い華奢な体躯と整った顔立ちがはっきりと浮かび上がる。
「葵。おはよう」
どこか緊張した面持ちの彼に慎也は内心どきりとしたが、すぐに思い直して、朗らかに挨拶をした。
「うん、おはよう」
「男子も朝のランニング?」
聞いた矢先に「そういや去年も走ったっけ」と朧げな記憶が脳裏を過る。確か、去年も女子と合同だった気がするが、慎也は自分ひとりで突っ走っていたため、その印象が薄かった。
「うん、そうなんだ。……それで……ね? よ、よかったらでいいんだけど一緒に走らない?」
背は同じくらいなのに、彼の方が幾分か小さく感じるのは、いじらしいその上目遣いのためだろう。
率直にいえば可愛いのだが、まるで瞳に魔力でも込められているかの如く、葵の眼差しから逃れられないことに、ほんの少し恐ろしさを感じる。
あわや、見つめ合ったまま静止するかに思われたが、電線のカラスの鋭い鳴き声によって正気に戻された。
慎也は起き抜けの頭で少し迷ってから答える。
「……いいけど、私、ペース早いよ?」
慎也の返事を聞くや、葵は満面の笑みを見せて「負けないよ」と豪語した。
アスファルトで舗装されたサイクリングロードを軽快に飛ばしていく足音が二つ。慎也と葵は左手に山中湖の湖面を望みながら、朝の涼しい風を切っていく。
二人は先頭集団から遅れて二番手の集団、よりもさらにその後ろにいた。
慎也はペース配分を考えた上でこの位置に収まったのだが、先頭集団がどんどん自分たちをかけ離していくのを見て、胸に悔しさを滲ませる。
去年は悠々と先頭集団を駆けていたのにもかかわらず、今年はこの体たらくだ。無論、性別も運動能力も去年とは異なっているので仕方ないことなのだが、それに加味してももう少しやれると思っていた。
くそ、もっと体力つけとけばよかったな……。
体力どうこうで埋められる差なのかはわからないが、僅かでも位置を押し上げることはできただろう、と歯噛みする。
しかし、いつまでも悔しがっているわけにもいかない。慎也は女子の中では二位の位置で走っているだけ、とりあえず良しとすることにした。
ちなみに一位は二番手集団についていった里沙子だった。さすがの魔王である。
魔王とは対照的に額に滲む汗が真珠のようにキラキラと輝いていて、見る者に女神を彷彿とさせるのは隣を走る葵だった。
慎也のペースにしっかりとついてきている。それどころか、まだ余力を残していそうな顔つきだった。
慎也は少しペースを上げる。葵もそれに続いた。
こうして並んで走ると、中性的な見かけによらず、彼がれっきとした男子であることを認識させられる。
「ぼくさ、ずっと、あかりさんと、走りたいと思ってたんだ。体育祭のリレー、見てかっこよかったから」
呼吸に合わせて葵が話しかけてくる。慎也は驚いた。
まさかそんなふうに思ってくれていたとは──
確かにあの瞬間、普段では考えられない鬼気迫った走りをしていた自覚はあったが、そうすることができたのは葵の応援のおかげだった。むしろ、あの場で一番輝いていたのは彼であるとさえ思う。
「ありがとう。でも葵の、応援のおかげだよ。旗手、かっこよかった」
葵がハッとしたようにこちらを見る。それから「見てくれてたの?」と自分の聞き間違いじゃないか確認するように尋ねた。
慎也が頷くと、葵は「そっか」と嬉しそうに呟き、流れていくアスファルトに視線を落とした。
しばしの間、静かな時間が続く。
先ほどよりも太陽は高い位置に昇り、湖面に反射する陽光がキラキラと揺れて眩い。ひんやりとした風が頬を撫でてくすぐったい。二人は向こう岸のさらにその奥に構える雄大な富士山に見下ろされながら、朝を駆けていく。
そうして湖に突き出た半島のような小高い丘を目印に、折り返し地点まで来た時、不意に葵が口を開いた。
「ねえ、あかりさん。ここからゴールまで、競争しない?」
葵にしては珍しくその瞳にはわずかに挑戦的な色が含まれていた。自信があるのだろう。
しかし、慎也とて負けるつもりはなかった。ちょうど、景色にも飽きてきたところだったので快く誘いにのることにした。
「いいよ。私が勝ったら、ジュース一本ね」
慎也の挑発するような笑顔を見て、葵もにやっと口元を歪める。
だがそれも束の間、彼は迷うように視線を彷徨わせた後、やがて決心したようにキュッと目を閉じ、再び開いた。
そして、真っ直ぐ慎也の瞳を捉えて言う。
「じゃあ、もしぼくが勝ったら……明日の花火の後、ちょっと時間くれないかな」
慎也は心臓が跳ねるのを感じた。
──きた。
あかりから花火に告白することをあらかじめ聞いていたが、正直、半信半疑な部分があった。だが、それが嘘ではないことがたった今葵本人によって証明された。
慎也は葵にバレないよう、ランニングに合わせて呼吸を整え、心を落ち着かせようと試みる。
しかし、早鐘を打つ心臓が運動によるものか、それとも葵の発言によるものなのか、いまいち判然とせず、余計にその意味を強く意識してしまう。
返事がないことに葵は不安げな顔を覗かせる。慎也は半ばやけくそになって彼の方を一瞥し、それから前を向き、勢いよく駆け出す。
「……いいよ。じゃあ、よーいどん」
慎也のタイミングで始まった宿まで競争は、当然の如く葵が一歩出遅れる。だが、程なくして追いつき、二人はかなりのハイペースで走ってきた道を戻っていく。
たらたら走っている後方組の何人かとすれ違った。彼女らは楽しそうにおしゃべりに興じていたが、前方からものすごい勢いで駆けてくる二人の姿が視界に入ると、珍しいものでも見たかのように会話を止め、そして振り返った。
「めっちゃ青春って感じ!」
「それにしてはガチすぎでしょ!」
後ろの方からそんな会話が聞こえてきたが、すぐにアスファルトを蹴る音と心臓の鼓動に打ち消されていった。
慎也は顔に差し込む陽に思わず目を細める。
だが、スピードは緩めない。
湖畔の澄み切った空気を肺いっぱいに吸い込む。あれだけ苦しく感じていた息が束の間、和らぐ。
耳をすませば、隣から一定のリズムで跳ねる靴音と呼吸が自分のそれと重なり合って、文字通り、彼とぴったり息が合ったように感じる。それがなんとも愉快で心地いい。
慎也は勝敗も、花火も、この後に控える里沙子のハードメニューも走ってきた道に置き去り、ただ、夢中になって駆けていった。
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