第19話 変化


 朝、涼しかったのがまるで儚い幻であったかのように、灼熱の太陽がジリジリと肌を焼く。汗で滲んだ背中にポリエステルのTシャツがまとわりついて非常に不快だ。

 あかりは、照りつける太陽から逃れるようにしてフェンスの外に並んだ木陰の一つに腰を下ろした。暑いことに変わりはないが、それでも直射日光がない分、いくらかマシに思える。


 首筋を撫でていく微風に感謝しつつ、ぼんやりと目の前の風景を眺める。

 フェンスを隔てた向こう側のブロックのコートで女子テニス部らしき人影がプレーをしている様子がちらちらと窺えた。統一感のないTシャツの数々が行ったり来たりしている。まるで、色とりどりに散りばめられたチョコスプレーのようだった。自分も去年はあのチョコスプレーのひとつだったかと思うと、少し笑えてくる。

 そうしてとりとめもない思考に時間を費やしているとぎゅるる、と腹の虫が鳴いた。


 そろそろ宿に戻ろうかな……。


 あかりがチラッと背後を振り返ると、威勢のいい声でプレーしている男子たちがフェンス越しに見えた。まだ粘るつもりらしい。

 思わずため息が出てしまう。こういう時、部長という立場を恨めしく思う。それと同時に小太りの顧問のことも恨んだ。


 遡ること十数分前。

 午前の練習を終えて、いざ帰ろうとした時、あろうことか小太りが部員にたちに向けて「昼食までまだ時間あるから係じゃないやつはもう少し打っていってもいいぞー」と告げた。

 当然、打ち足りない男子はいて、彼らは残るのだが、問題はその数が些か多かったことだ。すると、どうなるか──答えは小太りが「高坂、時間になったら皆を連れて戻ってこい」とあかりにタイムキーパーの役割を担わせるのだ。

 おかげで、宿で軽くシャワーでも浴びながら昼食を待つはずが、滝のような汗をかきながら、クレーコートの砂埃に塗れる羽目になってしまった。

 隙を見て、コートの外に出ていなければ、今頃乾涸びたミミズみたいになっていたかもしれない。


 あかりは腕時計を見やる。切り上げる時刻まではまだあと十五分ほどあった。このまま影を薄くして休んでいよう。そう思って座り直したあかりの目線の先には、どこからともなく現れた里沙子がいた。


「うわああっ」


 あかりは心臓が止まりそうになる。


「や。少年」


 彼女は悪戯が成功した子どものような無邪気な笑顔で声をかけた。


「……り、吉浦先輩。びっくりさせないでくださいよ」

「あははっ。だって君、ぼーっとしてるんだもん」


 快活な笑い声が響く。里沙子はかなり機嫌が良さそうだった。


「それで、どうしたんですか? わざわざ男テニのコートまで来て」


 彼女の機嫌が良いことに、あかりは嫌な予感がしたが、もはや尋ねざるを得なかった。そして案の定、その予感は的中することとなる。


「うむ。少年よ、一戦どう? 相手してくれてた二人がくたばっちゃって暇なんだ」


 まるで「一杯やらない?」と酒の席にでも誘うかの如く、里沙子は気軽に言ったが、特に後半の部分、あかりは聞き流すことができなかった。


 ──里沙子先輩に付き合わされてた相手って……。


 あかりはつい最近似たような話を聞いたことを思い出し、彼女の背後を覗くと向こうのフェンスで項垂れている二つの影を見つけて戦慄する。それは乾涸びてミミズのようになった慎也と柚香だった。


「どう?」


 震え上がるあかりに対し、里沙子はプレッシャーをかけるような素敵な笑顔でもう一度尋ねたのだった。





 時間も少ないということで里沙子との試合は七点先取のタイブレーク形式で行うこととなった。無論シングルス、一対一のタイマン勝負である。


 あかりは手に持った二つのボールのうち、一つをポケットに押し込む。

 里沙子に「サーブあげるよ」と言われため、そうしているのだが、サーブが得意ではないあかりにとっては何のハンデにもならない。むしろ、一本めのサーブは緊張から入らないことが多いので、相手にハンデを与えているようなものだった。


 デュースサイドのセンターマーク寄りに立つ。

 対角には腰を落とし、ラケットを構える里沙子が見えた。結構距離があるはずなのに、その強者のオーラに気圧されそうになる。

 彼女と試合をするのはいつぶりだろう。ルーティンのように地面にボールをつきながら考える。すっかり遠くの記憶になったそれを引っ張り出すのに時間は掛からなかった。


『──あかりちゃん、やる気ある?』


 いつだったかの里沙子との試合の後、普段のヘラヘラしている彼女とはうってかわって、射るような鋭い目つきの彼女にそう言われた。

 確かに、あの時は県大会常連の里沙子には到底敵わないと、ある種の消化試合のような気持ちで試合に臨んでいた。実際、試合内容はひどいもので、結果も0−6で大差をつけられて敗北した。


 まあ、あたりまえだよね。


 特段気にすることなく、社交辞令的にお礼を述べてコートを去ろうとした時に呼び止められ、冷水を頭から浴びせるようにかけられた言葉がそれだった。

 怒っていたのか。はたまた失望していたのか。あるいはただ気に入らなかっただけかもしれない。その時の彼女の言葉はしこりのように胸に残り続け、それがいつしか彼女に対する苦手意識に変化していったのだろう。

 思い出したら沸々と腹の底から這い上がるように怒りが湧いてきた。


 自分が強いからってあんな言い方しなくてもいいじゃん。


 激情、というには程遠いが、今まで燻り続けていた感情がさざ波のように押し寄せる。自然とボールを握る手に力が入った。

 ネットを挟んだ向こう側のコートで構える里沙子を一瞥する。それからすぐにトスを上げた。青い空に鮮やかに映えた黄色のテニスボールが飛び込んでいく。右足に体重を乗せ、ラケットを肩の後ろにぐっと引く。


 ──入る。


 インパクトの瞬間、直感が走る。

 心地良い打球音とともに、相手のサービスボックス目掛けて飛んでいったボールは、あかりの直感通り、ボックスの内側に収まる。決して速くはないがサイドラインギリギリの良いコースだ。

 だが、素早く反応した里沙子によってあかりの渾身のフラットサーブは難なくクロスに打ち返される。

 あかりはスピン気味の彼女の球にどうにか合わせるが、わずかに振り遅れたため、打球はネットの白帯スレスレでストレートへと飛んでいく。だが、それが結果的に功を奏し、里沙子が苦しいバックハンドの体勢で打った球はボールひとつ分ベースラインを越え、アウトとなった。


 ──よし。


 あかりは心の中で確かめるように小さくガッツポーズをした。

 やれている。まぐれっぽい得点ではあるが、回転のかかったあの返しにくい球にも何とか合わせることができた。もしかして、今の私なら案外良いところまでいけるかも。

 しかし、あかりの中に芽吹いた小さな自信はすぐさま、里沙子の手によって摘み取られる。

 あかりのポイントからサービスが里沙子に移ると、彼女の、サイドラインに逃げていくようなスライスサーブに苦しめられ、あっという間に二ポイントとられる。そしてその後、再びサービスがあかりに移るも、放ったサーブは里沙子によって難なく返される。それどころか、彼女の冴え渡ったストロークから繰り出される、鋭いスピンのかかった球が容赦無く食い込んでくるため、あかりはベースラインよりもだいぶ後方に下がらざるを得ず、サーブ側の有利を活かせない後手後手の展開となっていた。

 左右に振ってくる彼女にそのまま押し切られ、カウントは1−4で差が開くばかりだった。


 迎える第6ポイント目。サービスは里沙子。

 あかりはリターンすべく、アドバンテージサイドでラケットを構えていた。

 午前の練習、加えて里沙子の球を返すべく端から端にコートを駆け回ったことで息が上がり、足にも疲労が溜まっているのを感じる。そして何より、最初の一点から全くポイントを取れていないという事実がチクチクと心にダメージを与える。


 ──ほら、やっぱり敵わない。


 心のどこかでそんなふうに思う。

 故にだろうか。里沙子の打ったサーブに対して一瞬、反応が遅れた。一瞬の遅れは、一歩、二歩の遅れに直結し、試合では命取りになる。

 加えて、彼女の逃げていくように変化するスライスサーブを警戒し、センター寄りに立っていたのが裏目に出て、実際に打たれたワイド気味のフラットサーブに対応しきれなかった。

 出遅れ。スピードのあるフラットサーブ。さらには届く範囲がフォアハンドより狭いバックハンド側。


 ──無理だ、届かない。


 あかりは球がサービスボックスに入るよりも先に追うのを諦めてしまった。奇跡的にフォールトになる、なんてこともなく、しっかりとボックス内にボールマークを残した里沙子の球は、もう一度バウンドした後、後方のフェンスにぶつかり、そして転がる。


 フェンスの甲高い衝撃音に我に返ったあかりは、慌てて転がっていったボールを拾いにいく。

 里沙子のサービスエースでポイントは1−5。ここから捲るには絶望的な差に思えた。


 タイブレーク形式なのでここでチェンジコートが入る。あかりは早足で反対側のコートへと向かった。途中、ネットを張っているポール付近で向こうからこちらに移動してくる里沙子とすれ違う。

 何とも言えない気まずさと惨めさに、あかりが思わず俯いて彼女の横を通り過ぎようとすると、すれ違いざま、耳元で彼女が失望したように小さな声で呟いた。


「諦めるんだ。残念」


 怒るでも、突き放すでもない、本当にただ、心底残念といった調子で放たれた言葉。

 だが、その言葉は棘を持っていて、深く刺すような痛みを感じさせる。痛みはじわじわと体を蝕み、やがて全身を、心を焦がすほどの激情に駆られる。


 ──悔しい。悔しい悔しい悔しい。


 わかった気になって、聞き分けのいいフリして、諦めて。その結果良いことなんて起きた試しがない。ただ、周りに合わせて、できないことから目を背けて、ぬるま湯に浸かりきっていたって何も変わらない。


 周りが変わったのはいつだって自分が勇気を出して一歩踏み出した時じゃないか。


 あかりの脳裏に慎也の顔が浮かぶ。

 彼が認めてくれたのも、体育祭のあのリレーがあったからだ。あの時、周りにどう思われようが、何を言われようが自分のやりたいことをやるって決めたはずだ。

 あかりはひとり、苦虫を噛み潰したように歪んだ自嘲的な笑みを浮かべる。

 人は変われないと言うけれど、確かにそうだ。いっときは生まれ変われたような気になるが、しばらくしたら自分でも気付かぬうちに再び元の自分に戻っている。きっと一瞬で何かを変えることなどできないのだろう。それこそ、川が長い年月をかけて岩肌を削り、その流れを変えるが如く、人間も気の遠くなるような時間を費やして、ゆっくりと目指す方向に向かっていくことしかできないのだ。


 ならば、再度自分に問うことにした。

 私は何がしたいのか、そのためにはどうすれば良いのか、と。

 答えは考える間も無く、既に胸に抱いている。

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