第20話 激戦
何やら向こうのコートが盛り上がっているらしく、声援やら感嘆やらが聞こえてきた。
慎也は地球の重力が二倍にでもなったかと勘違いするくらい重い体を起こして、声が上がった方を見やる。その目に飛び込んできたのは観衆のど真ん中で激しいラリーを繰り広げている少年と少女の姿だった。両者、見覚えのある色のTシャツを纏っている。
「なーにー? 何かあったのー?」
慎也の隣、未だ、地面の上で乾涸びている柚香が顔だけそちらに向けて尋ねる。
「……慎也だ。慎也と里沙子先輩が向こうで試合してる」
「──それマジ? 観に行かなきゃっ!」
慎也の言葉を聞くやいなや、柚香は飛ぶように起き上がり、次の瞬間にはすでに試合をしているコートの方へと走り出していた。
慎也もすぐに彼女の後を追ってコートを囲うフェンスまで近づく。すると、ちょうどどよめきが起こった。観衆の雰囲気からしてあかりがポイントを取ったようだ。
「これ、どういう状況?」
早くも沸き立つ柚香を横目に慎也は近くにいた男子部員に尋ねる。男子部員は女子と話すきっかけができて嬉しいのか、少々得意げに事のあらましを語った。
「何でも、女テニの吉浦先輩が慎也に試合を持ちかけたらしい。最初は慎也が押されてたんだけど、途中で盛り返して、今の慎也のポイントで三回目のデュースになる。いやあ、吉浦先輩めっちゃ強いけど、慎也もすげえよ」
なぜ彼が誇らしげなのか、という疑問は残るが、さても状況は理解できた。
慎也はところどころ錆びたフェンスの隙間を縫って、再びコートの中の二人へと目を移す。
里沙子はゆらゆらと体を小刻みに揺らしてリターンの体勢を取っていた。ならばサーブはあかりか、と彼女の方に視線を向ける。だが、その姿を捉えた瞬間、慎也は背筋がゾッとするような感覚を覚えた。
息が上がり、顎の先から汗が滴るのも構わず、とり憑かれたかのように一心不乱にボールを地面につくあかり。
周囲に広がる観衆のざわめきなど、まるで聞こえていないかのような無機質な表情。だが、その瞳は揺るぎなくボールの着地点に吸い寄せられている。
──すげえ。
慎也は思わず喉を鳴らした。
彼女は極度の集中状態、いわゆるゾーンというやつに入っているようだった。
慎也はその身で経験したことは無いものの、前に一度、大会でゾーンに入っているだろうな、という選手を見かけたことがあった。その選手も今のあかりと同じように、自分だけの世界に没頭しているような印象を受けたのだ。
県大会の上位常連の里沙子が実際、どれほどの強さなのかは、試合を見たことがないので計り知れないが、例え、彼女が最高のパフォーマンスを発揮したとしても、今のあかりならばそれさえ凌駕することができるんじゃないか。そう思わせるくらいに、彼女は底知れないオーラを放っていた。
慎也が固唾を飲んであかりに見入っていると、メトロノームのように規則正しくボールを弾ませていた彼女の手が不意に止まる。そして、その手はゆったりとした動作で天に突き上げられた。まるでスローモーションのようなサーブトス。全身を弓状に大きくしならせて繰り出されるラケットはインパクトの瞬間まで加速度的にスピードを上げ、その後は慣性に従って振り抜かれる。
惚れ惚れするようなサーブのフォームだった。
そうして放たれたフラットサーブは、かなりのスピードにもかかわらず当然の如く枠内に収まり、待ち構える里沙子の元へ吸い込まれるように向かっていった。
正々堂々、強者に立ち向かっていくその心意気を表したかようなあかりのボディど真ん中をつくコース取りに、里沙子は素早く半身で射線上から逃れ、速球をいなすようにしてストレートへと返した。
あかりはバックハンドの構えをとると、里沙子のベースライン間際まで沈み込んでくる深い球をクロスへと返す。里沙子はそれを再びストレートへ。あかりは鋭い打球にフォアハンドで合わせてセンター寄りにロブを上げた。
互いに一歩も譲らぬ攻防を繰り広げる。
だが、先に隙を見せたのはあかりの方だった。淀みなくオープンコートを狙ってくる里沙子のスピンボールに押され、苦し紛れに打ったロブが僅かに浅くなる。里沙子はその瞬間を見逃さなかった。一歩、二歩と前に出た彼女はバウンドした球が落ちてくるのをしっかり待って、鋭角へと叩き込んだ。球威はそれほどでもない。だが、まるで針の穴を通すような正確なコース取りで、サイドラインギリギリを攻めている。
かけられたスピンも相まってあかりが取るのは不可能に思えた。
しかし、あかりは諦めなかった。鋭角を狙われたとわかるやいなや、ボールの落下地点へと走り始める。彼女はかなり疲労を溜めているはずの足を懸命に動かした。
だがそれでも──
──間に合わない。
慎也がそう悟った瞬間、あかりは飛び込んだ──ボールの落下地点へと。
ボールは、地面につこうとする間際、滑り込んだ彼女のラケットによって再び宙へと舞い上がる。
まさに執念とも言えるあかりのプレー。
勝ちたいという彼女の強い気持ちが痛いほど伝わってくる。慎也は全身の毛が粟立つのを感じた。
彼女なら、本当に──
しかし、現実は無情だった。
あかりが全身全霊をもってして上げた球は、ネット前に詰めてきていた里沙子のボレーによって、容赦なく反対側のサイドへと落とされる。
あかりも、慎也も、観衆たちさえも息を呑んだ。気持ちだけでは越えられない壁がそこにはあった。たかが一点、されどその一点で彼我の実力差を思い知らされたのだ。
慎也はあかりに同情する。「相手が悪かった」「あかりはよくやっていた」そんな言葉が次々と頭に浮かんでくる。
だが、立ち上がった彼女の顔を見た瞬間、それらは全て吹き飛ぶ。
あかりの瞳は未だ、勝利を強かに狙うが如く、怪しい光を湛えていたのである。心に灯した炎はまだ潰えてなどいない。
慎也は勝手に諦めていた己が心を恥じた。まだ何も終わっていない。気づけば、観衆に交じって叫び出していた。
迎える第18ポイント目。里沙子のアドバンテージ。サービスも彼女だ。
あかりは肩で息をしながら、リターンの構えをとる。里沙子がサービスモーションに入ると、それまでの喧騒が嘘のように辺りは一気に静まり返った。そして、水面に一滴の雫を落としたような心地よい打球音とともにプレーが始まる。
センター寄りの内に逃げていくスライスサーブ。素早く反応したあかりはバックハンドでそれを返す。深い、良いリターンだ。だが、里沙子はあかりを走らせるように確実にオープンコートを狙ってくる。あかりも負けじとそれに食らいついていく。
──ジリ貧。
慎也は慌てて浮かんだ言葉を否定する。だが、あかりと里沙子ではコントロールの正確性がまるで違った。
あかりは大まかに打ちたい方向を決めて打っている様子であるのに対し、里沙子のボール捌きはまるでボール自体が意志を持っているかのような印象を受ける。当然、コントロール力に劣るあかりは後手に回らざるを得ず、苦しい体勢を強いられ、なおのこと打てる範囲は限られてくる。
あかりの毛先と顎から汗が滴る。息を荒げ、表情を苦しげに歪ませる。それでも必死に里沙子の球を追いかける。
慎也は祈るような気持ちでストロークの応酬を見守った。
だが、再びあかりの球が浅くなる。里沙子はその瞬間を待ちわびたかのように、先ほどと同じようにベースラインを超えて前へと詰めた。
あかりはセンターに戻っている。
どっちだ、どっちに打つ──
癖のない里沙子のフォームからコースを予想するのは困難だった。しかし、あかりは──
──右に動いたっ!
あかりは勢いよくデュースサイドの方へと駆け出す。それと同時に、まるで彼女に吸い寄せられるかのように、里沙子がその方向へ球を送り出した。
彼女は打たれるコースを見抜いていたのか──否、あかりは自身の勘を頼りに、里沙子が際どいクロスに打つことに賭けたのだ。
慎也はもはや何度目かもわからない鳥肌が全身を覆う。
プレー中の里沙子も驚いたような表情を見せていた。彼女もあかりの動きに意表をつかれたのだろう。
一歩間違えれば、真逆の結果を生みかねない大博打。だが、あかりは見事、チャンスをその手に引き寄せた。あとはモノにするのみ。
ゆったりとしたフォアハンドの構え。球との距離感。右足から左足への体重移動。視線の先はインパクト。ダウンザラインへ伸びていく球筋。
何もかもが完璧だった。彼女も手応えを感じているに違いない。慎也が、観衆が、そして里沙子でさえも長い1ポイントの決着を確信した瞬間──
──パチンッ
何かが鋭く弾けたような音がコートに響き渡った。続けてクレーコートにボールが弾む鈍い音。それからフェンスの甲高い衝撃音が立て続けに響く。
辺りはしんと静まり返る。
隣の男子の唾を飲み込む音がいやに大きく聞こえた。しばしの間、慎也は状況を飲み込めず放心状態になる。
だが、あかりと里沙子がネット越しに握手を交わし、周りからまばらな拍手が起こるのを見て、悟った。
──あかりが負けた。
彼女が放ったストレートへのウィニングショットは、ネットの白帯にぶつかり、浮いた。そして、本来の軌道とは異なる美しい弧を描きながら、やがて地面へとぶつかる。ベースラインの外側に無機質な痕跡を残して──
まるで一度は微笑みかけた勝利の女神が手のひらを返して嘲笑ったかのようなイレギュラーだった。
「最後、惜しかったよなー」
「チャンスが来て焦ったんだろ」
「それか疲れてやけになったんじゃない?」
「俺だったらあそこはクロスに返すな」
観衆たちが口々に感想を述べながら、フェンスを離れていく。慎也は適当なことを宣う彼らに怒りを覚える。
──違う! 攻め急いだわけなんかじゃない。あの場ではあの球威でストレートを狙うしかなかった。里沙子に取られてはまた後手に回る展開しか見えない。体力と技術、両方を考えた上で試合に勝つためにはあれしかなかった!
慎也は彼らに言い返そうと口を開く。だが、それよりも先に鮮烈な言葉を浴びせた者によって遮られる。
「慎也の気持ちもわからないあんたたちには一生かかっても勝てないわよ」
冷水を浴びせかけるようにぴしゃりと言い放った柚香は、口を開けてポカンとする彼らに一瞥をくれてやると、すぐに背中を向け、あかりの方へと駆けていった。
その様子を見て慎也も、今すべきことを思い出し、慌てて彼女の後を追う。
あかりはコートの中でひとり佇み、天を仰いでいた。表情はわからない。
「慎也!」
先行していた柚香が声をかけた。彼女の声に気づいたあかりはゆっくりとこちらに顔を向ける。
その瞬間、かけようと思っていた言葉は全て吹き飛んだ。
「……ごめん、私、俺、負けてそれで……全然男らしくない……」
彼女は涙を流していた。必死に堪えようと手で拭うが、涙はますます眦から溢れ出ていく。
彼女の言葉を聞くやいなや、柚香はあかりをその胸に抱き寄せた。
だが、身長差があるため、柚香があかりの胸に飛び込んだ形になり、結果、表情を隠せないあかりは困ったように照れながら笑い泣く。
そんなことはお構いなしに柚香はその胸で叫ぶように言った。
「男らしいとかそんなの関係ない! 慎也はめちゃくちゃかっこよかった! あんな女なんかより、私の慎也の方が百倍、ううん、千倍強かった!」
平静で聞いたら小っ恥ずかしくなるようなセリフ。だが、感情が昂っている今はそれくらいが心地よかった。
柚香の宣言を聞いてあかりは泣きながらも嬉しそうに微笑む。あれだけ殺伐としていたテニスコートが今は暖かく、穏やかな場所に感じられた。
「いやあ、青春だねえ」
弛緩した空気を一気に緊張へと導く声が聞こえた。
振り返ると、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた里沙子の姿があった。
「……何か用ですか」
敵意剥き出しの視線で、今にも獰猛な大型犬のようにぐるる、と唸り声を上げそうな柚香が尋ねる。
慎也は心の中で柚香に加勢した。
「おーこわいこわい。あたしは対戦相手の健闘を讃えに来ただけなのに」
「あんたに──」
言い返そうとする柚香をあかりが手で制する。そして、彼女はそのまま一歩前に出て、里沙子のいたずらっぽい色の浮かんだ瞳をまっすぐに見つめて言った。
「また、試合してください。次は絶対勝ちます」
里沙子は驚いたように目を見開く。だが、次の瞬間には普段のいたずらっぽい目に戻っていた。
「言うようになったねえ、少年。楽しみにしてるよ」
そう言って彼女はひらひらと手を振りながら踵を返し、歩いていく。
慎也が本当に底知れない人だな、とその後ろ姿を眺めていると、不意にその背中が振り返った。
「あ、言い忘れてたけど、あかりちゃんとドーベルマンちゃん、午後もよろしくねっ」
ただ一つ言えるのは、彼女は魔王、もしくはバケモノであるということだった。
慎也は堂々と去っていく里沙子を見て、なぜ、お淑やかの権化みたいな恵先輩がこんなバケモノじみた人と付き合っているのだろう、と不思議に思うのであった。
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