第21話 花火

 夕闇を切り裂くが如く、花火がシャーっと音を立てて真っ白な火花を散らす。


「わあっ! 慎也見てみて!」


 柚香は手に持った花火を小さく振りながら、無邪気な笑顔をこちらに向けてくる。

 あかりが子どもっぽい彼女の様子に口元を緩めつつ、「綺麗だね」と返すと、彼女は花火に照らされたその頬を紅に染め、恥ずかしそうに俯いた。

 柚香の反応に首を傾げるあかりだったが、やがてその意味を理解し、慌てて手を振る。


「いや、今のは違くて──」


 花火を綺麗と言っただけで、柚香のことじゃない──そう否定しようとするも、それも何だか無粋なような気がして口を噤んでしまう。実際、柚香も綺麗なのだから問題はないはずだ。


 二人の間をススキ花火が流れる音だけが埋める。

 あかりは妙に気恥ずかしい気分になって、落ち着かないように視線を彷徨わせた。

 辺りを見渡せば、月の光を反射してきらきら揺れる山中湖の湖面に交じって、至る所でススキの穂が揺れるように手持ち花火が赤、青、黄と色とりどりの光を放ち始めている。

 そして、その横で大騒ぎしている男子たちやそれを見て笑う女子、仲睦まじそうに笑い合う男女の姿。


 ──ああ、やっと終わるんだなあ。


 あかりはこうして最後の花火を迎えられたことを喜ぶ。そして、怒涛の三日間を振り返ってしみじみと感慨に耽った。


 たかが三日間とはいえ、あかりにとっては十分に長い合宿生活だった。

 初日のミーティングから始まり、練習メニューの伝達や細かい指示出し、タイムキーパー。さらに顧問からの連絡を部員に共有したり、時間にルーズな部員たちの尻を叩いたりもした。それに加えて、朝から晩までテニス漬けの集団生活。あかりは心身ともに疲労し切っていた。

 だが、いいこともあった。夜、「部長、お疲れさん」と部員たちがコンビニで買ったカップアイスをくれたり、朝のランニングの後、里沙子が「くう、流石にランニングは勝てないかー」と悔しそうにしているのを見たり、久しぶりに柚香とゆっくり話す時間ができたり。

 慎也と入った風呂も悪くなかった。里沙子との試合は死ぬほど悔しかったが、何となくの日々から目標へと向かう日々に変わる良いきっかけとなった。


 全部ひっくるめて考えると、来年また参加してもいい──いや、やっぱないな。


 今年の合宿を総括し、案外楽しんでいた自分に驚いたが、来年に思いを馳せるのはやめておいた。来年のこの時期にはおそらく引退して、本格的に受験勉強に勤しんでいることだろう。


 ……今年で最後か。


 憂鬱なバスも、テニス漬けの毎日も、ストレスフルな集団生活も、嫌と言うほど走った山中湖の湖畔も、そして、花火も。

 あかりは少し切ない気分になる。が、慌てて首を振りその気分を振り払った。なぜなら、今年の合宿はまだ終わっていない。それどころか、あかりにとって重大なイベントがまだ一つ残っているからだ。


 ちらり、と慎也の方に顔を向ける。

 彼はアホみたいに間抜けな顔をして女子テニス部の仲間たちと花火を振り回して遊んでいた。

 全く、彼には緊張という概念がないのだろうか。

 あかりは呆れてため息をつく。

 それか、すっかり忘れてしまっているのかもしれない。この後に葵からの告白が控えていることを。

 無論、返事は既に決まっているし、他人事と言われればそれまでなのだが、あかりはどうにも彼のことが心配でならなかった。


 安岐くん、可愛いからなあ……。あの上目遣いをされたら気が変わってサクッとオッケーしちゃうかもしれない。


 あかりが葵の姿を探すと、彼は慎也を遠目に見ながら楽しそうに笑っているところだった。

 ガラス玉を思わせる大きな瞳が花火に照らされてきらきらと細められている。

 その瞳に吸い込まれるように頷く慎也の姿が現実の如く目に浮かんで、あかりは思わず苦笑いを浮かべる。慌てて「あ、いや、ちょっと待った今のなし!」と否定するところまで想像できた。

 まあ、別にそれでも良いけど、と面倒くさくなり、半ば投げやりに考え始めたところで、とんとんっと弾むように隣から肩を叩かれる。


「慎也も花火やろうよ、ほら!」


 柚香に毒々しい色合いをしたスパイラル模様の花火を手渡される。


「火、あげるよ!」


 そう言って、彼女は自分の持つ点火済みの花火を近づけ、あかりの花火がつくのを待った。少しして慎也の花火の先から、白煙とともに緑色の火花が流れ始める。二つの花火が重なって、まるで寄り添う双子の流星のように見える。


「慎也」


 二人で手元の花火を眺めていると不意に柚香が呼んだ。

 彼女の方に顔を向けると、濡れたようなその瞳と目が合う。


「……これからも一緒にいようね」


 柔らかい笑顔でそう言う彼女に、思わず胸がドキッとしてしまう。

 自分にその権利があるのかはわからない。だが、彼女とこうして花火を突つき合っている時間が永遠に続いてほしい。そう願って答える。


「……うん」


 自分を映す柚香の瞳が潤む。その瞳に吸い込まれていくようだった。あかりは心臓の鼓動が痛いくらいに早く強くなっていくのを感じる。


 やがて、柚香が目を閉じて、そして──


「やあやあ、お二人さんはこんな端っこで何をしているのかな?」


 唇と唇が触れようとしたまさにその瞬間、からからかうように弾んだ、覚えのある声が聞こえてくる。二人が慌てて離れると、すぐそばで里沙子がにんまりといやらしい笑みを浮かべていた。


「あっ! もしかして二人、今いい感じだった? ごめんねえ、邪魔しちゃって! 私のことは気にしないでどうぞ続けて!」


 身振り手振りを交えたわざとらしい彼女の演技に、隣では柚香が羞恥と怒りで顔を真っ赤にして震えていた。

 柚香は里沙子をキッと睨みつける。


「……あんたねえ! もう限界よっ! この三日間の恨み、まとめて晴らしてあげるっ……!」


 柚香は新しい花火を手にしたかと思えば、目の前ですぐに着火し、降り注ぐ火花を里沙子へと向けた。

 里沙子が颯爽と踵を返すのと柚香が駆け出すのはほとんど同時だった。二人はわーとかきゃーだとか叫びながら、追いかけっこを始める。

 あかりはその様子を遠巻きにしながら「元気だなあ」とほっとしたような気持ちでいた。


「何の騒ぎだ?」


 あかりが自分の唇をふにふにして弄んでいると、またしても声をかけられる。


「慎也」


 振り向くと両手に花火をごっそり抱えた彼が不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 いつもと変わらぬ彼の様子に心が落ち着いていくのを感じる。だが、それを認めるのも何だか癪に触るので素知らぬふりをして言う。


「柚香が『ずっと一緒にいたい』ってさ。よかったじゃん愛されてて」

「おう」


 茶化すように言ったつもりだったが、彼は至って真面目な顔をして答えた。

 あかりが「ちぇっ、少しは照れてもいいのに」と内心悔しがっていると、慎也の表情がふっ、っと和らいだ。


「別に俺だけじゃないと思うせ。あかりのことも大好きだって言ってたぞ」


 彼が口にした言葉にあかりは思わず目を見開いた。


「柚香が……?」

「おう。それはもう号泣するくらいにな」


 あかりは言葉も出ないほど驚いた。「……これは言っちゃまずかったか? いや、でも本来あかりがあの場にいたわけだしな……」などと慎也がぶつぶつ呟くのももはや聞こえていない。


 ……そっか。私、ちゃんと柚香の友達やれてたんだ。


 ずっと胸に蟠っていたものがストン、と落ちるような、そんな感覚の後、安堵や喜び、嬉しさなどが混じった心地よくて暖かい気持ちが広がる。人はこの気持ちを幸せと呼ぶのだろう、と初めて心の底から理解した気がした。


 あかりは目頭が熱くなるのを感じた。

 そういえば、この合宿は泣いてばかりだ。この体たらくでは慎也に笑われてしまうかもしれない。うっかり涙が落ちる前に、あかりは未だうんうん唸る慎也に尋ねる。


「この後、安岐くんのところに行くんでしょ?」


 慎也は「ああ、負けちまったからな!」と威勢よく答える。何に負けてそうなったのかはまるでわからなかったが、落ち込んでいる様子でもないのでとりあえず無視して話を進めることにする。


「……そのことなんだけどさ、私なりにいろいろ考えてみたんだけどね……」

「おう」


 あかりの言葉に耳を傾ける慎也。

 あかりはなかなか踏ん切りがつかない自分を鼓舞するようにぎゅっと拳を握りしめる。そして顔を上げ、しっかりと彼の目を見て言った。


「やっぱり、私たちの入れ替わりのこと安岐くんにちゃんと話したい」


 花火の閃光が湖面を照らし出すように、心にかかっていた靄が晴れ、今やるべきことがはっきりと見えた気がした。

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