第11話 すとん

 全く予想外の人物に声をかけられて、あかりは思わず身体が硬直するのを感じた。

 彼の幅広い交友関係を鑑みれば、彼女と接点があってもおかしくはないのだが、それでも驚きを隠せなかった。


「どうした? 後輩くん。あたしのこと忘れちゃった?」


 体育祭、昼下がりの部室棟の前、生ぬるい風に明るめのショートボブを靡かせながら首を傾げるのは、女子テニス部の部長、吉浦里沙子だった。


 傷心に任せて校内をふらふらしていたら、よりにもよって今一番会いたくない人物に出会ってしまった。

 引き攣った笑みを浮かべるあかりに対して、彼女はニシシ、と効果音でもつきそうな快活な笑みを浮かべている。


「……里沙子先輩」

「お、さっそく下の名前で読んでくるとは君もなかなかやり手だね」


 里沙子は意地悪な目をしてからかった。


「あ、いやっ! すみません! 吉浦先輩」


 あかりは女子テニス部で染みついた後輩根性から思わず頭を下げて謝る。その態度に里沙子は少し意外そうな表情をしたが、すぐに「いいよいいよ、そんなにかしこまらなくて」と手を振る。

 だが、あかりは指摘されてなお、「はいそうですか」と切り替えられるほど図太い神経をしていない。


「あ! じゃあ間をとって、りっちゃんて呼んでもらおっかなー?」


 微妙な表情でお茶を濁していたのがバレたのか、里沙子が挑戦的な口調で顔を近づけてくる。


「……勘弁してください」


 あかりがたじたじになっているのを見て、彼女は愉快そうにけらけらと笑った。


 やっぱりこの人苦手かも……。


 慎也と揉めている上にリレーで失敗して気持ちが沈んでいる今、彼女と話すのはなおさらに億劫だと感じる。


 そもそもあかりは先輩、という人種があまり得意ではなかった。

 無論、恵という例外はある。

 しかし、ほとんどの場合、友達とは一線を画す先輩という立場の人間に対してどう接すればいいのか、どこまで近づいていいのかがわからず、それが結果的に苦手意識へと繋がっていた。

 友達がやがて親友になる可能性を秘めているのに対して、先輩はどこまでいっても先輩のままだ──少なくとも高校生でいるうちは。

 恵にしたって親友というよりは慕っている「先輩」というイメージの方が強い。


 同じ理由で後輩との付き合いも不得手であり、もっと言えば、人付き合い自体苦手なのではという疑いも生まれてくるが、とりわけ里沙子のような性格は相性が悪いことは確かだった。


 ふざけているようで真剣。抜けているようで抜け目ない。何も考えていないようで常に周りを把握して行動する。

 言葉にすると一目置かれるような性格に聞こえるし、実際、女子テニス部の一、二年生は彼女に親しみを覚えつつもしっかりと尊敬している。

 しかし、あかりは彼女のそのギャップが逆に捉えどころのない感じがして妙に近づき難いと思ってしまうのだ。

 今にしたって強引に距離を詰めてきてはいるが、彼女の心はしっかりと一定の距離を保っているように見えた。


「ま、出会ったの恵とちゅーしてる最中だしね。ちゅーだけに」


 里沙子はくだらない洒落をきかせてウインクする。

 だが、それを聞いたあかりは一言も発せず、口をあんぐりと開ける。里沙子の駄洒落がくだらなすぎて言葉を失ったのではない。彼女から飛び出た純然たる事実に絶句したのだった。


「あ、うっかり名前バラしちゃった? まいっか。キミには付き合ってることバレてるしね」


 ちろっと舌を出す里沙子。それから再びあかりにグイッと顔を近づけて、「口も固いようだし」と囁き、試すような目を向けてくる。

 シングルタスクのあかりの処理能力は、里沙子と恵が付き合っているという事実、その一点を呑み込むすることに全てを割いており、もはや目の前の彼女には目もくれていなかった。

 思考をフル回転させる中、かろうじて絞り出した言葉がそれだった。


「…………恵先輩の、どんなところをす……好きに、なったんですか」


 あかりは祈るような気持ちだった。

 願わくは彼女の笑えないジョークであってくれ、と。「本気にしちゃってやだなあ、もう!」と背中をバシバシ叩いてくる、いつもの苦手な彼女であってくれ、と。

 あかりが里沙子の苦手とする態度を懇願するのはおよそ初めてのことだろう。

 だが、その願いは易々と打ち砕かれる。


「──うーん、目かな。初めて会った時に強い目をしてたから」


 今までのおちゃらけた態度がまるで嘘かのように、彼女は真っ直ぐな瞳でそう答えた。

 あかりの知っている恵は、優しく包み込んでくれるような暖かい目をしている。頼りになる先輩ではあっても強い先輩だと感じることはない。

 だが、彼女は「強い目」だと言った。その一言だけで里沙子があかりの知らない恵の一面を知り、同時に心より愛していることを理解してしまった。もはや彼女たちが真に恋人かどうかなど疑う余地すらなかった。


「……もう一つだけ訊いてもいいですか。あの、こんなこと訊くのは失礼かもしれないんですけど…………同性愛ってどんな感じ……なんですか」


 里沙子は質問の意図を押し図ろうとするように目を細めた。

 あかりの背筋に緊張が走る。しかし、張り詰めた沈黙は長くは続かず、やがて里沙子が空気を弛緩させるように小さく息を吐いた。


「うーん、私にとっては気になった子がたまたま女の子だっただけ、って感じだからなー」

「え、じゃあ男の子とも普通に恋愛できるってことですか?」


 もう一つだけ、と誓約をつけておきながら、ふってわいた疑問をそのまま口にしてしまう。言葉にしてからあまりにも不躾だったかな、とあかりは不安になったが、里沙子は苛立つ様子もなく、むしろ口元を手で隠してにまにまとした笑みを見せた。


「なーにー? もしかしてあたし、後輩くんに狙われちゃってるのー?」


 あかりは手と首を振って慌てて否定する。そして、やはりこの人は少し苦手だ、と改めて思う。真面目な時とそうでない時の緩急が激しい。肝心なところでのらりくらりと躱されて、彼女の本当の姿が掴むことができない。


「ま、ひとつ言えることは恋にも愛にも人間にも、普通なんてないってことだよ、後輩くん」


 かと思えば、こうして真剣な眼差しをぶつけてくる。


 そして、彼女はあかりが返事をする間も無く、「また会えたら会おう」などと宣って飄々と去っていってしまった。


「それ、二度と会わないやつじゃないですか」


 誰もいなくなった部室棟の前で、あかりは遠くなっていく後ろ姿にひとり呆れながら呟く。

 あんなに苦手だと思っていた里沙子との会話にもかかわらず、思い詰めていた心は少しばかり軽くなったような気がした。




 ***




 午後のプログラムもつつがなく進行していき、種目は二年生男子の棒倒しへと移っていた。

 その苛烈さから二年生女子の棒引き同様、希望者によって行われ、希望しない残りの者は騎馬戦に参加する予定だ。

 騎馬戦が苛烈でないかと言われれば、決してそんなことはないのだが、それでも足蹴にされて押し潰される、なんてことはないのだからまだ優しい方ではあるのだろう。


 そして、例の如く他クラスの女子達を引き連れて慎也応援隊を結成した柚香は、棒倒しに参加する慎也、もといあかりの奮闘を見守るべく、応援席の最前列の一部を陣取って黄色い声援を送っていた。


 もし入れ替わっていなかったら自分があれを受けていたのか、と考えると苦笑いが込み上げてくる。同時に現在、柚香たちの応援を一身に受けているあかりを気の毒に思った。


「相変わらず、すごいね」


 同じように彼女に同情しているのか、隣にいる和樹も慎也応援隊を遠巻きに見ながら苦笑いを浮かべていた。

 彼は半ば強引に推薦され、泣く泣く参加したあかりとは異なって、棒倒しを希望しなかった。

 故にこうして一緒に応援できるわけだが、慎也としては少々複雑な気分だった。十秒に一回は彼の目にあかりがどう映っているのか気になってしまい、純粋に応援に集中できないのだ。


 和樹は本当に自分に好意を抱いているのか。想いを寄せているというのはあかりの勘違いで、実のところは単なる親友としか思っていないのではないか。そもそも、好意さえ抱かれていない可能性だってある。

 だが、午前のリレーで見せた真剣な眼差しは無関心とは程遠かった。


 そんな考えが頭の中をぐるぐると回り、思考を断ち切ろうとすればするほど、余計に隣の和樹に意識が向いてしまう。

 もはや、自分の方が和樹に気があるんじゃないかという気がしてくるくらいに、慎也は心をかき乱されていた。


 だから、この瞬間、正気を失っていたと言っても過言ではない。つまり、混乱していたのだ。


 いつの間にか始まっていた棒倒しそっちのけで慎也は和樹の横顔を見つめる。

 眼鏡のレンズ越しでない彼の瞳は、競技に出ている最中である親友の姿を真っ直ぐに捉えて離さない。

 彼が本当に想っている相手は、本当はすぐ隣にいるというのに。

 慎也はゆっくりと口を開いた。


「──お前ってさ、慎也のこと好きなの?」


 言葉にした途端、自分と和樹の二人だけを残して周りから音が消えたような気がした。

 白熱する棒倒しの真っ最中、視界の端には慎也応援隊、紅組の応援団、さらには多くの生徒達が色めき立っている。

 騒々しいどころではない音と声が響く中だったが、その全てはどこか遠い地で起こる幻のようだった。


 和樹はあかりから視線を外しておもむろに慎也の方を振り向く。

 彼は何を尋ねられたか理解できていないのか、あるいはそもそも周りの喧騒にかき消されて言葉が十分に届かなかったか、目をぱちくりと瞬かせて不思議そうな表情をしていた。

 だが、すぐにいつもの柔らかい目に戻って、そして答えを口にする。


「……うん。好きだよ」


 ──驚きはしなかった。和樹の答えに動揺して慌てふためくかと思ったが、意外に落ち着いている。そんな自分が不可思議だった。

 勘違いの可能性を潰すべく、冷静にもう一つ問う。


「恋愛的に?」

「恋愛的に」


 和樹ははっきりと言い切った。彼と慎也の視線が交差する。優しさの中に覚悟が感じられた。


 和樹は──和樹は俺のことが好きだ。


 慎也は胸につっかえていた何かがストンと下に落ちていったような気がした。

 腑に落ちる、ともまた違った感覚。おそらく、誰でもない和樹自身の口から聞いたことで、初めて現実と向き合う覚悟ができたのだろう。


「そっか」


 自分でも驚くくらい素っ気ない返事だった。

 だが、和樹は気分を害する様子もなく、一言「うん」とだけ応えて、再び競技へと視線を戻す。慎也もそれにならって前を向く。ちょうど白組の棒が倒される瞬間であり、応援席は一層沸き立っていた。


 歓声と悲鳴が入り混じる中、この場に似つかわしくないくすくすとした笑い声が隣から聞こえてきた。

 慎也は戻した顔の向きを再度右へと向けて、笑い声の主に視線を送る。

 おかしそうに口元を緩める彼はその視線に気づいたらしく横目で「ごめんごめん」と謝りつつ、なおも笑った。


 いよいよ困惑した表情を浮かべる慎也に、ようやく笑いが収まったらしい和樹がにやっとした笑みを浮かべて言った。


「深刻そうな顔で何言われるのかと思えば恋バナって。石田さん、やっぱり面白い人だ」


 慎也は先ほどまでの厳粛な気持ちがどこかへ飛んでいってしまったかのように気が抜けた。


「仕方ないじゃん、気になったんだから……」

「そうかもしれないけどさ、それにしてもあの顔……ふふっ」


 慎也の顔を思い出したのか、和樹が噴き出す。

 立て続けに笑われた慎也は面白くない。面白くないけれど、救われたような気持ちになった。


「そんな変な顔してた?」

「そういうわけじゃないんだけど、なんか雰囲気がねえ。あと、『お前』呼ばわりされるとは思わなかったよ」


 いたずらっぽい目をして彼はそう言う。

 むぐ、と慎也が何も言い返せないでいると、彼はその様子にもうひと笑いしてから、大きく伸びをして「さて、僕は勝って元気になってる慎也を決勝戦に向けて煽てくるとするよ」と冗談めかして言った。

「石田さんも一緒に来る?」と言う彼の誘いに首を振ると、彼は軽く返事をしてリレーの時と同様、小走りで駆けていく。


 慎也はいつもと変わらぬ彼の、小さくなっていく後ろ姿を眺める。と、何者かに後ろから控えめな様子で肩を叩かれた。

 振り返れば、小動物然とこちらを覗き込む葵がいた。背丈は同じくらいのはずなのに、こうして並ぶと彼の方がひと回り小さく感じる。


「安岐……くん、おつかれ。応援団はいいの?」


 ふと湧いた疑問を口にする。彼らはこれから始まる棒倒しの決勝に向けて、いっそう応援に力を入れるはずだ。


「うん。ちょっと水分補給。今日蒸し暑いから」


 葵は手にしている水の入ったペットボトルを見せた。


 慎也は空を見上げる。

 鉛色の雲に覆われているため陽射しはない。

 だが、初夏を過ぎて梅雨まっしぐらの今の季節、学ランを身に纏い常に体を動かす応援団たちにとっては不快この上ないだろう。


「そっか。応援団頑張ってるもんね! 男子たちにはこのまま棒倒し、勝ってほしいね」


 葵を労いつつ、勝敗の行く末を案じた。

 彼ら応援団の懸命な応援が届けば良いなと思う。慎也としても、胸にあった蟠りが解消されたおかげで、彼らの競技にようやく集中できる。彼はあかりの活躍を純粋に願った。

 きっと、葵も同じように紅組の勝利を祈っていることだろう。そう思って彼に視線を戻したが、彼はどうやらそれどころではないらしく、辺りをキョロキョロと見回していた。


「どうした?」


 落ち着かない様子の葵に慎也が声をかける。


「ううん。……ただ、さっきまで森本くんと一緒だったみたいだから邪魔しちゃ悪いかなって」


 彼は上目遣いでおずおずと言った。どういうことかと訊こうとして、慎也は合点がいく。


 ああ、そういえば安岐に和樹のこと好きだって言ってあったっけな。


 彼には和樹の誕生日プレゼントを買いに行くのに付き合ってもらい、その恋も応援してもらっていることを思い出す。それと同時に、あかりとの言い合いも想起されて、慎也はどうしたものかと考えあぐねる。


 あかりは和樹のこと好きだって知られるの嫌がってたしな……。


 むむむ、としばしの間唸った後、慎也は両手を顔の前で合わせて懇願するように言った。


「……悪いんだけど、私が森本くんのこと好きだって言ったこと、あれ無しにしてくれない?」


 慎也の頼み込むような態度と言葉に、葵はぱちぱちと瞬きして首を傾げる。


「秘密ってこと? それならもともと誰にも言わないよ?」

「そうじゃなくて……何というか、あれは気の迷いだった的な?」


 ますます葵が怪訝そうに眉を顰める。


「今は好きじゃないってこと?」

「いやっ! そういうわけじゃないかもしれないというか」


 一度口にした言葉を取り消すのは何と難しいことか。

 慎也はあかりとして、和樹に想いを寄せていることを完全に否定せず、好きかもしれないという可能性だけを残す方法に苦心していた。 


「そっか……とりあえず何も無かったことにすれば良いんだよね?」

「そうしてくれると助かる!」


 未だ解せない顔をしていたが、ともかく了承してくれた葵に慎也は感謝する。

 再度手を合わせて不可解な頼みを聞いてくれた彼を拝んでいると、棒倒しの決勝戦が始まる旨を伝える放送が聞こえてきた。


「あ、ぼくもう行かなきゃ」


 葵はいそいそと手にしていたペットボトルをあおった。


「がんばって、応援団」


 駆け出そうとする葵に慎也がそう伝えると、彼は嬉しそうに「うんっ」と返事をして学ランの裾を風に靡かせていく。

 だが、それも束の間、すぐに何かを思い出したかのようにぴたっと足を止めた。

 慎也が何事だろうと首を傾げていると、彼はわずかにうわずったような声で呟いた。


「……あ、あかりさんのことも応援するから」


 決勝戦に向けて再び応援席が喧騒に包まれ始める中、彼の言葉は確かに慎也の耳に届いた。


「──うん」


 慎也が応える。葵は再び駆け出す。

 最後まで彼が振り向くことはなく、どんな表情をしていたかはわからない。けれど、その背中はいつもより大きく見えた。

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