第10話 昼食
てんやわんやの大騒ぎだった柚香筆頭の女子連中がようやく救護テントを後にする。
柚香も心配してくれるのはいいのだが、ああも大げさにされると、まるで今から自分は死ぬのかと言う気にさせられる。
「ごめんねー、慎也くん。柚香のやつはこっちで宥めとくからゆっくり休んでー」と彼女の取り巻きのひとりに引き剥がしてもらうまで、おちおち手当てもままならなかった。
苦笑いで手を振りながらあかりが彼女らを見送っていると、またもや別の来客が救護テントを訪れる。
「大丈夫? 結構派手に転んだみたいだけど」
声の主は心配そうにこちらを覗き込む和樹だった。あかりは心拍数が跳ね上がるのを感じた。
保健室の先生は「またか」という胡乱な目つきで彼を一瞥したが、一人で来たのと、彼が騒ぐようなタイプに見えなかったのが幸いして、特に何も言わずにあかりの傷の手当てに戻った。
「大丈夫大丈夫、ちょっと擦りむいただけだから」
あかりは精一杯強がってそう答える。
転んだ時はなんともなかったのだが、今になって両膝と左肘、そして右の掌がズキズキと痛んできた。加えて心も痛い。今夜の風呂はたいそう沁みそうだった。傷にも精神にも。
「……それよりもごめん。俺のせいでうちのクラス、ビリになっちゃって……。みんなに何て謝れば……」
あかりは申し訳なさでいっぱいだった。自分があのまま転ばずに走り抜けていたら間違いなく一位だった。調子に乗ってそれをふいにした自分が許せない。
和樹は俯くあかりの胸中を察してか、ふわっと柔らかい声色で言う。
「誰も慎也を責めたりなんかしないよ。慎也が四位からみるみる一位に上がっていく瞬間すごい盛り上がったんだから。佐々木さんだって別に怒っていなかったでしょ?」
先ほどまでいた柚香の言動を思い出す。確かにされたのは叱責でなく心配だった。
「……そうかな」
あかりのどこか不安げな表情に和樹はゆっくりと頷く。それから湿っぽい雰囲気を吹き飛ばすような乾いた音を二度響かせた。
「ほら、元気出して! 午後の紅白対抗リレーも出るんでょ? みんな応援してるから」
「……そうだね。頑張るよ」
和樹に励まされると不思議と元気になる。これが惚れた弱みなのだろうか。心なしか傷の痛みも引いてきたような気がする。
ちょうど手当ても終わったようで、保健室の先生は使った器具の片付けを始めた。
視線を落とせば、両膝には仰々しいガーゼがテープで貼ってあった。走りやすいように絆創膏に変えてあげるからリレーの前になったらいらっしゃい、と保健室の先生に言われ、返事とお礼を言ってからパイプ椅子を立ち上がる。
「次はなんだっけ?」
あかりは彼に尋ねつつ、クラスの応援席に戻るために歩き出す。
「女子の棒引きだよ」
和樹もその隣を歩きながら彼女の疑問にさらりと答える。それから、思い出したかのように付け加えた。
「そうだ、佐々木さんの応援しないとね。あと石田さんも」
予期せず、自分の名が和樹の口から出たことにあかりは目を見開いて驚く。
「……なんで石田さん?」
思わず尋ねると、和樹は当然のことのように答える。
「え? だって慎也、最近仲良さそうじゃない? ちょこちょこ話してるの見かけるし」
「そ、そうかな」
あかりは周りからはそう見えていることにわずかに動揺した。
まさか放課後の、元に戻れるかの『実験』を見られてはいないはずだろうが、もしその場面を見られたら、と思うと肝が冷える。
そうでなくとも、自分と慎也が仲良くしているという光景は本来あり得ないものなのだから、これからはもう少し慎重な行動を心がけようと改めて思った。
もっとも、今は決裂中なので心がけようにも会うことすらないが。
そんなあかりのどぎまぎする内心とは裏腹に和樹は呑気な口調で言う。
「あの子、おもしろいよね。憎めない性格っていうかさ。僕も最近石田さんとよく話すんだけど、なぜか『ずっと前から友達でしょ?』みたいな距離感で喋ってくるのがおもしろくて。なんか慎也と話してるみたいなんだよね。それを慎也に言うのも変だけど」
和樹は眼鏡の奥にいたずら心を忍ばせてにやっと笑う。彼にそんな意図はないだろうが、入れ替わっていることを見透かされているようで思わず目が泳いでしまう。
「え、あ、いやー、俺そんな図々しい感じかなー?」
「そんな感じでしょ」
和樹は、ははっと声を上げて笑う。あかりは遠回しに自分が図々しいと評価されていることに対して、今この場にいない慎也を恨んだ。
「……でも最近の慎也はあんま図々しくないかな。なんか出会った頃の慎也に戻ったみたいだ」
慎也に対しての怨念が表情にも漏れており、それを見て気を悪くしたと勘違いしたらしい和樹がさりげなくフォローを入れてくる。あかりは彼に気を使わせてしまったことを申し訳なく思った。
だが、それよりも気になることがあった。
「出会った頃……俺ってどんなだったっけ?」
あかりの知る慎也は、今和樹が言った「図々しい」、良く言えばフレンドリーな性格だ。いつも輪の中心にいて、テニス部の次期部長を任される責任感と人望がある。それが、フレンドリーでもなければ、責任感も人望もそれほどない自分と似ているとは、昔の慎也はいったいどんな感じだったのだろうか。
あかりの問いに、和樹は昔のことを思い出すが如く、目を細めて遠くを見やった。
「うーん、慎也って大雑把に見えて結構気いつかいなとこあるでしょ? 知り合ってすぐの頃はまだまだ僕に遠慮してる部分が多い感じがしたなあ。でも不思議と気は合ったよね?」
同意を求める和樹にあかりは半ば反射的にうんうんと頷いた。
「よかった。僕だけじゃなかったんだ」
和樹が嬉しそうにはにかむ。
大雑把に見えて結構気いつかい──和樹の言う慎也の一面。
あかりは妙に納得していた。
確かに慎也はぐいぐい皆を引っ張っていくように見えて、遅れている人がいないか何気なく後方も確認している。そんなイメージだ。彼は意外と視野が広くてなおかつ神経質な気がする。
案外、私と似てるのかもな。
なんとなくそう感じた。
無論、あかりは気いつかいと言うよりは気にしいの方が近いくらいには気を遣うし、視野の広さに自信はあると言っても、彼のように集団から遅れている人がいたらその隣について無駄話するような優しさと行動力は持ち合わせていない。
故に性格が似ているかと言われれば、決してそんなことはないと思うが、それよりももっと根底にある何か──気質みたいなものが似通っている気がした。
だから──
「だからさ」
和樹が口を開く。あかりはいつの間にか考え込んでいた自分に気づいて慌てて顔を上げる。
「何か困ったことがあったら遠慮しないで言ってよ。僕たち親友でしょ?」
穏やかで優しい、そしてほんの少しの切なさを湛えた瞳があかりを貫く。
その時に初めてあかりは理解した。
ああ、そうか。彼はもう諦めているのか。それでもなお、想うことを止められずにいる。
不意に涙が込み上げてきそうになるのを一面に広がる曇り空を見上げて堪える。何と痛くて、何と苦しくて、何と残酷で、そして何と美しい笑顔なんだろう。
「……なんだかこっ恥ずかしいこと言っちゃったな。……あ! ほら、棒引きが始まる! 前の方にいこう、慎也」
彼の危うげな笑顔は背中に隠され、空には競技が始まる合図の空砲が響き渡った。
***
「あかりやばかったねー」
柚香がけらけらと笑いながら話しかけてくる。
やばかった、と評されたあかり、もとい慎也の棒引き。その決勝戦は見る者に鮮烈なインパクトを与える内容だった。
まず、開始のスターターピストルの音ともに、慎也は威勢よく咆哮をあげながら棒のもとへと全力でダッシュ。そこそこの重さのある竹棒を一人で自陣まで引きずり、開幕早々戦果を上げた。
それからすぐに二本目の棒を取りに行ったが、運悪く紅組の慎也一人に対して白組の敵三人という不利を強いられることとなった。
初めこそ、慎也の気迫に気圧された三人が及び腰になり、拮抗した引き合いになったが、流石に人数差には勝てず、結局、棒を相手陣地に持ち帰られてしまう。それでもなお、最後まで慎也が棒を離すことはなかった。白組の三人は竹棒に加えて全力で抵抗する慎也まで引きずっていかねばならず、彼女らの体力を大幅に削ぎ落としたことは間違いなかった。
砂埃に塗れ、泥だらけになりながらも、棒引きはいよいよ最後の大一番を迎えた。
残る竹棒一本を紅白それぞれ総力戦で引き合う。さながら綱引きの様相を呈すそれは、二年生女子のみで行われる棒引きにおいて、普段は見せない彼女らの意地と意地のぶつかり合いだった。
その最終決戦の最前線に慎也はいた。
綱引きよりも持ち手は短く、また持ち場も決められていないため、同じく最前線にいた相手の白組の女子と額がくっつきそうになる程競り合った。
そして数分に及ぶ激闘ののち、じりじりと紅組が自陣まで引きずり込み、見事勝利を収めたのであった。
あまりにも白熱した彼女らの戦いぶりに、応援席が興奮を抑えられない生徒と、若干引き気味の生徒に二極化したのは後にも先にも今日のこの棒引きだけだろう。
しかし、その当の本人、慎也はまさか自分がフィーチャーされているとは露知らず、鬱憤を晴らしたばかりか勝利まで手中に収めることができて、ひとり満足感に浸っていた。
「え? なにかやばかったかな?」
慎也が本気でわからず間抜けな顔をしているのを見て、柚香はますます笑った。
そして、ひと通り腹を抱えて満足したのか、彼女は不思議そうな顔の慎也に「ごめんごめん」と手を仰いで謝り、その頬の紅潮が冷めやらぬまま二人で応援席へと戻ることになった。
いったい何がおかしかったのだろう、という慎也の疑念は、程なくして始まった応援合戦によって吹き飛ばされた。
応援合戦は学ランを着た団員たち主導で行われる。
団員の中に自ら立候補したのだという学ラン姿の葵を見つけ、普段あまり見せることのない真剣な彼の顔つきに慎也は凛々しさを感じた。
そんな葵含む、団員たちの息がぴったり揃った演舞の後、今度は全員参加で紅白それぞれの応援歌を歌った。
毎年刷新される応援歌は、例年、有名な曲に流行りのフレーズなどを乗せる、割とゆるい感じの替え歌である。今年も例に漏れず、ドラマの主題歌のメロディに乗せて、洒落のきいたフレーズを皆で口ずさんだ。
完全な内輪ノリでおそらく傍から見れば白けるに違いないが、慎也はわりあいこの時間を気に入っていた。普段はすれ違っても素通りするような他クラス、あるいは他学年の生徒が皆一様に笑顔で、同じ歌を歌っているのだ。お祭り気分というか、イベント特有の浮き立った空気感に包まれていると、自然と胸も弾む。
そして、最後に互いの健闘を祈り合うエール交換を行い、緩まった雰囲気も引き締められ、無事午前の部は終了となった。
生徒は皆、弁当を取りに一度教室へと戻る。それから各々好きな場所で仲の良い人と昼食を取るのだ。
「あかりー、お弁当どこで食べるー?」
柚香にそう訊かれ、慎也がどこかいい場所はないかと思案していると、後ろから耳馴染みのある落ち着いた声が飛んできた。
「僕たちも一緒に食べていいかな?」
振り向くとそこには和樹、そしてその後ろにばつの悪そうな顔をしたあかりの姿があった。
「もっちろん!」
慎也が答える間も無く、柚香が右手でグッドサインを出す。
「あの! ぼくもいいかな……なんて……」
今度は横から尻すぼみの挙手が上がる。見れば、自信なげに視線を行ったり来たりさせている葵がいた。学ランは脱いだようでみんなと同じ体操服姿になっている。
「あったりまえよ!」
いやにテンションが高い柚香に歓迎され、葵はほっとしたように笑顔を見せた。
仲違い中の入れ替わり相手、想いを寄せられている親友、妙に気になる少女のような少年、そして恋人。
かくして奇妙な関係が入り乱れる昼食に、慎也は神妙な心持ちで挑むのであった。
体育祭の昼食時間──普通ならば、午前の程よい疲れと非日常感にあてられて、口数も多くなるものだが、慎也は妙な緊張のためか、むしろ弁当を食べ進めるスピードが速くなっていた。
そしてもう一名、このなんとも言えない気まずさを共有する者がいた。それが慎也と絶賛仲違い中のあかりである。彼女もまた、自分の弁当を見つめる時間が多く、顔を上げる際であっても、絶対に慎也とは目を合わせまいとする意志が垣間見える。
「それにしても石田さんの棒引きすごかったなあ」
和樹が感嘆したように息を漏らす。
「だよね! あれはやばかったよ」
仲間を見つけて喜ぶ柚香。
「みんなそう言うんだけど、そんなにだった?」
和樹に見つめられて一瞬どきりとするが、意識しまいと極めて冷静に、普段通りを演じた。あかりはこちらに視線を向けることはなかったが、なんとなく意識は傾いている様子だった。
「あんなに鬼気迫る感じのあかり初めて見たもん。ね?」
「うん。石田さんっていつも笑ってるイメージだったから、こう負けず嫌いなところがすごい新鮮だったというか」
柚香と和樹がそれぞれ思ったことを口にする。
「ぼくも応援団で間近に応援してたんだけど、すごい、その……かっこよかった」
葵まで加わって誉められるものだから、慎也はくすぐったい気持ちになる。気持ちにつられて顔つきもだらしないものになっていた。
和気藹々とした楽しい雰囲気。
だが、今まで押し黙っていたあかりが突然立ち上がったことによって空気は一変する。
「ごめん。俺ちょっと……飲み物買ってくる」
彼女は手短にそう伝えると、教室を出て行こうとする。俯いていてその表情はよく見えなかったが、少なくともただ喉が渇いたから席を外すようには思えなかった。
葵が一緒に着いて行こうする素振りを見せるも、あかりは「ごめん。すぐ戻るから」と彼を待たずにさっさと教室を出ていってしまった。
皆、呆然としつつ、廊下に消えていくあかりの影を追う。そして、彼女の姿が完全に見えなくなった頃、和樹が小さくため息をついた。
「慎也、リレーで転んだの落ち込んでたからなあ」
彼自身も気を落としたようなその呟きに、慎也は当時の場面を呼び起こす。
ゴールの手前、十数メートルのところで足をもつれさせたあかりが思いっきり転倒。
正直、慎也自身も悔しさを覚えていた。自分自身の活躍や名誉のためではなく、いつしか純粋に彼女を応援していたのだ。
慎也の心からは彼女への怒りなどとうに消え失せており、それどころか、あかりを傷つけたことに対して幾許かの罪悪感を抱いていた。
無論、謝れることなら謝って仲を修復したい。
だが、どうにもきっかけが掴めなかった。
リレーでの彼女の活躍を祝うのに託けて、謝ろうとも考えたが転倒事件もあり、そういう雰囲気では無くなった。
せっかく世界でたった二人、人格が入れ替わってしまった者同士なのだから、ここで易々と関係が断ち切れてしまうのは後味が悪い。
もっと言えば、元に戻る未来さえ失う気がしてならないのだ。
慎也の口から無意識にため息が漏れる。彼が漏らした苦悩に弾かれるようにして柚香が立ち上がる。
「あたし、いってくる!」
どこへ、と訊かなくとも向かう場所は知れていた。彼女を慰めにいくのだろう。柚香は食べていた弁当をほったらかして飛び出していった。
「──ひとりにしてあげた方が……って行っちゃったか」
和樹が仕方なさそうに肩をすくめる。一瞬、慎也は自分も後を追おうかと考えたが、ぞろぞろと何人も来られるよりは、彼の言う通り、ひとりになれる時間をつくってあげた方がいいだろう、と思い直した。
二人が抜けた昼食の場に静けさが訪れる。
人が減ると、それまで他方に向いていた注意も和樹に集まるようになり、自然と意識せざるを得ない状況が生まれる。
あかりが抜けて、ただでさえ口を開きにくい空気が漂っているのに、それが慎也を余計に喋りにくくし、静けさはやがて沈黙へと変わっていく。
「……あはは、なんか一気に静かになっちゃったね」
なんとも言えない雰囲気を察してか葵が場を和ませようとする。だが、笑顔が少しぎこちない。
「……そう、だな」
「……ね」
微妙な空気は質量をどんどん増していつしか重苦しいものへと変化していた。
三人が口を開くタイミングを見計らっていると、まさに天啓というべきか、三人の空気どころか教室の雰囲気ごと一変させてしまうような出来事が起こった。
あかりが出て行った開けっぱなしの教室の扉から、慌てたようにひとりのクラスメイトの女子が駆け込んでくる。
あまりの慌てように扉付近にいた生徒のみならず、奥の方で弁当をつついていた生徒の何人かも何事かと顔を上げた。
駆け込んできた彼女は息つく間も無く、何かを探すようにぐるっと教室を見回す。
そして、扉付近を振り返る生徒が多数を占め、教室全体が異変に気づいたかという頃、彼女は口を開いた。
「誰か! 午後の紅白対抗リレー出られる子いない?」
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