第三章

第9話 ゴールテープ

「慎也ー! がんばれー!」


 あいにくの曇り空の下、遠くの方から黄色い声援が飛んでくる。


 おお、なんか体育祭っぽい。


 あかりはリレーの列の最後尾に並びながら、ぼーっと他人事のように思う。


 体育祭──生徒の中にはこの日を待ちに待っていた者も多い。だが、あかりにとってはそれほど重要な行事でもなかった。

 運動が嫌いというわけではないが、だからといって、好きでも得意なわけでもない。せいぜい丸一日授業が潰れてラッキー、くらいの感覚しか持ち合わせていなかった。

 そう、今までならば。


 しかし、今回の体育祭は去年と大きく異なっていた──具体的に言えば、性別が。


 女子とは違って男子の体育祭は「ガチ」だ。負けず嫌いの慎也ならばなおのことだろう。

 故に体育祭が始まる数日前からあかりはナーバスになっていた。

 慎也に対する皆の期待を裏切るわけにはいかない。これほどまでにプレッシャーを感じたのは入れ替わってから初めてだった。皆に入れ替わってしまった事実を打ち明けなかった昨日までの自分を、少し恨めしく思う。


 あっ、いけないいけない、応えなきゃ。


 あかりは自分が黄色い声援を送られているのを思い出し、送ってきた一団に苦笑いで軽く手を振る。だが、あくまで気にしていない素振りを貫き通す。

 彼ならきっとそうするだろうから──


 あかりのちょっとした、しかもぎこちない反応にもかかわらず、声援を送っていた一団は沸き立つ。

 一団、と言うよりも騒いでいるのはほとんど柚香のようだが、彼女にしては珍しく大きな声を出して応援しているのはおそら

く、周りの女子たちへの牽制の意も含んでいるからだろう。あれは私の彼氏ですよ、と。

 つくづく自分の空気を読む力というか、人の考えていることがなんとなくわかってしまう鋭さが嫌になる。こればっかりは女に生まれた者の宿命と言わざるを得ない。


 柚香の方へちらっと目をやると、どうやらずっとこちらを見ていたらしい彼女と目が合う。

 彼女は嬉しそうに表情を明るくし、隣の女子に何かを伝えていた。遠くて何を言っているかはわからないが、大方「ねえ慎也と目が合っちゃった」とかそんな感じだろう。

 あかりは知らず知らずのうちにため息をついていた。


 慎也はモテる。リレーもアンカーだし。


 だから、柚香はああして彼女アピールをしていないと、どこぞの女に掻っ攫われてしまうとでも思っているのだろう。あるいはただの見栄か。

 もっとも、慎也は誠実な男なので別の女に乗り換える可能性など無きに等しいはずだ。

 そうでなくとも、今は女である自分が彼になりかわっているのだから、どんな女に言い寄られようとも絶対に靡くわけがないのだ。


 そこまで考えて、あかりは先日の一件が脳裏に過ぎった。


 和樹は男が好きなんだからあかりにチャンスはないんじゃねーの、だっけ。


 誠実な印象の割に彼もなかなかデリカシーのないことを言うものだ、とあかりは内心苦笑いを浮かべる。

 だが、まあ言われてみれば確かにそうだった。自分に言い寄ってくる女に全く興味が湧かないように、男性が恋愛対象の和樹に女である自分がいくら想いを寄せたとて、到底叶うはずのない恋なのである。


 でももし、慎也の身体を持った今の自分なら──?


 慌てて首を振る。

 それではこの前慎也が口にしていた、まるで根も葉もない憂慮をまるっきり体現することになってしまう。

 無論、和樹との映画を心の中で「デート」と表現していたくらいには、そういった感情を秘めていることは認めよう。

 だが、実際に想われているのをいいことに彼に言い寄ったり、気持ちを打ち明けたり、あまつさえ恋人になろうなどと考えることはなかった。


 それなのに、慎也は決めつけた。

 だから、抗議の意も込めて断固否定しなくてはならないのだ。

 自分のために。そして、和樹のためにも。


 なんか、思い出したらむかむかしてきた。


 ぐらぐらと煮えたぎる熱湯、とまではいかないが、紅茶くらいの温度はあるかもしれない。

 ちょうどリレーの順番も回ってくる頃だった。あかりは湧き上がる苛立ちを走るエネルギーに変えてやろうと意気込む。


 定位置について、前走者の男子が回ってくるのを今か今かと待ちわびる。

 その前走者の彼がコーナーを曲がって突っ込んでくる。

 彼は同じクラスの男子だが、あまり足が速いイメージはなかった。だが、強者揃いのリレーで七人中前から四番目の位置につけているのだからそれなりには速いはずだ。


 一人、また一人とバトンが引き継がれ、スタートラインから離れていく。結局、最後まで順位は変わらず、あかりのクラスは現時点で四位のようだ。

 ぱっとしない印象の彼が必死の形相で近づいてくるのを確認し、ゆっくりと助走をつける。そして真っ赤なバトンを渡された瞬間、あかりは勢いよく駆け出した。


 早い。

 足がよく回る。

 それに、全身がバネになったかのようにしなやかな反動がつく。

 気分はテレビで見るオリンピックの陸上選手だった。


 気持ちいい!


 あかりは自分のものとは思えない足の速さに爽快感を覚える。

 後続をどんどん引き離し、追い抜いた生徒の数も一人二人と増えていく。そのたびに、わあっと歓声が上がるのを遠くに聞いていたが、走るのに夢中でそこまで気が回らない。そして気づけば、前には誰もいなくなっていた。


 どこまでも、どこへでも走っていけるような気がした。いつの間にか、胸に抱いていた苛立ちも消えている。


 最後の直線、数十メートル先に真っ白なゴールテープが張られている。あかりにとって、それは初めて見る光景だった。

 特別足が速いわけでもない彼女は小学校の時から徒競走で一着を取ることなどなかった。

 故に彼女のゴールはいつも、すでにテープが切られた後。大差をつけられるくらいに足が遅ければ、もう一度ゴールテープを張りなおすこともあるだろう。だが、人並みには走れるあかりの着順は決まって三番、ないしは四番目だった。


 あかりは周囲の人の耳に届くんじゃないかと思うくらいに、心臓が高鳴っているのを感じた。全力で走っていることによる心拍数の上昇だけでない、気持ちの昂り。


 ──テープを切る瞬間ってどんな感じなんだろう。


 期待が高まる。

 トラック一周近く走っているはずなのにまるで疲れを感じなかった。それどころか、ゴールに近づくにつれてさらに早くなっているようにさえ感じた。


 地を蹴って、蹴って蹴って。


 応援と歓声が高まる。ゴールテープまであとわずか。


 初めての一着──


 あかりは早くも胸を張り、ゴールテープを切る準備をし始める。


 だが、次の瞬間、突如世界が暗転した──否、そうではない。


 あかりは衝撃が止んだ後、おもむろに目を開ける。そして、間近に地面があるのを見て、自らが転んだことを悟った。


 トップスピードの状態から結構派手に転んだはずだが、不思議と痛みは感じなかった。アドレナリンによるものだろうか。


 すぐに立ちあがろうとするあかりの横を、ついさっき追い抜かした男子が走り抜けていく。そして、彼はそのままゴールテープを切っていった。


 あかりは心にじんわりと喪失感が広がっていくのを感じた。


 地べたから見上げる白いゴールテープは、まるで這いつくばるあかりを嘲笑うかのようにひらひらと空を舞っていた。




 ***



 

「あちゃー、慎也派手にやっちゃったねー」


 和樹はおどけたように額に手を当てて苦笑いする。だが、その目にはわずかに動揺の色が浮かんでいることに慎也は気づいた。


 それもそのはず、彼が先ほどまで真剣な目で追い続けていた、リレーの最終走者である親友がゴール直前で足をもつれさせて思いっきり転倒すれば、驚きもするだろう。

 しかし、隣で同じようにリレーを見ていた慎也は、和樹の抱く感情が友情ではないことを知っていた。が故に、その真剣な眼差しがどうにも邪なものに見えて仕方がなかったのだ。

 慎也は、あかりが盛大に転んだ時、その無様な姿に和樹が幻滅するのではないかと内心期待もしたが、彼女を心配するような彼の表情を見て、ああやっぱりな、とどこか安心もした。

 彼が頑張っている人間に対して尊敬こそすれ、失望などあり得ないことなど、他でもない自分自身が一番わかっていた。


 和樹は素晴らしい人格者だ。それゆえに慎也は未だ、気持ちの整理をつけられていなかった。

 今までと変わらず親友であり続ければいいじゃないか、と寝る前に強引に結論づけても、朝、登校して和樹の顔を見ると決意が揺らぐ。


 関係を迫られたり、気持ちを打ち明けられたりした方がまだマシだったかもしれない。純粋にこちらにそんな気はない、親友としてしか見られない、と正直に告白できるのだから。それでこの微妙な関係にひと区切りつけて、再び親友として再スタートできる可能性だって十分にある。

 だが、和樹に告白する気はなさそうだった。好意を仄めかしてすらいない。

 現に今まで彼の気持ちに気がつくことができなかったのだ。あかりと入れ替わることがなければ、一生知ることのない事実だっただろう。


 でも、慎也はその事実を知ってしまった。だから、厄介な気持ちが次から次へと湧き出でるのだ。


「ちょっと僕、慎也の様子見てくるよ」


 思考が頭の中をぐるぐると渦巻いている慎也をよそに、和樹は駆け出していた。

 遠くなっていく彼の背中をぼんやり眺めながら、慎也はひとりため息をつくのであった。

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